5 トラウマ襲来
「バレーする? なんで⁉」
恭平はあやうくコーヒーをこぼしそうになった。
「なんでって……体育祭だから」
樹里は目を瞬かせた。
6時間前。その日のホームルームはいつになくざわついていた。
教卓の前で、学級委員が手を叩いた。
「じゃあ立候補受け付けます」
「希望する種目があれば挙手してください」
黒板に、1か月後に開催される「体育祭」の出場種目が書き連ねられていた。
1カ月後に開催される湊沢高校の体育祭は、「運動会」と「球技大会」の2部制だった。
午前中は「運動会」、午後に「球技大会」が行われる。
午前と午後の勝ち星が合算されて、最終的に「体育祭」の勝敗が決まるのだ。
「はい! リレー出ます」
「騎馬戦!」
教室のあちこちから手が上がった。
――こ、これが、かやちんの言ってた「早い者勝ち」ルールか。
「体育祭」は、午前中に複数の種目に出れば、午後は出なくてよいとされている。午後は楽したいと思っているクラスメイトは、次々に「運動会」に立候補していく。
樹里はおろおろと黒板を見上げた。すでに2年半在籍している割には、実はこれが初めての体育祭だった。一年生の頃は美術展の表彰式で欠席していたし、去年はそもそもクラスに居なかった。
「えっと……吉野さんは、どこか入りたい種目ってありますか?」
学級委員が声をかけた。騒いでいたクラスの女子が声を潜めた。
どこがいいと言われても、スポーツ全般、体育でしか習ったことがない。
「……じゃあ、人数の多いチーム種目を」
「チーム種目なら、どこでもいいですか?」
「はい」
人数が多い種目なら、隅で邪魔にならないようにしていればいいだろう。
学級委員はチョークを持ち上げた。
「じゃあ、吉野さんは、バレーボールで」
「まじ!」
後ろから女子の奇声が上がった。クラスメイトの沢木さんが、慌てて口を押えた。「すみませーん」
苦笑いしながら頭を下げる。
樹里はぎこちなく前に向き直った。後ろから、またひそひそと聞こえてくる。
「ちょっとー、どうする?」
「まあまあ、人数足らなかったんだし……」
ああ、なるほど……
黒板に書かれた名前を見て納得した。バレーに出るのは、沢木さんとその友達ばかりだ。
仲のいい子たちでチームを組もうとしてたんだな。
彼女たちは、普段から仲間外れにしてくるような感じはない。ただ、樹里が入ったことで気まずいのだろう。
悪いことをしてしまった……。
「――ということがあって」
樹里はゆっくりコーヒーをすすった。
「……それって、バレー以外に選べなかったのか?」
「空きがそこしかなくて。運動会の種目はもっとハードだし。騎馬戦とか怖い」
「ムカデ競争とかなかったのか?」
「もう埋まってた」
「そこはジャンケンしてこいよ!」
恭平は大きくため息をついた。
「……うちがバレーって、そんなにダメ?」
「ダメっていうか……突き指とかしたら大変だろ」
「突き指……」
樹里は両手を見つめた。「そんなに危ない競技なの?」
「……さあ、俺にはなんとも言えないけど。まあ……本番まである程度は練習するんだろ?」
「そうだね。明日から昼休みに練習するって。チームの沢木さんはバレー部員なんだって」
「そっか、ケガしないように、よく教えてもらえよ」
「うん。井上さんも教えてくれるっていうし、なんとかなるよね」
「なんで井上が出てくるんだ!」
「……その道のプロだし」
「いや、どうやって話つけたんだ?」
「えっと、ちょっと前にたまたま駅で会って、連絡先交換したん」いちごパフェにつられて一緒にカフェに入ったとは言いにくい。「それで今度の日曜日、井上さんの地元でアマチュアの大会があるから、一緒に観に行こう、って……」
ものすごくなにか言いたそうな顔をしたが、恭平はすべて飲み込むようにコーヒーを呷った。
「樹里ちゃん! こっちこっち」
市民体育館の2階観覧席で、井上が手を振った。
「こんにちは。今日はお願いします」
「不本意だけど任せたぞ」
樹里の後ろで、恭平は帽子を深くかぶり直した。
「信じられねー……樹里ちゃんのためなら地元の体育館でも来るんや」
井上はくっくっと肩を震わせた。
「樹里の家からここまで電車で二時間半、さらにバスで十五分だぞ? 車で送るに決まってんだろ」
「車ってやっぱり便利ですよね。うちも免許とろうかな……」
「いいねー、取っちゃいなよ」
「あの、それはそれとして……すごい人ですね、今日の大会。年齢層も幅広い……」
6コートに分かれて進行するバレーの試合に、樹里は視線をうろつかせた。
「ジュニアから社会人までクラス分けされてるんだ。ほら、樹里ちゃんの高校も出てる」
「あ、ほんとだ。あそこ!」
三人は奥のコートへ移動した。「いまアタック打ったのが、一緒に出る沢木さんです」
「へえ。なかなかいいフォームしてる。で、樹里ちゃんはどう? 初めてのバレーは」
「……腕が痛いです」
いま樹里は二種類の拾い方を教えてもらっている。
ひとつはバスケットのシュートのように両手で取る「オーバーハンドパス」。
もう一つは両腕をくっつけてボールを掬い上げるように拾う「アンダーハンドパス」だ。このパスが大変で、いまや腕には殴られた跡のような内出血ができている。
「あと、ポジションで困ったことが……」
生徒会にチーム名簿を提出した後のことだった。他クラスからブーイングが出た。
――球技大会にバレー部員が出るのはどうなんだ?
と。
検討した結果、生徒会は「バレー部員が出てもよい。ただし、アタックなど直接的な攻撃に参加してはいけない」と定めた。
「それで、沢木さんはセッターになったんだけど、他の子でアタック打てる人が少なくて。レシーブの段階で、まともにボールを送るのも難しかったりで……」
そう、まともにレシーブができないのは、まさに自分のことだ。
「そっかそっか」
井上は深く頷いた。「ま! でもせっかくの球技大会なんだし。樹里ちゃんも最善を尽くそうか!」
……体育会系の最善とは、よく判らない。
そうこうしているうちに試合が終わって、湊沢高校が勝った。仲間とハイタッチしていた沢木がこちらの視線に気づいたのか、
「あれ? 吉野サン! なんでここにいるんすか?」タオルをぶんぶんと振った。
「元気な子だねー」
井上が笑った。
そのとたん、沢木が目を見張った。チームメイトになにか言って、慌ててコートを飛び出した。
「樹里!」
樹里の肩を恭平が掴んだ。「俺は一階で待ってる。終わったら教えて」
恭平はあっという間に階段を降りて行った。同時に、反対側の階段から沢木が飛び込んできた。
「あの! い、井上浩一選手ですよね」
「あー……」
井上は宙に目を泳がせた。
「やっぱり! 井上選手に会えるなんて! 神!」
「俺だと見分けるなんて、マニアだねー」
「なに言ってるんですか! 井上さんはうちの県のヒーローですよ。春高バレー優勝の時、わたし小学生で、テレビの前でめちゃめちゃ感動して……」
そこで、はたと口を噤んだ。「なんで吉野サンが井上選手と?」
「樹里ちゃんは友達なんだ。球技大会でバレーに出るっていうから、教えてあげようと思って。君も一緒のチームなんだって?」
「は、はい」
「どんな試合も一生懸命にね」
井上は手を差し出した。頭から湯気が出そうなほど顔を赤くして、沢木は手を掴んだ。
「もちろんっす! 吉野サン! がんばりましょう! ね!」
フリースペースのベンチで、恭平はのろのろとペットボトルの蓋を開けた。
恥ずかしい。バレー関係者と会いたくないから逃げるって、どんだけ自意識過剰だよ……。
奥の更衣室では、選手が次々と入っては出ていく。恭平の脇を抜けて、トイレに連れ立っていくチアリーダーの子たちもいる。
駐車場で待っていよう。やっぱりここは性に合わない。恭平は携帯を開いた。
女子トイレから、賑やかな声が響いてきた。先ほどの子たちが、しゃべりながら戻ってくる。恭平は足元に目を向けた。やがて遠くなっていく笑い声に、やれやれと顔をあげようとしたら、パンプスが一足、見えた。
「恭平どこいったんだ」
階段の手すりから井上は身を乗り出した。樹里もあたりを見回す。
「あ! あれじゃないですか」
踊り場から、一階のベンチが見えた。
井上の顔色が変わった。
樹里の両肩を掴んで、強引にしゃがませた。
「隠れて!」
樹里の口をふさいで、そのまま、静かに階段を降りた。
自販機の脇から、恭平を覗き見る。ベンチに座ったままの恭平の前に、スーツ姿の女性が立っていた。
「おいおい……まじで
井上の手に力がはいった。思わず樹里は口をもごもごさせた。
ぎょっとして、恭平が立ち上がった。
「――井上! なにやってんだ」
「あ、ごめん! 樹里ちゃん」
走りざまに、恭平が井上の首を締め上げる。
「いまなにしてたコラ」
「なんもしてない! むしろ見てた」
恭平の肩越しから、井上は軽く手を挙げた。
「久しぶり。絢瀬」
「浩一……」
「樹里、お友達の試合は終わったのか?」
すばやく恭平が顔を向けた。
「あ、えと……終わった」
「よし。じゃあ帰るぞ」
すかさず樹里の手を掴む。
「あ、俺も」
「待って!」
女性の声に、三人はぴたりと止まった。恭平が、井上を上目遣いに睨んだ。
「よろしく」
樹里の手を引いて、出口に向かって駆けだした。
「恭平、いいの?」
手を引かれたまま、樹里は何度も振り返った。
「いいんだよ。井上が残ってるから」
「なんで? あの人、恭平としゃべってたのに」
「だから、いいんだって」
前を向いたまま、恭平は手を離さなかった。「……あれは、元カノだから」
元カノ。
駐車場まで来て、ようやく足が止まった。息を切らせたまま、樹里は恭平の後頭部を見つめた。
「――どっちの?」
どっちの元カノ?
恭平の耳たぶが、みるみる赤くなっていく。首に手をあてて、おもむろに振り返った。
「そこ……聞き返すか」
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