15 狭間
今日、あの子がやってくる。
真っ白なキャンバスの前で、和美は鉛筆でくるくると宙に円を描いた。
窓の外では、昨晩から降り続いていた雪が、庭の芝生をすっぽりと覆っている。
《進路のことで相談したいことがあります》
一昨日、樹里からメールが届いた。今日、家に来るという。
和美はローブを羽織った。バブーシュを履いてバルコニーに出る。
雪の庭からマロニエの木が伸びている。
煙草をくわえ、和美はライターの冷えた金属板を握った。
離婚して、この家に越して以来、樹里とは一度も顔を合わせていなかった。メールはたまに送っていたが、大した返事はこなかった。
もう、母親として、できることはないと思っていた。
和美は庭に向かって、煙を吐いた。今日は朝からいい天気で、誰にも踏まれていない一面の雪がまぶしい。
「――拝啓。お墓のなかのお母さん」
ぽわんと、輪っかになった煙が浮かんだ。「あたしは、いつから、画家になりたかったと思いますか」
和美の母は、5年前に亡くなった。父はその数年前に亡くなっていて、この家にはしばらく母だけが住んでいた。両親は西洋趣味で、この家も、彼らの好みで建てられたものだった。
「小学2年生のときは、お花屋さんにも憧れていましたけれど――」
小さいころから絵を描くのが好きだった。
中学生から画塾に入って、油絵の具に初めて触れた。
建明とは、画塾で出会った。このあたりでは噂の天才少年で、確かに彼の絵は美しかった。
「……お母さん。なんであたしに隠してた?」
隣家の松の木から、雪が音をたてて落ちた。頬を指すような冷たい風に、和美はローブの襟を締め直した。「二千万も遺産を残すくらいなら、なんであのとき、美大に行かせてくれなかった?」
高校生のとき、美大に進学したいと相談した。だが両親は賛成してくれなかった。
――美大なんて将来が不安定なものに、金は出せない。
「まあ確かにそうなんですけどね」
和美はバルコニーの手すりに肘をついた。「ねえ、もしも、孫が美大に行きたいって言ったら、貴方たちはどう答えます……?」
あの頃は、両親の反対にそこまで疑問を持たなかった。自分でも、美大を出て、絵で食べていく姿など想像できなかったから。
高校卒業後は、看護大学に進学した。
「家にはそこまで蓄えがない」と言いながら、看護大学に行かせてくれたことには感謝すら覚えた。
卒業後、総合病院で働き始めた。夫とは、市民対象の「健康セミナー」で出会った。
結婚して、樹里が生まれた。
一年育休を取って復職した。だが、うまくいかなかった。樹里はしょっちゅう熱を出し、そのたびに病後児保育のお世話になった。病院の仕事に行くために、娘を病院の保育室に預ける。自分のしていることがおかしく思えた。
仕事を辞めることに、夫は反対しなかった。
新卒から十五年。初めて主婦業。自分で考えて動く時間が、大幅に増えた。
幼稚園に入ると、樹里がピアノを習い始めた。
『樹里ちゃんはいいもの持ってますよ。本格的にやってみましょう』
ほどなくして、先生がもっとレッスンを増やすよう勧めてきた。
「先生……」
つい、苦笑してしまった。ダイニングで立ったまま電話している和美の太ももに、樹里がくるくるとまとわりついていた。樹里の頭をなでながら、和美は答えた。「樹里は熱が出やすくて、これ以上のレッスンは疲れると思うんです。今も幼稚園のカリキュラムで、いっぱいいっぱいみたいで」
正直、熱は断る口実だった。期待されるほど、樹里はピアノが好きそうには見えなかった。
『……お母さん。親がそんな気構えでいていいんですか』
樹里の頭に触れる手が、こわばった。
「えっと、なにが……?」
『あのね。子どもの可能性を広げてあげられるのは親しかいないんですよ。もっとアンテナ広くして、しかるべき時に、子どもの夢を伸ばしてあげないと!』
……夢? 子どもの可能性……?
不意に、太ももから下の重みがなくなった。リビングで、樹里はクレヨンを出していた。
お母さん? 聞いてます?
受話器が、早口でまくしたてる。
声は宇宙からのメッセージで、あまりに遠く、不明瞭だった。
唐突に、和美は宇宙人に向かって叫びそうになった。
知るか!
自分の夢ですら、うまく処理できなかったあたしが、子どもの夢を伸ばすなんて!
庭で、鳥が飛び立った。マロニエの枝から雪が落ちて、足跡のような穴を作った。
和美は二本目の煙草をくわえて、ライターを開いた。先端でくすぶる赤い火を見つめた。
「樹里は……小さいころから絵が上手だったよ。建明くらいに……」
――和美さんは、なんで樹里から離れようとするんですか?
いつだったか……建明に言われた。
「……いつだったっけ?」
引っ越してからも建明とは頻繁に会っているので、記憶をたどるのに時間がかかる。「……そうだ。病院だ」
2年前。樹里の高校で美術部員が自殺して、樹里がとばっちりを受けたころだ。「通学路で倒れて、病院に担ぎ込まれたんだったな……」
たまたま、樹里の親友のこずえちゃんから電話が入って、一緒に病院に行ったときだ――
病院についた和美は、こずえだけ病室に置いて、自分は同じ階の談話室で休んでいた。無料のお茶を紙コップに注いでいたら、ナースステーションの方から、慌ただしい靴の音が聞こえた。
「アッキーじゃん」
建明がびくりと足を止めた。
「……和美、先輩」
「あたしはいつまであんたの先輩なのよ」
建明は息をはずませて、病室と和美を交互に見た。
「いま樹里のお友達が来てるから。少し待ってなよ」
「いや……でも、様子を。確認しないと」
「そんな重症じゃないよ。大丈夫。それに、いま行ったら、お友達にぶん殴られちゃうかもしれないよ。駅から乗せてあげたとき、『美術部の顧問はなにやってんだ』って、助手席で怒り狂ってたからね」
建明の顔がさらにこわばった。
「ちょっと。真に受けて、さらに責任感じなさんな」
和美は休憩室のソファを叩いた。建明はよろよろと、和美の隣に腰を下ろした。
「過労だって。こめかみに擦り傷つくってたから、頭打ったのかも、って。一応、脳の検査もするけど……大丈夫だよ。気にするなとはいわないけど、そこまで抱え込まなくていいって」
「……すみません」
うなだれたまま、建明は拳を震わせた。
「あげる」
紙コップを差し出すと、建明はおもむろに顔をあげた。ゆっくり指をほどいて、受け取ったお茶を見つめた。
どこかで、インターフォンの音が聞こえる。看護師が静かな足取りで廊下を通り過ぎていく。
「教師ってのは大変だね」
「……顧問なのに……防げませんでした」
「ああ、自殺しようとした、佐久間なにがし君のこと?」
「あの件で……樹里までひどく悩んで」
「ほんと。うちは完全にとばっちりだよ」
「……向こうの家族の前では言わないで下さいよ」
「あーあ。煙草吸いたい」
「やめたんじゃなかったんですか」
「病院に来ると吸いたくなる」
「職業病の一種?」
「看護師辞めてからだいぶ経つんだけどなぁ」
「画業……順調ですか?」
建明が微苦笑した。
「まあね。離婚の理由にするくらいには」
「……前にも言ってたけど、本当に離婚するんですか?」
「する」
「……樹里はどうするんですか」
「さあ?」
和美は腰を伸ばした。「お母さんについていく、って言うなら……まあ、言わないだろうな。あの子は」
「このタイミングで離婚したら、どう見ても和美さんがヒールに映りますよ。ゴーギャンみたいなこと、本気でするつもりですか」
「あの子はあんたに託したよ」
「樹里が大切なのは俺も同じです。けど、教師としてできることは、そんなに多くないんですよ」
「はー。あてにならないやつ」
「保護者はあんたでしょ」
「はいはい、すみませんね」
和美は立ち上がって自販機に向かった。「さすがのあたしも、こんな樹里を放って離婚しないよ。樹里がちゃんと2年生に進級できたらするつもり」
建明が頭をかいた。
「そばに居てやってくださいよ」
「……無理だよ」
コーヒー缶が、鈍い音を立てて落ちた。「ほんと、無理なんだよ」
眉をひそめたきり、建明はなにも言わなかった。
二人はソファに並んで、なんということもなくカレンダーを眺めた。
「ねぇアッキー、樹里は元気になるかなぁ」
「時間が解決してくれるといいんですけど……」
「は! 消極的」
「どの口がいうんですか」
建明は紙コップのお茶をすすった。「家とか学校以外にどこか、休まる場所ができればいいんですけど……。画塾でもこじらせてるみたいだし、あいつ」
「悪いけど、あたしの新居は駆け込み寺にはできないよ」
「……ほんと、ひでぇ親」
「そうよー。あたしはひどい親」
和美はハンドバッグからガムを出した。包装紙を開いていると、建明のつぶやきが聞こえた。
「和美さんは、なんで樹里から離れようとするんですか?」
わずかに首を傾げたあと、和美は前歯でガムをくわえたまま、笑った。
バルコニーで、和美はライターの蓋を開いては閉じた。
――あたしは、娘に進路を語れるほどの大人じゃない。自分の夢すら曖昧だった、めんどくさい毒親だ。
樹里が大きくなるにつれて、怖くなった。一緒に居たら、あたしはあの子に自分の夢を託してしまうか、その才能に嫉妬してしまったかもしれない。
育て方がわからないから、せめて足を引っ張らないようにしたかった。
バルコニーの床を、和美はバブーシュで踏み鳴らした。
「……まあ、本当は、いったいなにが本音なのか、あたしもよくわからないよね」
すると、白木の門柱の前に、一台の車が止まった。
「おろろー」
白い息を吐いて、樹里が運転席から出てきた。門柱の前で立ち止まり、バルコニーの和美をじっと見上げる。
和美はひらひらと手をあげた。雪を踏んで、樹里がゆっくりと近づいてくる。
――あたしの気持ちを、樹里に伝えることもできる。だけど話せば、あの子はきっと、辛くなる。だってあの子は、あたしに似なくて、優しい子だから。
「久しぶり」
さあ、今日はこの子と、いったいどこまで話そうか。
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