10 こずえと井上 ――世話焼きたちの憂鬱②――
「大阪で遊びまわったあげく、観覧車で元カノを振るとか怖くない? 修羅場にいなくてほんとよかった」
「受験生を呼び出したあげく、友達の別れ話を聞かせてくるのも、かなり引くんですけどね」
「言うねぇ」
井上は、熱いおしぼりをこずえに渡した。「ランチしながらおしゃべりくらい良いじゃない。ここは俺が奢るから」
失礼します。と仲居さんが襖を開いた。音もなく料理を並べていく。
突き出しは、ふぐの皮刺しだった。
「……おいっしい」
「ポン酢が効いてて上手いね」
「井上さん……別に、いつものお好み焼きでもよかったんですよ」
「いやいや。ここはガツンと秋の恵みを食して、元気出していかないと。こずえちゃんも、受験勉強を根詰めて身体壊さないようにね」
「……どうも」
こずえはカーディガンを着直した。
――井上さんも、お店に合わせて着て来たのだろうが、ジャケットですだち絞るとか、ちょっと反則じゃないですか。
「恭平は……結局、絢瀬を恨んでたんだな」
土瓶蒸しのだし汁を、井上はお猪口に注いだ。
「恨んでたかどうかは……」
「だって、逃げられない箱で決着つけるとか。そんなんされたら、俺なら人間不信になるわ」
「公共の場で痴話げんかする方が悲惨でしょ。密室でよかったんですって」
「そう?」
井上は頬杖をついた。
「確かに、映画観たり、お茶したあとにそれってのは、ちょっと……って思うけど。水谷さんなりのお礼の気持ちもあったんじゃないですか。元カノさんへの」
「そう~?」
肘をずらして、井上はテーブルに突っ伏した。かっこ悪いな、おい。
「辛いのは分かりますけど、二人の事情だったんだから。井上さんがへこんでもしょうがないでしょう」
「こずえちゃんはドライだねぇ」
「だってあたし、そこまで水谷さんのこと好きじゃないですから」
「まあねぇ。俺は中学から二人のこと知ってるから……」
おいおい。このまま水谷さんとの昔話を延々続けるつもりか。
「井上さんと水谷さんって、ほんと仲良しですね」
「ここだけの話。俺はあいつを親友だと思ってる」
「すごい愛を感じる」
苦笑して、井上は水を飲んだ。「水谷さんの話ばっかり聞くのもなんなんで。井上さんは? 高校の頃、彼女とかいなかったの?」
「いない」
「……好きだった人は?」
井上は大げさに肩をすくめた。
「誰とも付き合わなかったの?」
「そこを厳密に語ると、こずえちゃんは俺を嫌ってしまうだろう」
「なんだそのモノローグ。すでに嫌いになりそう」
「特別な誰かを作るのが無理なんだよ」
井上は背を反らした。「両思いでも片思いでもさ、誰だって恋愛すれば危ういことを孕むよね」
「危うい?」
「理性がとぶとか、好きな人のこと以外、おろそかになるとか」
「それが楽しいんじゃないですか」
「そんなんやってたら、バレーに集中できなくなるだろ」
「はあ!」
「そんなん困るわ。まじで無理。って思ってたら、誰とも恋しないでここまで来た」
「あれだ。井上さんは、『バレーに恋してる』ってやつですか」
「そうそう!」
井上は
バレーばかは偉大だ。
「恭平、まだ落ち込んでるかねぇ」
すでに自分の話題は飽きたのか、井上は遠い目をした。
仲居さんがやってきて、次の膳を並べてくれる。
「大丈夫じゃないですか。樹里がいるし」
揚げたての天ぷらが、口の中でサクッと鳴った。
部屋は、カフェオレの香りで満ちていた。ローテーブルを挟んで、恭平と樹里は居住まいを正した。
「明日からのことですが。変わらず部屋に来ればいいから」
「……よりは戻さないの?」
「――なにを根拠に、よりを戻すと確信してんの?」
樹里は、ラグの毛足にじっと目を落とした。
「樹里さん……もう絢瀬のことは話題にするのやめよ」
「バレー、すごく上手かったんだね」スナイパーが照準を合わせ直すように、樹里が視線をあげた。
「……ええ、まあ」
「どうして教えてくれなかったの?」
「それは……察してくれませんか」
「恭平はね、バレーしかやってない自分が嫌でしょうがなかったんだよ」
井上は焼き魚をほぐした。「俺みたいに、バレーさえあれば生きていけるなんてモチベーションじゃなかったんだ」
「バレーで活躍することがわが道と思えなかったのか……本当に好きじゃなかったのかな。春高優勝するくらい頑張ったのに」
「好きじゃないことにも、がむしゃらに努力できる奴って、いるんだよね」
こずえは、静かに箸を置いた。
「春高優勝したとき、あいつだけこの世の終わりみたいな顔してた。オレンジのエンドラインコートに突っ立ってさ……。あいつ、くそ真面目だから、もう少し適当にやっとけば……って、どしたの?」
「いえ……コンタクト、ずれたかな」
こずえは、おしぼりを目にあてた。「水谷さんもだけど……井上さんも辛かったんですね」
2年前、病室で泣きながら謝る樹里の小さな肩が、瞼の裏に浮かんだ。「バレーで水谷さんを追い詰めたこと、いっぱい後悔したでしょう」
「……そうだよ。でも、俺が後悔してもあいつの時間は戻らないし」
笑っているようで、少し震えた声だった。「だからせめて俺だけは、バレー辞めても友達だって、変わらないでいたかったんだ」
水谷さん。あなたの親友は、本当にあなたが大好きですよ。
ローテーブルに置かれたカフェオレを見つめたまま、樹里は下唇を噛んだ。
「うちって、そんなに頼りない?」
「どこが?」
「今回のこと……悩みとか言ってもらえないくらい、頼りなかった?」
「違う」
恭平は膝のうえで拳を握った。「――後悔するのは、今だったら、もっとうまくできるからなんだ。これ、好きなマンガのセリフなんだけど。……バレー辞めると決めたとき、俺は後悔すらできなかったんだ」
樹里がゆっくり顔をあげた。
「春高優勝したあと、みんなに退部を伝えたけど、父親と井上の他は、誰も納得してくれなかった」
――どうせ遊びたいだけだろう?
――部活も勉強も、両立できるだろ。
――それくらいの気持ちだったのか?
「……誰の気持ちも治められないまま、逃げるみたいに部活を辞めた。なにが悪かったのか、ぜんぜん判らなかった……。思い出すのは、辛いことばかりで、あのとき、ああしたらよかったのかな、とか、考えることもできなかった。でも、先月の体育祭の日、樹里のおかげで気づけたんだ」
「うち……なにかした?」
「『バレー部には入らない。美術部の方が、もっと楽しいから』そう言ったろ?」
樹里の頬が、ほのかに赤くなった。「樹里のおかげでやっと後悔できたんだ。6年前、俺もそんな風に言えばよかったんだって、やっと思えたんだ」
バレーよりも、したいことがあるんです。だからバレーを離れます。
「樹里に、俺の気持ちを汲み取ってもらえた気がした」
恥ずかしそうにそわそわする樹里に、恭平は目を細めた。「ありがとう。どんなときも、樹里のままでいてくれて」
「ずっと気になってたんです。水谷さんはどうして樹里を部屋に招くんだろうって」
果物の盛り合わせを、こずえは爪楊枝で突いた。「ちょっと分かったかも。樹里は水谷さんにとって神様ってこと?」
井上が目をみはった。
「すご。大正解! そうなのよ、恭平は樹里ちゃんを守っているようで、実は崇拝してるよね」
「それなら、あの甲斐甲斐しさにも納得いくかも」
「不器用ながらも信念を突き通す樹里ちゃんを、近くで見ていたいんだよ。いい子ちゃんだからなー、あいつは。樹里ちゃんみたいな生き方、憧れるだろうね」
「別に樹里をどう見るかは、水谷さんの勝手だからいいんですけど……あたし、前に水谷さんは、樹里のこと好きなんじゃないか、って聞きましたよね?」
「うん?」
「樹里だって、水谷さんのこと、かなり好きになってると思いますよ」
「えー、それって、まさか」
こずえは果物をぶっ刺した。
「水谷さんって、いい子ちゃんっていうより、臆病なエゴイストですよね?」
「おお?」
「自分が好きだと思う樹里じゃないと受け入れない、って雰囲気が半端ないんですけど」
「どしたのこずえちゃん。今日めっちゃ鋭いじゃん」
睨みつけられて、井上は両手をあげた。
「……樹里が、もし絵を描くのを辞めたら、水谷さんは樹里を部屋から追い出すんでしょうか?」
「どうだろう」
「ちょっと……」
「でも、そんなのよくある話だよね」
井上はコーヒーをすすった。「相手がどんな風に変わっても、情があれば一緒に居られるかも知れないけど、夫婦じゃないんだから。不都合になれば別れるのも不思議じゃない」
障子の向こうで、仲居さんがワゴンを押していく音が聞こえた。
「……水谷さんが、樹里と離れたら」
「許さない?」
「ぜんぜん!」
テーブルが拳で鳴った。「あたしが、樹里と暮らすから!」
「――あらま。こずえちゃんこそ愛してんじゃん」
「隠さないと、樹里に迷惑かかるから……。歪んでいるのは分かってる」
「自己評価ひどすぎない?」
井上はメロンを口に入れた。「いいじゃん、ほんと」
彼は、屈託なく笑った。
「俺、情熱的な子、好きだよ」
「み・ず・た・に君! お疲れさま」
営業所を出ようとしたら、背中を思いっきり叩かれた。
「浅野さん」
「今日の仕事ぶり、みんなびっくりしてたよ」
「どーも」
「段ボールの5ミリのブレすら補正して、ロボットのように荷物を積み込んでいく姿に、思わずチームから拍手が出たそうじゃない」
「皆さん……作業してくださいよ」
休み明けの仕事は、自分でもびっくりするくらい調子がよかった。悩みが減るだけで、こんなにも捗るものなんだな。
「ねえ明後日は早番だよね。夕方から時間作れる?」
「へ?」
靴ひもを結び直そうとしたところで言われて、つい、すっとんきょうな声が出た。
けらけら笑って、浅野さんは髪をほどいた。左手の指輪が、髪の隙間から覗いた。
「言ってたじゃん。飲み行こって!」
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