16 子どもは旅立つ
「樹里が運転してきたの?」
玄関ドアを手で押さえたまま、和美は車に目をやった。
「まあ、うん。夏休みに合宿で免許取ったから」
「――そうか、留年したんだったね」
樹里は少し目を伏せた。
「雪道、怖くなかった?」
「それほどでも……」
「あ、ごめん。寒いね」
手招きすると、樹里は黙ってブーツを脱いだ。
和美はもう一度だけ車を見やり、ドアを閉めた。
――行ったかな。
後部座席から、恭平はそっと身体を起こした。スモークガラスだから見つからないだろうが、ひやひやした。
樹里が初めて雪道を運転するというから心配でついてきたものの、無事に到着したら、あとはなにもすることがない。
恭平はごろりとシートに寝ころび、ダウンコートのポケットに手を突っ込んだ。手の中のカイロがじんわりと熱を伝えてくる。
白い息が天井に向かっては消えていく。
――良い話が、できるといい。
「いま何歳だっけ?」
廊下を進みながら、和美が尋ねた。
「十八」
「大きくなったね」
「そう?」
「うん。なんかすっかり変わった」
言いながら、次のドアを開けた。
樹里は息をのんだ。
「……ここでもリビングがアトリエなんだね」
「まあね。もとは二部屋あったんだけど、壁ぶち抜いて広くしたよ」
「確かに……前より広々してるね」
思わず、樹里はコートを掴んだ。
自分がごく自然に、吉野邸を「前の家」だと母に言ったことに驚いた。
和美は黙って、絵筆の向きをそろえたり、キャンバスをなで始めた。
樹里はおもむろにアトリエを歩いた。壁際には、まだ乾いていないキャンバスがいくつも並んでいる。
――お母さんは、ここで生きている。
キャンバスの木枠を見つめていたら、不意に、なにかがすっと、身体の奥に落ちていった。
離婚してからも、和美とは何度かメールを交わしていたが、ずっと実感が湧いていなかった。母が別の場所で暮らしているという事実が。しかしここに来てやっと、樹里は、安心した。
――お母さんは、ここでちゃんと生きている。
「――ねえ。今日はどうしたの?」
はっとした。
アトリエテーブルにもたれて、和美が苦笑した。「聞きたいことがあってきたんでしょ?」
「……聞きたいこと……。うん……」
樹里はのろのろとコートを脱いだ。「久しぶりに、お母さんとお茶飲みたいなー、と思って」
和美があんぐりと口を開いた。
「なに? まさか、お父さん再婚するとか?」
「え? なんで」
「なんかすごく濁すじゃん。いつもはハッキリものを言うのに」
「いや、だからお茶が飲みたくて来たって言ってるやん!」
和美は眉を下げた。
「はあ、そうですか」
ローブのポケットに両手をつっこみ、キッチンに立った。「なに飲む?」
「コーヒー。豆からがいい」
和美はうなずいて、豆の袋をワークトップに置いた。戸棚からミルを出す。
その間に樹里はキッチンに入り、なにくわぬ顔で和美の背後を歩いた。
ゆっくりと冷蔵庫に近づく。
恭平が、絶対に見ろというのは、なんなのか……。
乳白色の冷蔵庫の扉の前で、樹里は目を見張った。
そこには、近く行われる油絵の公募展のポスターがあった。
「……お母さん」
なに~、と後ろから声がする。「これ、出品するの?」
「んー……いやぁ」
煮え切らない返事を聞きながら、樹里は磁石で貼られたポスターの角を見つめた。
そして、おもむろに手を伸ばした。ポスターの端をつまみ、そっと上にめくりあげた――
「樹里。牛乳とってー」
和美はケトルを火にかけた。「聞いてる?……」
樹里は、冷蔵庫のポスターの前で仁王立ちになっていた。その手には、フィルムカバーに入った一枚の絵があった。
「……まだ持ってたんだ、これ」樹里がつぶやいた。
「うん」
和美は目を細めた。
それは、樹里が小学生の頃に描いた、和美へのバースデーカードだった。八つ切り画用紙に色鉛筆で、ろうそくが立ったホールケーキと、和美の似顔絵が描かれている。
「引っ越すとき、うちの絵は一枚も持っていかなかったのに」
「画塾に通い出してからの樹里の絵は、正直、ちょっと好きじゃなかった」
樹里は黙って、カードを裏返した。
「でも、最近の絵はいいね」
和美はミルのハンドルを握った。「体育祭の看板、アッキーから見せてもらったんだけど、あれ、好きだわ。テーマが明確な方が、樹里の絵は素敵になるね」
豆が挽かれる音が響く。樹里は、じっと冷蔵庫の扉に手をあてた。
「進路、なにがわかんないの?」
「――お母さんは、いつから画家になりたかったの?」
ミルを置き、和美は、ワークトップに浅く腰かけた。
「さあね。いつからだろうね」
「ずっと、お母さんでいることに我慢して……それで、絵で成功したから、やっと家を出ていったの?」
ケトルの蓋が、カタカタと揺れ始めた。和美は火を止め、ペーパーフィルターの端を折った。ドリッパーにセットし、挽きあがった粉を入れる。
「ホスピタル・アートって知ってる?」
樹里は、小さく首を傾げた。
「あたしが働いていた病院が始めたプロジェクトなんだけど。樹里が生まれる前。まだ看護師として働いてた頃にさ。入院患者と医療従事者が作る病院の美術館ってコンセプトで、展覧会を開いたんだ。近所の美大とコラボして、結構大がかりだったんだよ」
「お母さんも出したの?」
「出さなかった。というか、出せなかった。準備の段階で、入院患者さんが絵を描くのを手伝ってたんだけど、その絵を見てたら、自分のなんて、恥ずかしくて出せなかった」
「上手かったの?」
「上手いとかじゃなくて、伝わってきたんだよ」
和美はケトルを持ち上げた。細口から湯気が揺らめいている。「地位とか名声とかは、もういらない。いま生きている喜び。好きなことができる幸せ。そういうのが……かつてのあたしには絶対なかったものが、そこにはあったんだ」
和美は静かにケトルを傾けた。
「あのときかな。初めてはっきりと、いつだってやりたいことは始められるんだ。そう、思えたのは」
キッチンに、コーヒーの薫りが広がっていく。「――我慢の限界が来て、家を出たわけじゃないんだよ。ずっと、いつか、そうしようと思っていただけ」
眼鏡をはずして、樹里が目を擦った。鼻をすすり、絵を、冷蔵庫に貼り直した。
マグカップにコーヒーを注いで、和美は砂糖を入れた。
「あたしが言うセリフじゃないことはわかってるけど、樹里。好きなことは譲らなくていいんだよ」
「デザインを学びたい」
泣き声のようだった。唇を震わせて、樹里は両手を握りしめていた。「うち、美大で、デザインを学びたい」
「決まってたんだ」
樹里はぐっと顎を引いた。
「言い出せなかったの? お父さんに」
「傷つけるかもしれないって思ってた……美大に行きたいとか言ったら、きっと」「二回言うけどさ、好きなら譲らなくていいんだよ。たとえそれが親でもさ」
和美はマグカップを差し出した。「思いっきりやんなよ。樹里の人生は、あたしの人生の塗り直しじゃないんだから」
玄関で樹里を見送り、和美はすぐにキッチンに戻った。
公募展のポスターを、雑紙入れに放る。
定位置に戻ったバースデーカードに、そっと触れた。
四十歳の誕生日に樹里が描いてくれた宝物。あの頃は、二人でよくお絵描きしていた。
「――上手いねぇ。樹里は大きくなったら画家になるか」
頭をなでると、小学生の樹里は、くしゃっと笑った。
――お母さんは、大きくなったら、なにになりたかったの?
「……えー。なんだろ。なりたいものにはなれたけど」
――なに?
「看護師でしょ。お母さんでしょ。やっぱそうだな。樹里のお母さんに、なれたことかな。なれて良かったものって」
――じゃあ、全部、かなっちゃったんだ。
「……どうだろう」
色鉛筆をテーブルに置いた。「どうかな……また、なにかを目指すかな」
――そっかー。樹里ねぇ、樹里はねぇ、大きくなったら、なにになるかなぁ。
そう言いながら、樹里は、屈託なく笑った。
和美はバースデーカードを裏返した。カラフルな字で、メッセージが書いてある。
『おかあさん おたんじょうびおめでとう! 大好き
おかあさんの夢がかないますように じゅり』
和美は目を細めた。バースデーカードを冷蔵庫に貼り直し、フィルムカバーをゆっくりと撫でた。
真っ白なキャンバスの前に立つ。麻の肌理を見つめ、いちど瞳を閉じる。静かに両腕を伸ばし、和美は大きく息を吐いた。
車に戻ると、恭平が後部座席で、うたた寝していた。
「ちょっと、死んじゃうよ!」
揺らしたら、がばりと身体を起こした。
「終わったのか?」
「うん」
「どうだった」
「すっきりした」
「――そうか」
そうかー、と、恭平はうなだれるようにして、ため息をついた。
「運転……恭平がして」
「お。わかった」
樹里は助手席に深く腰かけた。慣れた手つきで車を操作する恭平を眺めていたら、ふいに視界がにじんだ。
オレンジの屋根と白木の門柱が、揺れながら遠ざかっていった。
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