9 さよなら、長い黄昏
「水谷くん、なんか荒れてる?」
終業のタイムカードを押してすぐ、浅野さんが肩を叩いた。「ちょこーっと、雰囲気が? って、くらいだけど」
浅野さんは、にかっと笑った。
駐車場まで一緒に歩いた。恭平は雑草を踏みつけた。
「……浅野さんは、なんでこの仕事選んだんですか?」
「なに? 転職したいの?」
「――飛躍しすぎじゃないすか?」
「ああよかった。水谷くん辞めたら困るもん」
浅野さんは、単身ワルツを踊るように、ステップを踏んだ。
「そんな……俺とか」
「でも、ごめんね。今日はこれ以上聞けないわ」
浅野さんは自家用車のドアを開けた。「そんな顔で相談されたら、時間がいくらあっても足りないもん。娘が待ってるんで、あたしはこれで!」
今日はゆっくり休みなよ! こんど改めて飲みにでも行こうね。
窓から手を振りながら、浅野さんは言い去った。
恭平は、駐車場にぽつねんと立ち尽くした。
……やらかした。自分の仕事を再評価しようとする時点で、すでになにかに負けている。
「ただいま……」
暖簾をあげると、樹里が帰り支度をしているところだった。「夕飯食べてくか?」
「今日はいい」
樹里はいそいそとリュックに本を詰め込んだ。
「なんか遠慮してる?」
「……迷惑かけたくないから」
「なにをかけてるって?」
笑いながら冷蔵庫を開けたら、服の裾が引っ張られた。
「うち‥…ここにいても大丈夫?」
「は?」
「元カノさんとより戻すなら……鍵、今日置いていくから」
手の中で、卵がつぶれそうになった。樹里は下唇を噛んで黙っている。
「いや、まあ……それが樹里の美徳でもあるんだけど……」
けぶるような苛立ちがこみあげる。「なんでそう、遠慮、遠慮……遠慮ばっかり! なあ!」
力任せに閉められた冷蔵庫が、反動でまた開いた。樹里は泣きそうな顔で硬直している。
「……ごめん」
静かに扉を閉めて、恭平は顔をしかめた。
俺は一体、なにに対してこんなに怒ってるんだ。
封筒を突き付ける絢瀬が、脳裏に浮かんだ。トライアウトの返事はまだしていない。
もう、うやむやにできない。
「――樹里、来週の日曜、予定ある?」
「……ないよ」
「その日、部屋に来て」
裾を握っていた樹里の手を取る。冷蔵庫を背にして、恭平は樹里と向かい合った。「土曜日、大阪に行って、絢瀬と会ってくる」
背骨を通して、冷蔵庫の振動が伝わってきた。
「……教えてくれる?」
樹里が手を握り返した。「うちは、これからどうすればいいか、日曜日、ちゃんと教えてくれる?」
今すぐ答えてあげたかった。しかし、微笑んでやることしかできなかった。
「なあ、樹里は――」
――トライアウトを、受けるべきだと思うか?
その瞬間、窓からひらひらと揺れる浅野さんの指が胸をよぎった。
「……いや」
恭平は顎を引いた。
そうだよ。他人に決めてもらう時点で、やっぱりなにかに負けているんだ。
大阪に、恭平が来る。
土曜日。アリーナに向かうバスの中で、絢瀬美也子は雲ひとつない青空を見上げていた。バスを降りると、アリーナの向こうから恭平が近づいてきた。
「美也子」
「着いてたんだ」
「散歩してた」
「……おはよう」
「うん」
アリーナに入ると、応援席はすでに活気にあふれていた。あと十五分で試合が始まる。
「浩一だよ!」
歓声があがった。軽い足取りで、選手達が入ってくる。井上は応援席に笑顔を振りまいている。
「すごい人気だな」
「知らなかった?」
「あいつがプロになってから、リアルで試合観るの、初めてだから」
「……恭平も、もうすぐだよ。はい、イヤホン!」
「こんなの用意してたんだ」
絢瀬は目を潤ませて、はにかんだ。
彼女は、本当にバレーが好きだった。中学までは選手としてプレーしていたが、どうしても越えられない壁があった。その隣で、同級生の恭平と井上はどんどん上手くなっていった。妬ましく、憧れた。高校でも二人の活躍を見ていたくて、一番そばで応援したくて、男子バレー部のマネージャーになった。
二人には、どこまでも勝ち進んで欲しかった。
「――すごいね、浩一……」
絢瀬はイヤホンを握りしめた。隣を見ると、恭平は上を向いていた。高い天井に、大型ライトが輝いていた。
胸が、自然と高鳴っていく。
埋め尽くされた応援席。身体に響いてくる音楽。
恭平……ほら、一度は捨ててしまったプロへの道が、また見えてきたよ。
試合終了後、中央出口のそばで握手会があったが、二人は西口からアリーナを出た。傾きかけた陽射しに思わず目を細める。
「絢瀬、このあと時間ある?」
手でひさしを作りながら、恭平が尋ねた。
「特には……」
「帰る前に、ちょっと遊びに行かないか?」
「……いいよ。どこ行く?」
梅田駅から、二人はエンターテイメント・パークまで歩いた。
「あれ怖そう!」
全面ガラス張りのエレベーターで写真を撮っているカップルが見えた。
「あっちもなかなか」
ビルに挟まれるようにして回っている、真っ赤な観覧車を見上げた。その艶めいた赤を見ているだけで、ちょっとそわそわしてくる。
「この施設、気になってたんだ。映画も観られるし」
「そうなんだ」
「観ない?」
「今日?」
「美也子と映画、観たことなかったし」
映画館で、恭平はチケットとドリンクを二人分買った。
「払うよ」
「いいよ」
「……じゃあ。ありがとう」
映画館のやわらかいラグを踏み、開場待ちの列に並んだ。
「二人でなにかに並ぶのって、変な感じだね」
「ほんとだな」
「高校の購買以来?」
「そうかもな」
恭平は微笑んだ。
ブザーが鳴り、ホールが一瞬、闇に落ちた。
絢瀬は映画に集中できなかった。こうやって恭平と映画を観る……。高校の頃ひそかに憧れて、叶わなかった夢だ。隣を見ると、恭平の鼻筋と頬が、スクリーンの光でほのかに瞬いていた。
「アクションすごかったな」
映画館を出て、カフェで話し込んだ。
「展開も読めなかったよね」
「最後のどんでん返しにやられたな」
「ほんとそれ」
笑いながら、パフェをほおばった。
「――おいしい? それ」
「うん。この栗がまた……食べてみる?」
恭平は頬杖をついたまま、目を細めた。絢瀬はスプーンでパフェをかきまぜた。
「――なんていうか、すごいね。こうやってカフェで一緒にお茶するなんて」
「高校のときは、商店街の大判焼き屋しかなかったもんな」
「浩一なんて、おやつにプロテイン飲んでたよね」
「あいつの甘いもの好きは、その反動だな」
恭平は笑って、コーヒーに口をつけた。西日が、パフェグラスを通してテーブルに半透明な影を落とした。
「そろそろ出ようか」
恭平は伝票を取った。
そのまま、二人でウインドウショッピングをした。
「どうこれ?」
「いいんじゃない」
帽子を試着する恭平を見つめながら、絢瀬は深く息をついた。
恭平が近づくと汗ばむ。鎖骨のあたりがこそばゆくなる。高校の頃の感情が、また戻ってきている。
……恭平がトライアウトに合格したら、きっと大阪に引っ越してくる。
わたしたちの時間も、取り戻せるのかもしれない。
「暗くなってきたな」
外はもう夕日が沈みかけていた。灰色に染まったビル群に、夜の灯がちりばめられていた。「――最後に、あれ乗らない?」
恭平は吹き抜けの頂上を指した。ライトアップされた赤い観覧車が、ゆっくりと動いている。
「――うん」
乗降口《じょうこうぐち》で係員に誘導してもらう。
ゆっくりだが動きをとめないゴンドラに合わせて、ふたりはするりと乗り込んだ。
足元がふわふわする。眼下に広がる街並みは、遠くに夕焼けを残しているが、もう夜に染まりつつある。
「付き合っていた頃は、ぜんぜん遊びに行けなかったな」
窓の外を見たまま、恭平がつぶやいた。
「……いいよ。だって、バレーがんばってたからじゃん」
「美也子も、マネージャーがんばってくれてたな」
「……好きだったから」
「好き?」
「バレーと……バレーしてる恭平が、ずっと好きだった」
恭平が、顔を戻した。
「だから、バレーしなくなった俺は、嫌いになったのか?」
足元が、ごとんと揺れた。
――ずっと俺は、彼女と向き合うことから逃げていた。
ゴンドラの中で、絢瀬は眉をひそめて恭平を見つめた。
「俺は……バレーを辞めて、時間ができたら、美也子と一緒に映画観に行ったり、買い物したり、いろんなことができると思ってた」
「……待ってよ。そんなの。わたしのためにバレー辞めたとか、ぜんぜん嬉しくないよ。わたしのことなんて放っておいて、バレー続けてくれてよかったんだよ」
「そうじゃない」
腹の底から出てくる声に、自分でも驚いた。「美也子のためにバレー辞めるとか、そんな考えしたことない。そんな風に思うのは、いつでも俺とバレーをつなげて考えるからだよ」
恭平は奥歯を噛みしめた。
「俺はもう、バレーに熱意がなかったんだ」
ゴンドラは静まり返った。絢瀬は唇を動かすが、声にならないようだった。
「井上は中学の頃からプロになるって言ってたけど、俺はそうじゃなかった。がむしゃらにバレー続けてプロになるなんて、想像できなかった。でも、周りからは期待されて……。そうやって迷ったまま、春高優勝すればなにか見えるかと思った。それでやっと……自分の気持ちが分かったんだ」
「……そんなわけないよ」
絢瀬の震える声が響いた。「……わたしは、恭平がバレーなしでいられるとは思わない。恭平はこれからトライアウト受けて、戻るんだよ……こっち側に! わたしだって、恭平ともう一度やり直して」
「やり直さない」
「……」
「美也子と会うのは、今日で終わりにする」
ゆっくりと、ゴンドラが夜空に近づいていく。やがて観覧車の鉄柱が、完全に見えなくなった。
頂上から一望する大阪の街。心もとない浮遊感。
「――バレー辞めても、美也子とは付き合い続けたかった。でも、そっちは思ってなかったんだよな……」
「……なんでそう言い切れるの?」
「だって、バレーやらなきゃ、俺じゃないんだろ?」
瞼の裏に、粉雪が見える。
あの日――高校の中庭で、雪がおちる藤棚に座って、井上は退部の話を聞いてくれた。絢瀬には直接伝えろと背中を押してくれた。
美也子を呼び出して、部室で話した。だけど納得してくれなかった。怒ったまま部室を飛び出して、どこを探しても見つからなかった。
諦めて、今日は帰ろうかと思った。
そしたら下駄箱の前で生徒がたまっていて、ただならない雰囲気でひそひそ話している。
「喧嘩?」「あれ、バレー部の井上君じゃない」
下駄箱に拳をあてた井上と、背中を丸めた美也子が目に飛び込んだ。
「春高優勝のキャプテンまで務めたあいつが、このタイミングで退部するって言ったんだ。逃げとかじゃねえよ」
言い捨てて、井上は玄関を出た。美也子はうつむいたままで、
「み――」
声をかけようとした瞬間、心臓が凍った。
「嫌だ!」
内履きのまま美也子は校門まで走って、井上の背中に叫んだ。「ぜったいに嫌! バレーやらないなんて、恭平じゃない。あたしは、絶対に認めないから!」
夜間飛行の航空機のランプが、夜空に赤く瞬いている。
恭平は、ひざの上で指を組んだ。
「どうして俺は、バレー辞めたら、俺じゃないんだ?」
拳を震わせて、絢瀬は黙りこんでいた。背後の窓から、観覧車の骨組みが見えた。まるで歯車のようだった。
「……浩一とは? もう友達じゃないの?」
下を向いたまま、絢瀬がつぶやいた。
「井上は……別に縁を切るつもりはない」
「バレー続けてるのに?」
「――だから、さぁ! 俺はお前のそういうところがキツいんだよ!
びくりと、絢瀬は肩を揺らした。
「バレーしてるかしてないか、そんな物差しで、人付き合いを決めんなよ。井上とは、単純に、話してて楽しいから会ってんだよ。あいつは、他人になにかを背負わせたりしないんだよ。自分が好きなことして生きてて、それがバレーなだけなんだよ。……俺も、美也子がどう思っていようと、いま、好きなことして生きてるよ。ちゃんと給料も稼いでる。自立してる」
目に涙をためて、絢瀬は顔を反らした。きつく腕組みをして、外を睨んでいる。
「……俺だって、バレー辞めるまで、必死に努力した」
愛する努力をした。
熱が、目元までこみあげた。
どうして愛せなかったのか。
2年間。どこまでもバレーに尽くしたけど、最後まで愛せなかった。
「俺はずっと……そのことを、美也子に肯定してもらいたかった……」
夜空は遠ざかり、窓の外がネオンライトで満ちてきた。
うす暗いゴンドラの中で、絢瀬の栗色の髪が、外の灯を反射させていた。
「……みゃーこ」
好きだった頃の呼び名。二人きりの時だけに呼んだ、猫のような呼び方。
「本当に……ずっと、好きだったんだ」
終着駅に着いた時には、日をまたいでいた。
停めておいた車に乗り込む。携帯を見ると井上からメールが来ていた。
『今日、応援席にいたよな?』
恭平は黙って指を動かした。
『勝ったな。おめでと』
間髪入れず着信が鳴った。
『いまどこ?』
「深夜1時だぞ」
『マンション戻ったのか?』
「駅だよ。まだ滋賀だっつーの。今から車で帰るんだよ」
だんだんと、顎が震えてきた。「……話したよ。トライアウト、断った。……はあ? 無理。アリーナの片隅で別れ話とかしたくないし。だから場所変えたんだよ。……心配するほどじゃなかったよ。別に恨み言なんてないって。ほんと、感謝しか……」
携帯をこめかみにあてて、恭平は固く目を瞑った。
「――これ、返すから」
ゴンドラが地上に降りる直前、恭平はトライアウトの封筒を絢瀬に渡した。「これは要らなかったけど……あの頃、俺が春高優勝までバレー続けられたのは、間違いなく、美也子が居てくれたからだ」
ぎりぎりの精神状態のなかで、いつまでバレーを続けるか悩んでいた時、隣に彼女が居てくれてよかったと、心底思ってた。
封筒を掴む指が、かすかに震えていた。恭平は帽子を取り、頭を下げた。
「それは、本当に感謝してる」
もう、絢瀬の顔は見なかった。
「ずっと応援してくれてて、ありがとう」
いつ寝たのか覚えていない。
光がまぶしくて布団を引き寄せたら、やけに重たかった。
「……樹里?」
眉間にしわを寄せて、樹里が恭平を覗き込んでいた。
「日曜日。来たよ」
「ああ……」
布団から腕を伸ばして、恭平はローテーブルを指さした。
「あれ……」
「なに?」
「どうぞ」
紙袋を手にして樹里はまた戻ってきた。「『美術評論』。今月号、出てた」
「え、あ。ごめん。お金払うね」
「いいよ」
また布団を頭まで被せた。
「悪いよ」
「なんで? 俺の取柄なんて、こうやってなにか買ってやれることくらいだろ」
言っておいて、ちょっと傷ついた。
「――悪い、起きる」
そのとたん、布団が勢いよくはがされた。顔を真っ赤にして、樹里が口を震わせた。
「う、うちは、恭平がきちんと働いて、こうやっていろんなものが買えるのを、すごく尊敬してる。けど……それだけが恭平のいいところじゃない」
ひざまずき、樹里は布団に顔を押しつけた。「一緒に居れたら……それでいい」
喉元まで、唾がこみあげた。全身の熱を吐き出すように、自然とため息がこぼれた。
「樹里……」
指で肩を突いてみた。樹里がおそるおそる顔を上げたところを抱き寄せた。
腕の中でじたばたするから、思わず笑った。かわいそうだから少し力を緩めた。でも逃がさなかった。
汗ばんでいる小さな頭を、何度もなでた。
「……俺も」
もう、なくさない。
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