15 繭のなか

 スープを渡すと、樹里は湯気をぼんやりと眺めた。その目にはまだ赤みが残っている。

「辞めるって決めたのか」

「……そうじゃない、けど」

 樹里はぽつりぽつりと話し始めた。スプーンでスープをかき混ぜるたびに、言葉を吟味しているように見えた。

 担任から留年の話を聞いたところまで言い終えると、樹里は辛そうに目を伏せた。

「そっか……。なあ、例えば転校とかは。ずるずると行けなくなってるなら」

「転校したい学校なんてない」

「だから退学するのか?」

「……そうなる、のかな」

 気だるそうな声に、胸の奥がちりっと痛んだ。

「じゃあ働くんだな」

「――……働く?」

 樹里がおもむろに顔を上げた。

「学生じゃないんだから、社会人だろ」

 樹里の周りで空気が薄くなった気がした。

「そっか……働く……」呆然とつぶやいた。

「いや! 冗談だから。働くとか無理だろ。正直、いまの樹里になにができるかって」

「なにが……」

 樹里はスープを見つめた。「なにもできない」

「なにもできないことはない! 樹里はいいところがいっぱいあるし、とにかく絵が上手い。でも、それでいますぐ働けるかと言ったら……なあ?」

 逆に呆れた顔をされた。

「そんなの言われなくても、ちょこっと絵が描けるくらいで仕事があるとは思わないし」

「そうだよな」

 座り直して、樹里を見据えた。「じゃあ、高校生やめない、ってことで」

 樹里はこくこくと頷いた。ようやく生気が戻ってきたようだった。

「出席日数ぎりぎりで進級を目指すか。それとも留年か」

「留年……やったことない」

「俺もないわ」

 樹里が不安そうに背中を丸めた。「でもな、一番肝心なのは樹里がどんなふうに高校生活を送りたいか、よく考えることなんだよな」

 暑くなってきて、こたつから足を出した。上手く伝えられる言葉が欲しかった。

「納得できるやり方なら、ぎりぎりの進級でも、留年でも、大検とるでもなんでもいいと俺は思うんだよな」

「……恭平はなんでそんなに寛容なの」

 樹里が、目をしばたかせた。「どうして……担任の先生みたいに、世間体でものを言わないの?」

「――寛容とかじゃないよ」

 俺ができなかったことを、樹里にやってもらいたいだけなんだよ。

 掛け布団の下で、自然と拳ができていた。「担任はまともだと思うよ。カドが立たないように、波風立たないように……その方が安心できるやつもいるだろうし。――でも、さざ波も立てられなかった焦燥感って、結構くるんだよ……あとになって」

「……同じようなこと、言ってた人がいる」

 瞼を震わせて、樹里がつぶやいた。「自由に生きられないこの重苦しさ。吉野さんには判らないだろうね、って……」

「……誰だ、そんなこと言ったのは」

「――高校の、美術部の先輩」

「自殺未遂したやつ?」

 樹里の顔がこわばった。「そいつって――」

 壁掛け時計が、視界の端に入った。

「――いま何時だ?」

 時計の針は8時を過ぎていた。樹里が目を見開いた。

「帰らないと!」

「帰りたい?」

 樹里が、中腰のまま振り返った。「その話、俺はまだ聞きたいんだけど。樹里は話したくない?」

 荷物を掴んだまま、樹里は目を泳がせた。小さな口が動いたとき、急に鎖骨がぞわっとした。

「……あ! でもダメだな!」

 慌てて動いたからこたつの脚がぶつかった。「言っといてごめん。親父さん心配するもんな!」

「……明後日までいないけど」

 向き直って、樹里がまっすぐに目を合わせてきた。「出張で」と、ささやく。

「いないけど」

「――だめだ! そういう橋は渡りたくない」

 びっくりしたように樹里が身体を引いた。「今日は帰りな。そんで明日、ちゃんと学校に行く。放課後また来いよ。待ってるから」

 まだなにか言いたそうだったが、樹里は小さく頷いた。


――つけが回ってきたのかもしれない。

 その晩、恭平は何度も寝返りを打った。

 樹里はいつも制服でここに来ていたけれど、学校にはあまり通っていないことはうすうす気づいていた。

 なのに、俺は一度も登校を促さなかった。

 その方がいいと思って、居心地のいい場所を提供したつもりだった。

 だけど、「高校生」のあの子を守るには、それだけじゃ不十分だったのかもしれない――

 恭平は目頭を指で押した。

 新聞配達のバイクの音が聞こえた。

「……今日休みでよかった」

 諦めと共に身体を起こした。熱いお湯で顔を洗い、パソコンでネットニュースを流し読みする。

 がちゃりと、鍵の回る音がした。

 樹里が、暖簾を上げたまま硬直した。

「仕事、休みだったの」

「いや! てか……」

 喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。

 この留年の瀬戸際に、登校しなくていいのか⁉

 樹里はコートをかけて、ブレザーを着たままこたつに入った。肩まで布団を引き上げる。

「寒い?」

「外……雪降ってた」

 いつの間にか、薄曇りの空からちらちらと冬が舞い降りてきていた。

「ブレザーだと肩凝るだろ。パーカー使うか」

「ありがとう」

 樹里はすぐにブレザーをたたんで、パーカーに袖を通した。よほど寒かったのか、頭まですっぽりとかぶる。

「そういえば、このまえ置いて行ったよな」

 こたつで一緒に、図書館から借りてきた美術本を開いた。「これ、どきっとしたわ」

「ゴヤの版画だね」

「版画なのか、これ」

「うちはこっちが好き」

「……美術部でなにがあったんだ?」

 樹里の顎が動いた。

「――知ってたんだね」

「ネットで見たくらいだから、なにも知らないのと同じだよ」

 赤く潤んだ瞳がまたたいた。「俺は、樹里から聞きたいんだよ」

「……気を悪くするかも」

「それでも聞きたい」

 自然と頭が下がっていた。「聞かせて欲しいんだ」

 震えた声が、ぽつりを落ちた。

「佐久間先輩、って人がいて……」

 窓の向こうで、雪は横なぐりに降り続いていた。

「――なんだよ、それ」

「先輩の日記には、『学校で辛いことがあった』って書いてあった……。きっとうちの事で……もっと言葉を選べばよかった。そしたら、先輩は自殺しなかったかも」

 拳がこわばった。顔も見たことのない佐久間を殴りたくなった。

 俯いたまま、樹里が声を絞り出す。

「うちがいると、周りに迷惑がかかるん。色んな人を傷つける……」

「そんなことないだろ。その佐久間にしてもさ、やることが幼すぎるだろ」

「違う。うちがもっと考えて、言葉を選べばよかった。気を遣えないで好き勝手したのが悪かったんだ」

「なんでお前が一方的に悪いんだよ!」

 樹里の肩がびくりと震えた。「なんでそこまで樹里が負い目を感じなきゃいけないんだよ」

「だって……うちのせいで」

「そんな一線を越えるようなやつの心境はな、樹里がどうこうできるもんじゃなかったんだよ。迷惑かけたくないから自分を出さない? ふざけんな。そんなんで何が残るんだよ」

 みぞおちが鈍く痛んだ。俺は一体、誰に対して怒っているのか。

「樹里、ちょっとつまんなくなったな」

「な……」

「郵便局で言い合ったときの方がまだよかった。そうやって眉間にしわを寄せてるよりも、はっきりものを言う樹里の方が、俺は好きだ」

 こたつのファンが、低い音を立てた。

「樹里は、いまの学校、嫌いか?」

「……嫌いじゃない」

「本当はどうしたいんだ」

 樹里は目を伏せた。

「悪い言い方だけど、佐久間はもういないんだろ? 気兼ねなく学校いけばいいじゃないか」

「ダメ! ――行ったら、迷惑がかかる」

「迷惑、迷惑って……」

 樹里は、本当に佐久間のことを気に病んで学校に通えないんだろうか。

 家庭の事情で学校に行き渋ってるのかとも思ってたけど、そうでもない。

 他になにか理由があるのか? 

「――樹里は、誰に遠慮してるんだ?」

「――言えない」

「それって――」

「やめて!」

 息切れが、部屋を震わせた。

「言えば……うちは卑怯者になる」

 涙がこぼれる瞬間、樹里は布団で顔を覆った。

 背中を小刻みに震わせたまま、こたつにうずくまった。

「――判った」

 フードをつまんだら、樹里はこわごわと顔を上げた。「ごめん。言い過ぎた」

 教えてもらえなくてもいい。とにかくこの子は、今までこんなにがんばってきたんだ。

「ずっと一人でがんばってたんだな」

 樹里が、口元を震わせた。「でもさ、もう我慢ばっかりしなくてもいいじゃん。金曜日、ひとまず校長と話するんだろ。それからまた一緒に考えよう」

「……一緒に?」

「……嫌じゃなければ」

 耳が熱くなった。もしかして、俺、お節介がひどい奴?

「コーヒー淹れてくるわ!」

 立ち上がる恭平の背中を、樹里は苦しそうに目で追った。

 違う。待って。

 喉の奥が腫れたように息詰まる。

 樹里はスカートを握りしめた。

 本当は……


――友達に、迷惑をかけた。



「――なんで私たちがこんなに注目されなきゃいけないの」

 放課後の教室に、アミの声が響いた。

 あの頃、一年生の美術部員は、うちとアミと、かやちんの三人だった。クラスも同じで、一緒に行動していた。

 同じ美術部の佐久間先輩が、秋に自殺を図った。

 未遂で終わったけど、学校は騒然となった。

 うちは体調がおかしくなって、学校を休みがちになった。その間、かやちんがメールでクラスの様子を教えてくれた。予想していたが、佐久間先輩とうちとの噂話でクラスがざわついていた。


『ジュリエッタが気にすることじゃないよ』


 かやちんもメールでそう書いてくれてたし、うちもそう思っていた。仕方がないことだった。


「そろそろクラスに戻ってみる?」

 保健室通学から始めて、だんだん元気になってきた頃、ゆずちゃん先生が勧めてくれた。うちもそうしたかった。だから放課後、一人で教室を覗きに行った。

 ひんやりした廊下を、なんとなく音を立てないようにして歩いた。

 自分の席はいまどこなのだろう。少し開いたドアに手をかけようとしたら、声が聞こえた。

 窓から覗くと、アミとかやちんがいた。

 夕日に染まった窓際の席。アミは椅子に座って、かやちんは机に腰をおろしていた。

「――なんで私たちがこんなに注目されなきゃいけないの。佐久間先輩と樹里のことで、なにか答えられるわけないやん」

 アミの声が震えていた。

「まあね……グループが違う相手から話しかけられるのは、ちょっと疲れるよな」

「樹里がクラスに戻ってきたら、あいつらもっと騒ぐよ、きっと」

「まあ、落ち着くまでの辛抱だよ。ほら、人の噂も七十五日っていうじゃん」

「かやはのんきすぎるよ。なんで美術部員だからって、ひとくくりにされちゃうの。樹里と佐久間先輩の問題じゃん。私たち、関係ないよね」

「関係ないって……そうだけど」

 しばらく黙った後、かやちんがつぶやいた。「……そんなに辛かったの? アミ」

「嫌だよ、もう」

 アミが声をあげた。「私は、静かに自分のペースで好きなことしていたかっただけなのに。急に周りからあることないこと言われて……とばっちりだよ、こんなの」

 樹里が戻ってきたら、もっと騒がれるの? 困るよ! そんなの……

 すすり泣くアミをなだめるように、かやちんの戸惑った声が聞こえた。

「アミ……樹里は友達じゃん」

「友達だけど、付き合えるキャパはそれぞれでしょ? ……私は無理。教室で樹里をかばうなんて、やり方も判らない」

 内履きの裏の感覚がなかった。うちは、一歩ずつ後ろに下がった。

 下駄箱の前にきて、涙があふれた。


――クラスには戻らない。これ以上、アミが傷つかないように――

 

 保健室通学で、一年生の出席日数は充たされた。

 春になって、掲示板で二年生のクラス名簿を見た瞬間、膝が震えた。

 発泡スチロールのような鈍麻な恐怖が、頭を巡った。

 また、同じ――。

 二年生になっても、二人は変わらなかった。メールもするし、廊下ですれ違えば挨拶する。

 保健室に居れば二人で会いに来てくれて、おしゃべりして……

 怯えるように、うちを見る。 


――友達に、迷惑をかけたくなかった。



 最低だ。

 キッチンで恭平はミルを回した。

 触れられたくないところを、根ほり葉ほり聞かれる辛さは知っていたつもりだったのに。恥ずかしさでため息が出る。

 恭平はかき消すように首を振った。

 ともかく、今は一緒に居れたら……

 ぐい、と引っ張られて、思わず背中を反らせた。

 樹里が服の裾を掴んでいた。

「どした……」

 足元に、ぱたぱたと涙が落ちた。

――どうして抱き上げてしまったのか。考える前に、樹里の両脇に手を入れていた。

 左腕を膝の裏にあて直して、樹里の背中を右手で支えた。自分に妹がいたら、こうしてあやしたのかも知れない。

 パーカーからはみ出した髪が揺れる。肩に顔を押し付けて、樹里はひーん、ひーん、と泣き続けた。

「――大丈夫だよ」

 小さく上下する背中から、熱を感じた。「大丈夫。きっと、なんとかなるよ」




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