18 限りなく0に近かったあなたへ
「吉野ちゃんって、俺との距離感、限りなく0に近いよね」
「え?」
――あれは、吉野ちゃんが中学生の頃だった。
なくなりかけの絵の具を絞るのに夢中で、あの子は足元に気がついていなかった。母親から譲ってもらったツナギの裾が、俺のズボンに触れていることに。
「ほら、汚れる……」
「あっ、ごめん」
「だーいじょうぶ。それより、ずっと中腰で描いてるのしんどそうだね。ほら、俺の膝に座って描いていいよ?」
またたきして、吉野ちゃんは俺の膝を見下ろした。
「――って言ったら、ほんと乗ってきそう!」
笑ったら、睨みつけられた。吉野ちゃんは顔を赤くして、絵具を片付け始めた。
「吉野ちゃんってさ、まだ誰とも付き合ったことないでしょ」
「……なんでそんなこと言うんですか」
「だって、マジで男を意識しないんだもん。この前だって、俺と一緒にお好み焼き食べに行ったのにさ」
「よく判らないんですが」
「どこが?」
「画塾の後は、お腹がすくから、買い食いするのはよくあることです。お好み焼きだって、その流れで」
「そうだね」
「だから……」
「俺と行ってもドキドキしない?」
「――紙緒先輩は」
樹里は、棚に乗せてある通学カバンを一瞥した。「気楽。クラスの男子みたいにうるさくないし」
「あー。俺って可哀そう」
「ほんとに、なに言ってるか判らないんですけど……」
そして時計を見上げた。「帰らないと」
慌ててツナギを脱ごうとして、そこで、ぴたりと手を止めた。
「ほおら! そういうところ。傷つくわー」
「いや、下にちゃんとジャージ着てますし。紙緒先輩だって、いつもはなにも言わないでしょ」
「そろそろ判ってほしくて」
俺は、吉野ちゃんの髪ゴムを引いた。艶のある黒髪がほどけた。
「ほら。もうゼロ距離」
髪を触られたまま、吉野ちゃんはじっと俺を見上げていた。「そんなんじゃ迫られても文句言えないよ」
「……ほんとに、どうしたんですか?」
腰のあたりで襞になったツナギを、吉野ちゃんはぎゅっと握りしめてた。「先輩、彼女さんいるでしょ」
なんていうか、そう……見て欲しかったんだよ。俺のこと。
どんなかたちでもいいから、そのまっすぐな眼で。
ガラス張りのエレベーターに差し込んだ夕日が、床をオレンジに染めあげた。画材がひしめく美大の廊下をスキップして、紙緒は白い息を吐いた。
――やっと、二回生が終わった。
進級作品の講評が終わり、解放感に酔いしれていた。
だから、ポケットの中で携帯が震えたとき、よく見もせずに着信を取った。
『紙緒かぁ? わしわし』
「師匠」
『元気かい?』
「はい、まあ……」
ふぉっふぉっと、くぐもった笑い声が聞こえた。今も仙人のように顎髭を伸ばし続けているのだろうか。
『実はな、来月から受験生が通うことになってなぁ。それでアトリエの整理をしてたんだわ。したら、紙緒の作品がごろごろ出てきてな』
「ああ……」
『帰省のときにでも取りに来れるか。大学の話も聞かせてほしいなぁ』
「わかりました。今年の受験生って、どんな感じですか?」
『紙緒も知ってる子だよ。吉野さ。吉野樹里』
ふくらはぎが痙攣した。
こーん、こーんと、彫刻科の石を削る音が聞こえる。
「……はいはい。吉野ちゃん。で、いつから通い始めるんですか?」
『来月からだと』
嘘だろ。3年生の終わりになって画塾に通うとか。受験に間に合うのか?
いや……美術部と自宅で腕を磨いていたのかもしれない。天才なんてそんなもんだ。
「……わかりました。ちょうど来週から春休みなんで、今月中に伺います」
『すまんなぁ』
「いえ、ほったらかしにしてたのはこっちなんで。じゃあ、また」
通話を切ったあと、手のひらが汗ばんでいるのに気付いた。
吉野ちゃん……、どうしてあの子はいつまでも俺の気持ちをかき乱す。……いや、師匠からの電話は、むしろラッキーだったと思おう。吉野ちゃんが通い始める前に、さっさと帰省して片付けてしまおう。
クリスマスのときみたいに、偶然会うよりずっといい。
そうだよ、これはラッキーなんだ。
――そう。会うはずなかったのに……。
表情を硬くした樹里に、言葉がすぐに出なかった。とにかくモッズコートを脱ぎ、紙緒は大げさに首を傾げた。
「吉野ちゃん……ここには、2月から通うんじゃなかったの?」
「今日は画材を置きに来てまして……」
どういう偶然よ。
椅子にコートをなげつけて、紙緒は床に風呂敷を広げた。
アトリエに散乱した自分の作品を、無造作に風呂敷の中に積み重ねていく。
「俺は私物を取りに来ただけだから。もう美大生なんでね。来月から安心して通ってね」
言いながら布の端をきつく結んだ。樹里は、ほっとしたような、気まずいような顔をしている。「……余計なお世話だけど、受験だいじょうぶ? 今から通って間に合うの」
「……来年まで必死にやれば、行けるかなって」
「なに? 浪人確定? 受験する前から諦めてたらだめじゃん」
「来年、だよ」
「は?」
「受験は来年。留年したんで、まだ2年生」
風呂敷の端が、手からすり抜けた。
両手の指を組んで、樹里がためらいがちに続けた。「あと、紙緒先輩、この前はごめんなさい。なんか、けんか腰になって」
「え、なに? なんのこと?」
「この前、会ったとき……」
「あ、古本屋の彼氏のこと?」
「彼氏じゃないです」
いやいやいや。どれにつっこんでいいか、もうわかんねーよ。
樹里がコートに袖を通した。
「じゃあ、うちはこれで」
彼女が頭をさげたとき、思わず声が出た。
「なあ、駅まで一緒に帰る?」
外はすっかり暗くなっていた。上空は風が強いようだ。月明かりに照らされた雲が、東へと流されていく。
呼び止めたくせに、しばらく黙って歩くしかなかった。
「あ……」
商店街の入り口で、樹里がつぶやいた。視線の先には、赤と黄色のネオンライトがまぶしい看板があった。
『快乐厨房』
よく二人で買い食いした中華屋だった。店頭の小さな窓から、肉まんや餃子をテイクアウトできる。冬はよく肉まんを買って、二人で歩きながら食べた。
「食べてく?」
樹里はこっくり頷いた。二人でカウンター付きの小窓に並んだ。身長差で、樹里の頬が紙緒の肩に触れそうだった。
カウンターに貼られたメニュー表を真剣に見つめる樹里に、紙緒は目を細めた。
――吉野ちゃんを素直に可愛いと思えていたのは、中学生までだった。
「――吉野ちゃんは、美術科のある高校には行かないの?」
画塾からの帰り道。あの日も肉まんを頬張りながら、吉野ちゃんは首を横に振った。
「お父さんは家から近い進学校にした方がいいって」
「吉野ちゃん、めちゃ上手いのにね。もったいなくない?」
あの子は黙って肉まんを食べていた。だけど、耳だけすごく真っ赤で、それがめちゃくちゃ可愛かった。
なのに、彼女が高校に入ったら、隣に歩くのが苦しくなった――
宣言通り、樹里は公立の湊沢高校を選んだ。取り立てて美術部が有名なわけではない。しかし、彼女の絵の技術とセンスは、ますます研ぎ澄まされていった。
親に拝み倒して美術科のある私立高校に入った紙緒。よくある美術部に入った樹里。それなのに、どうして差は広がるばかりなのか…… 。
そうこうしているうちに、紙緒は3年生になり、美大への進学を目指した。受験対策に明け暮れ、センター試験も終わった翌日、朝の9時に画塾に行くと、見慣れたつなぎが見えた。こっちに気づいて、樹里が小さく頭を下げた。
「吉野ちゃん……学校は?」
「いいんだよ、紙緒」
給湯所から、師匠がひょっこり顔を出した。「去年さぁ、吉野の高校で事件があったんだって」
「事件?」
昨年の秋、同じ美術部の男子部員が自殺未遂したらしい。そういえば、両親が話題にしていたのを思い出した。
「警察に聞かれたりして、それからずっと居心地が悪いみたいだ。ここで気分転換させてやれたらなぁってな」
師匠が首を振った。「災難だなぁ、吉野は」
俺の方が災難だ。
センター試験が終わればあとは実技試験だけだから、今日からずっと画塾で受験対策するつもりだったのに――
翌日も、樹里は朝から画塾に来た。紙緒は課題に取り組んでいたが、何度も筆をパレットに置いた。樹里が席を立つのを見計らって、紙緒は彼女のキャンバスを覗き込んだ。
自分のより、どう見ても上手く見える。キャンバスには、長い尾びれの金魚が二匹、濁った水に泳いでいた。水面から見下ろすような構図。金魚は死にかけているのか、今にもこちらに腹を向けて、ぷかりと浮かんできそうだ。
勘弁してくれ……
そばにあるストーブの火で、左半身がちりちりと熱せられていく。やめてくれ。俺はあと少しで本番なんだよ。
「紙緒先輩……」
樹里が、給湯所からマグカップを持ってきた。「コーヒー淹れたけど、先輩も飲む?」
「……そういう気配り、いま要らねーし」
樹里がびくりと肩を震わせた。「ごめん。いや、でも、まじで……吉野ちゃんもさ……」
体中に蟲がうごめいている。吐き出さないと内臓に穴があく。
「……なんで、学校行かないのかな?」
樹里は口ごもった。
「いまさ、受験生は一番大変なときなんだよ。プレッシャーにつぶされそうなのを、必死に耐えてんのよ。それなのに、毎日毎日、俺の隣でのほほんと……まだ高1なのに」
「ごめん……」
「あやまんなよ! つーか、なんで上手いの? なんで俺より上手いんだよ!」
樹里のイーゼルを、絵筆の尻で突いていた。「あー、嫌だなー。俺、来年も吉野ちゃんとここで座ってる姿が、すげぇリアルに想像できるわ。そんで2浪もすれば、先に吉野ちゃんが美大合格とか……、もう、この頃さ、そんなことばっかり、マジで考えちゃうんだよね」
――あのとき、師匠はどこにいたのだろうと、今でもときどき不思議に思う。
仙人は生徒のいざこざなど意に介さないのだろうか。感情が爆発した方が良い作品ができると思ってのことだったのだろうか。
でも、吉野ちゃんは、あの日、誰かに助けられるべきだった。師匠が止めてくれたら、あの子が画塾からいなくなることもなかったかもしれないのに――
崩れ落ちるように背中を丸めて、紙緒は両手で視界を塞いだ。
「来ないでくれよ……。もう、ここに通ってくんなよ」
どす黒い闇の中で、ストーブのファンの震えだけが響いていた。
不意に、木戸が削れるような音を立てた。
半分開いた麻の葉模様のガラスの向こうで、樹里の輪郭がぼやけて見えた。戸にひっかかったあの子の細い指先が、小さく丸まった。
「ごめんなさい」
「――寒くない?」
「大丈夫」
樹里は公園のベンチにマフラーを敷いた。画塾まで近道するためによく通り抜けした場所だ。
「……留年してたの、なんで教えてくれなかったの?」
目を丸くして、樹里が肉まんを食べる手を止めた。
「そんなの、どうやって伝えるの?」
「あ、そうだな。うん……」
確かに、古本屋までたまたま会うまで、ずっと連絡してなかったんだ。偶然会っただけで、「元気?」「うん。留年してるけど」とは言えないか。
「まあ、彼氏さんもいたしね」
「だから違うって……あ、そうか」
「なに?」
「うち、中3のとき、紙緒先輩の彼女さんに叱られたことあったんだ」
「は?」
「画塾の前で待ち伏せされて」
「初耳だけど」
「紙緒先輩との付き合い方を、もうちょっと自重しなさい、って」
肉まんを食みながら、樹里はスニーカーをじっと見つめた。「でも、いま考えたら、確かにうちがおかしかったのかも。うち、人との距離感が他の人とは違うのかな……紙緒先輩だけじゃない、いま一緒にいる人だって、その優しさに甘えて、ずっと守ってもらってた」
「あの背の高いお兄さん?」
樹里は黙って頷いた。「マジで彼氏じゃないんだ。なんでもないとは思えないくらい仲良さそうだったけど」
「なんでもないわけじゃない」
樹里の白い息が、夜空に吸い込まれていった。「尊敬してる。親と同じくらい」
「――吉野ちゃん」
思わず笑ってしまった。「それって、彼氏よりすごくない?」
きょとんとして目を瞬かせる樹里に、苦笑が漏れる。
「帰ろ。ずっといたらマジで凍える」
「うん……」
「じゃあ来年、洋画科か油絵画科か? がんばってね」
駅の待合室のベンチで、紙緒は歯をカチカチ言わせながらつぶやいた。マジで冷えた。コーンポタージュが無性に飲みたい。
「デザインだよ」
寒さのせいで、聞き間違えたのかと思った。座ったまま覗き込むように樹里が顔を寄せた。「うち、デザインを学びたいの」
「……そう」
紙緒はモッズコートをさすった。「いいんじゃない。吉野ちゃんがそうしたいなら」
――油絵だろうがデザインだろうが、この子は多分、現役で合格するだろう。
「でも、デザインって奥深いよね……」
自販機に行こうとしたら、か細い声に止められた。
背中を丸めて、樹里は下唇を噛んでいた。
「色んな人に宣言したら覚悟できるかと思ったけど……うち、本当に美大のデザイン科、合格できると思う?」
「――合格できるかって?」
腹の底から込みあげてきた笑いは、一ミリも愉快じゃなかった。これは怒りだ。もう一度この子を壊してやろうかと、2年前の自分が、風呂敷の中で叫んでる。
この子の自信を。希望を。未来を……。
――違う。俺が見なくちゃいけないのは、過去だ。
2年前のあの日、画塾で必死に泣くのを耐えていた吉野ちゃん。
局地的に熱かったストーブ。
細い指が覗いたガラス戸。
あの日、すでにボロボロだったあの子を、俺はさらに罵った。
ただの嫉妬でしかなかったのに、まるで絵を描くことが悪みたいに、吉野ちゃんを傷つけた。
「……あのさぁ。俺」
――本当は、あの日のことを、ずっと謝りたかった。
樹里が、目を見張った。
「画塾で会ったときから、吉野ちゃんは美大に入るって、分かってたよ」
待合室にアナウンスが響いた。
樹里が乗る電車が、プラットホームにやってきた。慌てて荷物をつかむ樹里にひらひらと手を振りながら、紙緒は奥歯を食いしばった。
ごめんね。俺の矜持を初めて粉々にした女の子。謝罪も応援も、やっぱり素直に言えないけど――
もう、邪魔しないから。
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