4 ぼくらは大人になる前に

 0.01秒でも速く――速く走りたかった。


坂下栄吾さかしたえいごと言います」

 梅雨の始まりと共に、こずえの高校に教育実習生がやってきた。

 体育館に座るこずえ達を見回して、坂下はぎこちなく口角を上げた。

「お前ら知ってるか。6年前にバレー部が春高優勝したのを。なんとこいつはそのときの――」

 体育のみや先生が、坂下の背中を叩いた。「補欠だったんだよなぁ!」

 どっと笑いが上がる。

 坂下は頭をかいた。「3週間、よろしくお願いします」

「せんせー、彼女いるの?」

「背ぇたっか! アタック打てるー?」

「先生……俺もちょっと聞きたいんすけど」

 ふざける女子をどかして、バレー部員が話しかける。

 放課後。バレー部に坂下の姿があった。質問してきた生徒にフォームの指導をしている。

 生き生きしてるなぁ……。

 体育館の隅でストレッチしながら、こずえは坂下を眺めた。


 

「失礼します」

 職員室のドアを開けると、書類の積み重なった机の隣で、坂下がノートを取っていた。「すみません」

「あっごめん。どうしたの?」

「日誌です。ここ、担任の机なんで。……なに書いてるんですか」

「これ? 実習ノートだよ」

 恥ずかしそうに坂下は両手で隠した。「君、陸上部の戸塚さんだよね? 脚早いね」

「ありがとうございます……」

 こずえは書類の上に日誌を載せた。「……あの、ちょっといいですか」

「なに?」

「わたし、大学は陸上の強いところに行きたくて」

「へー、そうなんだ」

「それで、体育の先生も視野に入れてて……」

「ああ、なるほど」

 坂下は座り直した。

「その、大学の体育学部から体育教師になる人って、結構いるんですか?」

「うーん……僕は大学、教育学部だし。最初から『体育』と決めてたわけじゃないからなあ」

 徹夜で授業の準備でもしていたのだろうか、坂下はクマのできた目で、へらっと笑った。「とにかく教師になりたかったんだ。結果、体育にしたけど、まあ……それならもうちょっと高校時代に箔つけておけって感じだけど」

「いえ! チームで春高優勝するだけで、すごいじゃないですか。というか、うちの高校、バレー強かったんですね」

「6年も前だしね。監督ももういないし……」

――井上浩一って、知ってる?

 胸が、どくんと跳ねた。

「僕が一年生のとき、めちゃくちゃ強い先輩がいてね。その一人なんだけど。卒業後プロ入りしたんだよ」

「……大阪の、Ⅴリーグにいる?」

「そうそう! やっぱり井上先輩は有名だな」

 坂下は皮肉めいた顔で笑った。「まあ、そうやって春高優勝からプロになった人もいるけど……僕は部活至上主義には懐疑的で」

 ブラック部活動って聞いたことない? 熱中してる最中の生徒には判らないだろうけど、はたから見たら、明らかなオーバーワーク。学校生活とのバランスが取れてない。部活だけやってればいいなんて、重大な間違いだよ。勉学でしょ。一番しなきゃいけないことって。僕が高校生の時、バレー部なんてもう、めちゃくちゃ厳しかったよ。もちろんバレーが好きで入部したんだけど、とにかく勝て勝て、って罵詈雑言浴びせられてさ。そういう指導で、確かに強くなったし春高でも優勝したけど、先輩の一人はぜんぜん勉強してなかったのか、高卒で就職したよ。

 坂下は眠たそうに目をこすった。

「とりかく……やりすぎはよくないんだ。将来を見据えて、教師がバランスとってあげないと」

「あの」

 汗ばんだ手で、こずえはスカートを握りしめた。「わたしは、少しでもタイムを縮めるために、毎日練習しています。頂点を狙う人たちは、たぶん、みんな同じかと……ブラック部活動っていうけど、努力して強くなるのを実感するのは、有意義な時間じゃないですか?」

「いや、僕がいいたいところは、頂点を目指す生徒は、これからは別の活動場所を探すことになるだろう、って話だよ。民間のクラブに所属するとか。設備が充実した私立に行くとか。うちみたいな公立じゃなくて――」

 坂下は苦笑した。「――そもそも、努力すれば報われるのって、未熟で伸びしろがある時期だけなんだよ」

 喉がからからになって、なにも言い返せなかった。握りしめた拳が緩みそうになったとき、

「おいこら! 寝不足な頭で生徒に説教たれるなんて、一〇年早いぞ!」

 宮先生が坂下の椅子を掴んだ。

「実習ノートできたか? 見せてみろ」

「あ、すみません。あとちょっと……」

 慌ててノートを開く坂下から逃げるように、こずえは職員室を飛び出した。

 心臓が鳴りやまない。部室まで、誰とも話したくない。こずえはひとけのない校長室の廊下へ向かった。

 校長室の前には大きなガラスケースがあって、部活動の賞状やトロフィーが展示されていた。所狭しと置かれた功績の後ろで、なにかが足を引き留めた。わずかな苛立ちと、泣きたくなるような安堵感が、こずえの胸を締め上げた。

「……いつからいたんだよ」

『春の高校バレー 優勝 平成✕✕年度 向陽高校男子バレーボール部』

 写真の中央に、いまよりやんちゃな顔をした井上が笑っている。ガラスに手を添えて、こずえはしばらく写真を眺めた。

 内履きのなかで、つま先が動いた。

 ガラスケースに顔を近づけて、こずえは目を凝らした。

「水谷さん?」

 監督の隣で、疲れたような笑みを浮かべた男子は、水谷恭平そっくりだった。


――先輩の一人は、高卒で就職しちゃったし。


 坂下の皮肉めいた声が、こずえの頭に響いた。



「井上さん、うちの高校出身だってなんで教えてくれなかったんですか」

 夜、寮の二段ベッドの中で、こずえは井上に話した。

『なんだ、いまごろ気づいたの?』

 後ろで人のしゃべり声が聞こえる。

「外ですか?」

『ジムの休憩室』

「井上さんの後輩が、教育実習に来てるんです」

『えー、誰?』

「坂下って人。春高優勝のとき補欠だったそうですけど」

 思い出したように、あーはいはい! と声を上げた。

『あいつか。なに? それで聞いたんだ、俺のこと』

「まあ、それと……」

 こずえは正座をした。「水谷さんも、バレーしてたんですね」

『それな、もう話すのやめよ』

 そのまま切られてしまいそうな、鋭い口調だった。

『――ごめん。こずえちゃんに怒ってるんじゃないから。ただこれについては、樹里ちゃんには言わないでおいてね』

「……なんでですか? 二人で春高優勝って、すごいじゃないですか」

『恭平にとっては、そうじゃないんだって』

 携帯の向こうで、ため息が聞こえた。『俺とかこずえちゃんは体育会系だから、スポーツに関する成績はなんでも名誉だと思うけど、あいつはそういう価値観じゃないんだ』

……よく判らない。

『坂下がなに言ったか知らないけど、まあ、まともに話聞かない方がいいよ』

「教育実習生ですよ。体育で顔合わせるし」

『適当にあしらっときなよ。じゃあ俺、トレーニング戻るから』

 引き留める間もなく、通話は切れた。

「ちょっと!」

 携帯をふとんにたたきつけて、こずえは大の字で寝ころんだ。

 なんだよ。終始素っ気ないし。しょっちゅうメールして来るくせに、こっちから電話したら迷惑か?

……陸上のブロック大会に出場することも、伝えそびれてしまった。

 天井の模様を見つめて、こずえは手を伸ばした。指先が天井に触れてざらざらする。


――努力すれば報われるのって、未熟で伸びしろがある時期だけなんだよ。


 坂下のつぶやきが頭から離れない。


 伸びなくなった時……自分はどうなるんだろう。

 そんなの、まだ判らない。

 今は、走ることしかできないんだから。


 ブロック大会の会場は、選手とその家族でひしめいていた。

 選手集合のアナウンスが入る。こずえは控室の扉を閉めた。控室は屋外観客席の真下に設けられていて、競技場までトンネル型の通路を進んでいく。

 打ちっぱなしのコンクリートの天井には照明はついておらず、ところどころ吹き抜けになっている競技場への出入り口から、光が差し込んでいた。

 こずえは陸上トラックに目を細めた。

 ウォーミングアップをしていたら、観客席の樹里が見えた。ぶんぶんと手を振っている。隣には恭平がいて、帽子を取って会釈してきた。

 頬が熱い。いつもより気持ちが引き締まる。

 100メートル決勝。こずえは第三レーンでまっすぐに手を上げた。

 選手全員、スターティングブロックにスパイクをあてる。

 ここで上位三位に入れば、次は全国だ。

 こずえはふくらはぎの筋肉を意識した。

 絶対に、勝つ。

 ピストルの音で、選手は一斉に飛び出した。

 前かがみから徐々に上半身を起こし、胸をまっすぐにして駆け抜けた。声援が耳をかすめていく。

 あと数歩。

 ゴールラインを超える瞬間――隣のゼッケンが視野に入った。

 歓声があがり、拍手が降り注いだ。

 息をはずませたまま、こずえは電光掲示板を見上げた。

 背後で、一位の選手が観客に向かってお辞儀をする。一位から順に、名前とタイムが表示されていく。

 汗が、こずえのあごを伝った。三位が表示されたとき、応援席のチームメイトが、唸るような声をもらした。

 こずえは四位だった。

 三位との差は、0.02秒……。

 息をはずませたまま、こずえは目を落とした。

「ドンマーイ、戸塚! よかったよ!」

 笑おうとしたが、唇が震えるだけだった。樹里が心配そうにこっちを見ている。 

 拳を握りしめ、こずえは無理やり目を細めた。

――消えてしまいたい。

 こずえは足早に控室に向かった。太陽の光に慣れた目にはトンネルの通路はとても薄暗く見える。頭の中に、色んな人の言葉が浮かんでくる。

 特に、坂下の言葉が蘇る。

 やめて。どうして、たいして好きでもない人の言葉に、こんなに乱されないといけないんだ!

 こずえの足が止まった。

 違う……うすうす感じてた。

 あたしは、いつまで走れるんだろう? どこまで先に行けるんだろう?

 ずっと、どこかで不安だった。あの日、まるで「お前の進路は危うい」って、断言されたみたいで――

 突然、大きな手がこずえの二の腕を掴んだ。

 井上が、こずえをそばに引き寄せた。

「――なんでいるんですか?」

「なんでと言われると……」

「ここ、関係者しか入れないんですよ」

「ジャージ着てればみんな関係者」

 井上はそのままこずえを引っ張っていく。

「……いつ来たんですか」

「最初から。恭平たちとは離れたとこで見てた」

「バレーしか興味ないくせに」

「その通りだけどさ」

 自販機前のベンチに来て、井上は手を離した。「まあ、ちょっとここに座んなさいな」

 スポーツドリンクを差し出された。冷えたペットボトルが気持ちいい。目の前は競技場出入口で、足元まで光が差し込んでいる。

 井上が隣に腰を下ろした。

「惜しかったな」

 こずえは下唇を噛んだ。

「でもさ、すごく綺麗だった。ちゃんと練習してるやつのフォームって、ほんと綺麗なんだよな」

「……でも、負けました」

「悔しいか?」

 肩が震えた。アスファルトに涙が落ちた。井上は静かに競技場を見据えた。

「悔しいなら、諦めたらだめだ。悔しいまま辞めたら、ただ、腐っちまう」

 どの言葉より、それは胸の奥にすとんと落ちた。

「――まだ、終わりたくない」

 背中に、手が置かれた。大きくて、熱かった。

「そうだよ。俺たち体育会系は、勝つことでした満たされないんだから……」



 進路調査票を見て、こずえの担任は首をひねった。

「推薦は取れないと思うが……変更はないんだな?」

「はい。今から勉強して、陸上の強い大学を受験します」

 こずえは両手を後ろに組んだ。「まだ、競技を続けたいので」

 職員室を出ようとすると、宮先生と教頭先生に挟まれて坂下がなにか話しているのが見えた。

 今日で教育実習が終わる。坂下は苦笑しながら頭を下げていた。ふと、こずえを見つけて小さく手を振ってきた。

 こずえは坂下を見つめた。不思議そうに坂下が手を降ろすのを見届けて、彼女はすっと頭を下げた。

 スカートを翻し、中庭に向かった。

 初夏の光を浴びて、中庭の草木は生き生きとしている。あたりのベンチは埋まっていて、芝生に寝ころんでいる生徒もいる。こずえは芝生の男子を、まぶしそうに見つめた。

 井上さんも向陽高校にいた頃は、中庭の芝生に寝ころんでマンガを読んでいたらしい。今はもう、彼のことなど知らない他の誰かの場所だけど、6年前、あの人は確かにここにいて、そして未来へ進んだんだ。

 こずえはぐっと、背筋を伸ばした。

 進め、体育会系。



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