8 溜め息にもならない

――メールアドレスを、変えるべきだったのかもしれない。


「絢瀬からメールラッシュがきてる? こわー」

 コタツのかけぶとんを、井上が肩まで引き寄せた。

「高校卒業から今まで、一度もメールなんてこなかったのに……」

 秋の三連休。久しぶりに井上が恭平の部屋に泊まりにきた。樹里には「用事がある」と伝えたが、そのせいか一昨日から部屋に寄りつかない。

 井上はポテトチップの袋を開いた。

「なんか吹っ切れたんじゃないの? で、なんて書いてあんの」

「怖くて読めない……」

「読めよ! メールなら既読表示つかないから、気が楽じゃん」

「じゃあ井上が読めよ」

「なんでそこまでお前らの間に立たなきゃいけないんだよ」

 恭平は忌々しげに携帯を睨んだ。

 メールは四件届いていた。最初のメールは、市民体育館で会ってから、三日後のものだった。


【件名】美也子です

《恭平。この前は偶然会えて驚いた。

 でも話ができてよかったです。

 いま、どこに住んでるの?

 私はいま、京都にいます》


「……京都」

「この前は、仕事でこっちまで来てたんだな。ほい、次!」


【件名】なし

《いきなりのメールで驚いた?》


「驚く驚く。こいつ、見ることもできてないぞ」

 井上は寝っ転がった。

「うるっさい」

「次は?」


【件名】なし

《恭平って、来浜駅あたりに住んでるの?

(花を買いに行ったら、おじさんが教えてくれたよ)

 私、この三連休、帰省してるんだ

 恭平は仕事?》


「うちの店に行ったのか!」

「花屋に行くのは罪じゃない。でも引くわ」

「もう読みたくない……」

「がんばれ、花屋の息子!」

 井上が背中を叩いた。


【件名】もう一度、バレーする気ない?

《渡したいものがあります。

 明日の午後三時ごろ、京都に戻る前に、来浜駅に寄ります。

 少しでも、話できないかな。

 会いたいです。》


 コタツのファンが、低いうなりをあげた。

「……いまさらとか」

「会えよ」

 井上が、あぐらを組み直した。「もう一度会って、きちんと話し合え」

 画面が暗くなっても、喉から言葉が出てこなかった。

 井上はため息をつき、携帯を小突いた。

「ていうか、この『明日』っていつ?」

「……今日だ」

 携帯を挟んで二人は黙り込んだ。

「……樹里ちゃんって、今日なにしてる?」

「なんで樹里の話になる?」

「こずえちゃんは帰省してるらしいぞ。今日の夕方に電車で帰るって言ってたな」

「なんで、こずやんさんの予定まで知ってるんだ」

 井上は大げさに目頭をもんだ。

「駅で鉢合わせとか……ないよなぁ?」

 壁掛け時計の長針が、かちりと動いた。



 携帯のメール画面を開いては、閉じる。

 来浜駅の観光案内板の前で、絢瀬はスーツケースをこつんと蹴った。

 予想外だった。恭平から返信がひとつもこないなんて。

 肩を落として、絢瀬は観光案内板を見上げた。

 北部出身の絢瀬には、南部の来浜駅は初めて訪れる場所だった。

 国宝めぐりのバスルートに沿って仏閣や町並みのイラストが載っている。西には、海水浴場もあるらしい。

……海か。高校時代、友達と海水浴に行ったこともなかったな。ずっと、バレーが一番だったから。

「あーあ、今回も水谷さんちに行けなかったなぁ」

 不意に、案内板の後ろから声がした。私服の女子二人が、楽しそうに歩いていた。

 一人は自転車を押していて、もう一人はお土産の紙袋を下げている。

「恭平、三連休は用事あるって言ってたから」

 苦笑しながら自転車を押す女の子は、どこか見覚えがあった。

「これからますます受験勉強に集中しなきゃいけないから、もう頻繁に帰省できないよ! もう絶対、受験が終わったら、絶対、遊びに行かせてね」

「そうだね。こずやんなら……恭平に聞いてみるね」

「いま、恭平って言いました?」

 二人はびくりと足を止めた。

 絢瀬はフェンスに指を絡めた。

「あなた……9月に市民体育館にいた子だよね?」

「樹里……知り合い?」

「浩一と一緒にいたよね。覚えてない?」

「……あ」

 思い出したのか、その子はメガネの奥で瞬いた。


「急に話しかけてごめんね」

 自販機で買ったばかりの紅茶缶を、絢瀬は樹里に手渡した。「お友達のも。はい」

「すみません。えっとお金」

「いいのいいの」

「じゃあ……」

 樹里はコートの裾で包むように缶を握った。案内板そばのベンチに並んで座る。

「あなたは、えっと……高校生? 名前は?」

「吉野です。一応、高校生です」

「若い!」

 絢瀬はくすくす笑った。

「わたしね……恭平と浩一とは、中・高と一緒だったの」

「そうなんですね」

「高校卒業からずっと恭平とは会ってなくて……。久しぶりに会えないかメールしたんだけど、返事こなくて待ちぼうけしてたんだ」

 樹里は控えめにうなずいた。用事とは、この人と会うことだったのだろうか。

 こずえが駅舎から小走りで戻ってきた。

「こずやん、電車は?」

「大丈夫、大丈夫。一時間後に次のがあるから、門限には間に合いそう」

 早口で言って、こずえは二人の間に座った。

「ね、吉野さんは、恭平とどうやって知り合ったの」

「えっと……それは、母つながりで――」


① 「キャラバントラック」に母の引っ越しを依頼したとき、作業員の恭平と話す機会があった。(実際、しゃべるようになったのはずっと後の事)

② それから、たまに近所の図書館で会うようになった。(本当は、部屋に通うようになって、一緒に図書館に行くようになった)


 誰かに尋ねられた時のために、恭平と打ち合わせしておいた常套句だった。

 隣でこずえが神妙に頷く。

「へえ、そんなこともあるんだね。ねえ、体育館には浩一も一緒だったよね。あの二人、今も仲いいの?」

「そうですね」

「……吉野さんも、バレー、好きなの?」

「好きというか、もう終わったんですけど。体育祭でバレーに出ることになって、それで井上さんが教えてくれるから、試合観に行こうってなって……」

「恭平は教えてくれなかったの?」

 きっぱりとした声だった。こずえを無視して、樹里をまっすぐに見てくる絢瀬の目は、大きくて黒かった。

「……特に。ボールをふわっと投げる役はしてくれましたけど」

「もったいない! 春高優勝のキャプテンに教わらないなんて」

……なにを言っているんだろう。この人は。

「樹里……」

 こずえがコートの袖を引いた。

「うそ。聞いてないの? あいつ、浩一と一緒に、高二で春高優勝してるんだよ」

 思わず、樹里は視線を泳がせた。恭平の部屋を思い出す。バレーに関するものはなにもなかったが……。

 その瞬間、記憶が火花を散らした。

 そうだ……体育祭が終わった日。「バレー部に入れば?」と恭平に聞かれた。どこか妙な感じだった。

 キッチンで、首を垂れた恭平のつむじが浮かんだ。

 絢瀬が足を組み替えた。

「なんで言わないのかなー、恭平も。吉野さんも、引っ越しのお兄さんじゃなくて、キャプテンの頃のあいつに出会えればよかったのにねー」

 乾いた笑いが混じっていた。「知ったら驚くよ。あの頃、どれだけすごかったか」

「あの!」

 こずえが樹里を立ち上がらせようとした。だが、樹里は座ったまま、つま先を絢瀬に向けた。

「知ってます」

「……なにを?」

「今のあの人を」

 掌の中で、紅茶缶がぱきりと鳴った。

――この人は、うちの知らない恭平を知っている。

 うちと同い年だった頃の恭平を知っている。

 たぶん、うちには言いたくなかった頃を、この人は知っている。

 だけど、うちは、今を知っている。

 仕事から帰ってきたときの少しけだるい声。

 ガスコンロの火。コーヒーを淹れる背中。

「高校生の頃がどうだったかとか……そんなことより」

 白いパーカー。大きな両手。

 うちの悩みを無理に聞き出さなかった、誠実さ。

 部屋にいることを許してくれた、あの優しさを。

 こんな風に、バカにするなんて、許せない。

「恭平がどれだけ仕事に真剣か、どれだけ周りに優しいか。それだけは知ってます」

「樹里ちゃんナイス!」

「やっと来た!」

 こずえが立ち上がった。

「浩一、なんでいるの」

「恭平と遊んでた」

 井上の後ろで、恭平がうつむき加減に立っていた。

「遅い! てゆうか、悠長に聞いてませんでした?」

 こずえのパンチを受け止めながら、井上はけらけら笑った。

「絢瀬よー。高校生に絡むとか、どうかしてない?」

「絡むとか……話してただけだよ」

「……美也子」

 恭平がつぶやいた。「メール、返信しなくてごめん」

「……そのことはいいよ」

「で……話って?」

「堺の実業団がトライアウトを募集してる。恭平、参加しようよ」

 バッグから封筒を出し、恭平の胸元に差し出した。「読んでみて。昨年度の書類だけど」

 呆然と、恭平は封筒を見つめた。

 封筒を突き出したまま、美也子は続けた。

「トライアウトは来年の7月。今から練習したら間に合うよ。恭平。もう一度プロを目指そう」

「トライアウトって……」

 こずえは言いかけて、言葉を飲んだ。こずえの拳を包んでいた井上の手のひらが、きつく締まった。

「恭平、市民体育館で教えてくれたね。仕事のこととか、休みの過ごし方とか。楽しいって言ってたね。でも、あたしはそうは思わない。恭平はくすぶってるよ」

 恭平は立ち尽くした。だが、おもむろに手を伸ばし、封筒を掴んだ。

 

――メールアドレスを、変えるべきだったのかもしれない。

 今になって、こんな気持ち……知りたくなかった。




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