6 残滓

 高校2年生の、あの日。

 熱をおびた溜め息が、俺たちのすべてだった。

「――井上、ちょっといいか?」

 クラスの奴らがめいめいに教室から出ていくなか、恭平が俺を呼び止めた。

 ああ、やっとか……。

 俺たちは、中庭に向かって歩いた。

 誰ともすれ違わなかった。

 先週、卒業式が終わり、校舎から人の気配が減っていた。

 息が白い。サンダルの内履きの底が、リノリウムの床にこすれて鳴っていた。

 中庭の、藤棚のベンチに腰を下ろす。

 枯れ木の隙間から、雪がちらちらと降ってくる。

 尻が寒い……。隣で恭平はダウンコートに手をつっこんで、じっと目を伏せていた。

 この期に及んで、まだためらうのか。

 春高優勝をしてから、もう2ヵ月なのに。

 オレンジコートで監督を胴上げしてから、本当に色々あった。校内での祝賀会。OB訪問。テレビ取材。辞め時を逃していたのだろうか。ぎこちない笑顔を張り付けたまま、恭平はキャプテンとして、率先して動いていた。

 風上から流れてきた恭平の白い吐息が、鼻先をかすめた。

 赤い目で、恭平はゆっくり口を動かした。

 覚悟はしていたけど、面と向かって退部を告げられるのは……どうしたって胸が詰まる。

「判った。それで、マネージャーには伝えたのか?」

「いや、美也子みやこには、まだ……」

 監督には昨日伝えたらしい。めんどくさい相手は早めに片付けるに限る。

 そして、本当に言いにくい相手は一番最後になるのも判る。

「……絢瀬には、早めに伝えた方がいいぞ。マネージャーでもあるけど、まず彼女なんだからさ」

 恭平は口を強く結んだ。

「……もうさ、今から話してこいよ。部活は俺が回しとくから。監督に伝えた時点で、絢瀬の耳にも入るだろ? 人づてに聞くよりも、お前から言われた方がいいって」

 恭平は黙ったまま、視線をさ迷わせている。ほんとヘタレだね、こいつは。

 俺は携帯を耳にあてた。

「……あ、マネージャー?」

 隣で全身をこわばらせていたけれど、恭平は電話を咎める様子はなかった。「ほら」

 携帯を渡すと、恭平は芝生まで離れた。ぼそぼそと話す声が聞こえる。

 戻ってきて、恭平は携帯を返した。

「……ごめん井上。部活の間だけ、部室使ってもいいか?」

「いいよ。部員が来ないように、カギ閉めとけよ」

 ポケットの鍵を渡そうとして……俺はそれを握りしめた。「部活……いつまで続けるんだ?」

「……たぶん、終業式まで」

「……来週までか」

「それまでに引継ぎはちゃんとするから」

「べつにいいよ。俺はまだ一年いるんだから」

「……本当に、ごめん」

 思わず、目尻が痙攣した。飲み下した生唾が、ゆっくりと胃に落ちていく。

「……嘘だろ」

 両手が、ダウンコートごと恭平の首を締め上げていた。「なんでお前は、そうやって謝るんだよ!」

 恭平は、抵抗しないで顔をしかめた。

 俺は……怒っているのか。哀しいのか。

 ただ、もう顔が見られない。サンダルにひとつ雪がふれて、透明な水滴になった。

「……俺は、来年も春高に出場する。お前がいなくても向陽高校は大丈夫だって証明するからな!」

 両手からダウンコートが離れた。かすれた声で、「ありがとう」とささやかれた。


 藤棚の下で、どれだけ立ち尽くしていたんだろう。頭上から放課後のチャイムが響いた。

「……部活だ」

 つぶやいた途端、身体から力が抜けた。尻もちをつくみたいにベンチにへたり込んだ。鼻先がツンとする。歯がカチカチと鳴り始めた。

 まじか。部活前に泣くか、俺。

 膝が震える。胃が、ずしりとつぶされそうだ。

……今日から俺が、バレー部を引っ張っていかなくちゃいけない。もう恭平には頼れない。もう、一緒にコートに立つことはないんだ。

 誰もいない教室で、ユニフォームに着替えた。体育館に入ると、部員たちはもうストレッチを始めていて、絢瀬と恭平の姿だけなかった。

「遅かったな、井上」

 監督の低い声がした。

「すみません、用事を済ませてて」

「……早く号令かけろ」

 くぼんだ瞳で、こちらを見据える。なんとでも思えばいい。恭平がいない不満も、怒りも、おそれすら、俺がひっくり返してやる。

 それが、あいつへの、罪滅ぼしでもあるから。

 限界まで気づいてやれなかった、俺の責任だから。



――そう、絢瀬美也子あやせみやこは、バレー部のマネージャーで、恭平の彼女だった。

 その元カノから逃げて、さらに俺をスケープゴートにするって、どんだけヘタレだ。あの野郎。

「浩一……」

 体育館の出口を見つめたまま、絢瀬がぽつりとつぶやいた。「さっきの女の子って、恭平のファン?」

「なんのファン? 俺のファンなら判るけど」

 絢瀬は黙って、後れ毛を耳にかけた。

「しかしこんなところで絢瀬に会うなんてな」

「別に……私が体育館うろついてても、不思議じゃないやん。バレー……好きなんだから」

「……そうだったな。てか、絢瀬のスーツとか初めて見るわ」

「これ? だって今日は仕事で来てるから」

「そうなの?」

「春からスポーツメーカーに就職したの。この大会の後援もしてるの。それで上司が、今日は現場を見てこいって」

「へえ」

「……浩一の試合も、ときどき観に行ってる。仕事じゃないときも……」

「ほんと? 声かけてくれりゃいいのに」

「かけたらまずいと思って」

「……なんで?」

「私……あの日から、浩一には嫌われたと思ってた」

 あの日。

 下駄箱に立ち尽くした絢瀬が、脳裏に浮かんだ。

「……まあ、ちょっと気まずくなったのは確かだけど」

 絢瀬が、困ったように微笑んだ。

「でも……よかった。こうやって今日、偶然に恭平に会えて、浩一とも話ができた。不思議やね」

「別に不思議じゃないっしょ。高校卒業して、もう何年だ? 俺たちも少しは大人になったんじゃね?」

「ほんとー?」

 口に手をあてて、くすくすと笑う。背筋が寒くなってきた。上着のチャックを首まで上げても変わらない。やばいな、そろそろ限界だ。

「そうだよ。過ぎた話を引きずるのもカッコ悪いだろ」

「過ぎた話?」

 それは、とても奇妙な声だった。

 背筋をまっすぐに伸ばして、絢瀬は瞳を潤ませた。

「あたしのなかで、あの日の話は、まだ終わってないよ」

 同じだった。あの日見せた黒い瞳と――



「――浩一!」

 下駄箱の外靴に手をかけたときだった。息を切らして、絢瀬が廊下を走ってきた。

「恭平が……バレー辞めるって」

「……うん」

「なんで許したの?」

 責めるような目に、違和感を覚えた。

「さっき、恭平と話したんだよな?」

「聞いたけど……ぜんぜん意味わからなくて」

「まあ、納得いくまで話し合えば?」

「浩一は、いいの?」

「いいよ」

 アスファルトに落とした外靴が、思ったより大きな音を立てた。「あいつが決めたんなら、それでいいんだよ」

 靴を履くあいだ、絢瀬は俺を睨んでいた。仁王立ちで、拳を固く握っている。

「……そんなに心配するなよ。俺は辞めないし。あと少ししたら新入生も来る。新しいバレー部でがんばろうぜ」

「そういうことじゃない……恭平を止めて。恭平は、逃げてるだけやん」

「逃げてるかどうかなんて、なんで俺たちが決められるんだ!」

 殴りつけた下駄箱の金属音が、玄関に反響した。「春高優勝のキャプテンまで務めたあいつが、このタイミングで退部するって言ったんだ。逃げとかじゃねえよ」

 絢瀬はうつむいたまま黙っていた。下駄箱のあちこちから、生徒がこっちを覗いている。

 絢瀬を置いて玄関を出た。

 駐輪所に向かおうとしたとき、背中に声が刺さった。

「嫌だ!」

 内履きのまま追いかけて来た絢瀬が、声を震わせて叫んだ。「ぜったいに嫌! バレーやらないなんて、恭平じゃない。あたしは、絶対に認めないから!」



「……終わってないって、どういうこと?」

 スーツの内ポケットから、絢瀬は名刺ケースを出した。

「ねえ浩一。恭平は本当に今もバレーしてないの?」

「なにそれ。怖いんだけど」

「あたしの連絡先。恭平に渡して。まだ仕事あるから。今日はこれで」

「いや、丁重に……頂きます、ね」

 もらわないと帰れない気がした。名刺を受け取るまで、絢瀬はずっと微笑んでいた。

「じゃあ行くわ。絢瀬も仕事がんばれよ」

「浩一!」

 自動ドアを通ろうとしたら、絢瀬が声を張り上げた。「今日、話してハッキリした! 恭平は、バレーに戻るべきだよ」

「それは……なかなか面白いね」

 こんなときに笑顔が出るのは、きっと怖さを薄めるためだ。

 


 井上が駐車場に着くと、車の後部座席から樹里が手を振ってきた。恭平は運転席に身体をうずめている。

「お前なぁ……」

「すまん! ほんとごめん! 夕飯おごるから! ……そんでもう、話題には出さないでくれ」

「俺だって出したくないよ」

 太ももを蹴ったら、恭平は素直に席を譲った。

「さーて、いつもより豪華なファミレスってどこかなー。こずえちゃんも呼ばないと」

「こずやん⁉」

 ヘッドレストに手をかけて、樹里がぴょこりと顔を出した。

「寮から近いし。ダメもとでね。樹里ちゃん、ナビの候補地のなかで、どの店がいい?」

 こずえにメールを打つ。彼女が母校に居ることが、今日はとても不思議に思える。

――あの日から、恭平と絢瀬はギクシャクし始めて、三年生の夏からほとんど話さなくなってしまった。そのまま、自然消滅したようだ。

 別に、相談を受けていたわけじゃない。二人のことに、手を出すつもりはなかった。

「――あ、忘れんうちに」

 助手席のサンバイザーに、絢瀬の名刺を差しこんだ。恭平が、ぞっとした顔で見上げる。

 絢瀬……。これは、あの日のツケなのか。




「……樹里。井上さん、どうしたの?」

 頬杖をついてメニュー表を繰り続ける井上に、こずえはちょっと身体を引いた。「このお通夜みたいなの、なんなん? 樹里が来てるから、がんばって時間作ったのに」

「えっと……今日観に行ったバレーの大会に、恭平の元カノさんがいて……」

「ひっ」と声を上げる前に、樹里がこずえの口をふさいだ。苦笑いを飲み込むような顔で、恭平が二人を一瞥する。

「――それで、樹里は……?」

「うち? うちは、バレーのアドバイスが聞けたら、それでいいんだけど」

 こずえは顔をしかめた。口をパクパクさせて……井上からメニュー表を奪った。

「井上さん! 樹里もこう言ってるんだし、ほら! 早いとこ、球技大会の対策を教えてあげてくださいよ」

「――え?」

「対策! ぜったい指をケガしないやつで」

「ああ……」

 井上は耳たぶのピアスをいじった。ようやく頭が動き始めたのか、ぼそぼそと、恭平と相談し始めた。こずえは呆れてメニュー表を開いた。

「井上さんなんかあてにして大丈夫なの?」

「いや、プロなんだし……」

「――よし。決まった!」

 メニュー表を指さして、井上が言い放った。

「樹里ちゃんは、『デザート』枠で特訓だ」

 


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