14 教師たち


「吉野。このままだと留年するぞ」

 担任の関が、保健室の丸テーブルにファイルを積み上げた。隣で滝本がそれを見下ろしている。「吉野の素行は悪くない。ただ、どうしても出席日数が少なすぎる。あと7回欠席したら留年確定だ」

「無理して教室に戻らなくても大丈夫よ。ここに来るだけでも出席になるから」

 関が咳払いをして、話を続けた。

「インフルとかならいいけど、ただの風邪だと欠席にカウントされるからな。でも、春休みまであと2ヶ月だ。平日だけならあと三〇日。無理な話じゃないぞ。来週金曜日、校長先生がいちど話をしたいとおっしゃってる。お父さんは学校に来れるか?」

「……聞いてみます」

 関はうんうんと頷き、ガッツポーズをした。

「がんばろう! 吉野」

 不意に、瞼が震えた。

――がんばる、って、なに?

「本当にここに残っていいんですか」

 関がぽかんと口を開いた。

 自分でもびっくりするくらい、はっきりとした声だった。喉はカラカラなのに、するすると言葉が出てくる。

「学校に居ていいのか判らないんです。教室には戻れない。留年も……きっと迷惑になる……」

 関が諭すように両手を広げた。

「わかった。こういうのはな、ひとつひとつ……」

「学校、辞めた方がいいですか?」

「なに言ってるんだ!」

 テーブルが揺れた。「そんな簡単に、人生投げていいんか!」

「関先生」

 滝本が樹里の椅子を支えた。関は息を荒くしたまま樹里を睨みつけていた。

「……帰ります」

 二人に頭を下げたら、足が勝手にドアに向かった。

 廊下の冷気が、熱い頬を包んだ。授業中だからか、廊下に誰もいない。

 耳の奥がキーンと鳴った。


――吉野さん。


 耳鳴りに交じってかすかに声が届いた。

 この声は……知っている。


――ね、吉野さん。僕と一緒にいようよ。


 佐久間先輩。

 あの日、廊下でささやいた先輩。皮肉めいた顔で、泣き出しそうな声で……。


 内履きのつま先が痛んだ。

 もうすぐ放課後になる。

 チャイムが鳴るまでにここを出ていかなくては。

 下駄箱で靴を替えて、校庭に向かって駆けた。フェンスの切れ目から図書館の方に近道できる。

 早くあの部屋に戻りたい。

 体育館につながる渡り廊下を横切ろうとしたときだった。

「吉野ぉ」

 思わず、足を止めた。懐かしい声が降ってきた。「今日はガッコ来てたんか」

 美術部顧問の建明たてあきが、三階の窓から手をひらひらさせていた。

「こっち来ないか? いま誰もいないぞ」



 保健室に残った関は、両手で顔を覆ってじっとしていた。

「どうぞ」

 滝本が紙コップを置いた。

「ああ、どうも……」

 関はゆっくり顔をあげた。「……なんなんでしょうね、吉野は」

 疲労と怒りが混じった声だった。

「近頃の若い子は、なんだってあんな簡単にやめたり逃げたりするんですか」

「そうですねぇ……」

 滝本は椅子に座り直した。「高校生ってほんとデリケートな年頃ですよね。吉野さんは、きっと今も悩んでいるんですよ」

 関が、訝しげに滝本を見た。

「あれは仕方がなかったことなのに……」

「……なんの話ですか?」

「恋愛は、どうしようもないって話です」

 関の口が半開きになった。

「誤解しないでくださいね。これは吉野さんから聞いたわけじゃないので。今から話すことは、私の妄想だと思って聞いてください」

「ええ、だから?」

「――関先生もご存じの、自殺を図った男子生徒ですが、彼はその三日前、吉野さんに告白して、断られたそうなんです」

――佐久間幹弘さくまみきひろ。当時一七歳。

 秋のはじめ、美術室で大量の睡眠薬を服用して自殺を図る。第一発見者は、美術顧問の建明だった。美術室の流し場に顔から突っ伏しているところを発見。吐しゃ物とたまり水で、喉が詰まり、呼吸が止まっていた。

 AEDで救命措置をし、救急車で搬送。幸い息を吹き返したが、後遺症が残った。

 佐久間は学校を自主退学。その後の経過は、誰も知らない。

「――事件のあと、彼に関わっていた教師全員と美術部員が、任意で警察から事情聴取を受けました」

――彼が自殺を図る前に、なにか変わったことはありませんでしたか?

 顔面蒼白になりながらも、吉野樹里は包み隠さず話した。異変はあった。佐久間先輩と口論した。自殺当日の朝、メールが届いた。件名はなく、一行だけ――


《吉野さんごめんね。僕のこと恨まないで》


「――自分のせいで佐久間くんが自殺したんじゃないかと、ずいぶん気にしてました」

「僕も読んだネットニュースのやつですね……いや、でもそれって……」

 関は目線を泳がせた。「吉野はなにも悪くないじゃないですか?」

 滝本は頷いた。警察も、吉野樹里に責任はないと判断した。大人から見れば、学生によくある小さな諍いに過ぎなかった。

「でも吉野さんは、そう簡単には割り切れなかったんでしょう……」



 美術室はがらんとして誰もいなかった。背もたれのない無骨な椅子が懐かしい。

「久しぶりぃ」

 黒板の側にある美術準備室の扉から、建明が顔を出した。天然パーマのツーブロック。教師の中では目立つ髪型をしている。

「部活、休みだったんですか」

「そーだよ。静かでいいだろ」

「……先生はなにしてるんですか?」

「授業の採点」

 建明はちょいちょいと手招きした。整頓された美術室とは違い、準備室には小さなブロンド像や描きかけのキャンバスが所狭しと置かれていて、棚には使いかけの絵の具が散らばっていた。

 樹里は窓際の桟にもたれた。

「――準備室、前より狭くなったね」

「まあな。別に不便はないよ」

「画材とかいろいろ運ぶの大変だったよね。ごめんね」

 佐久間が自殺を図った美術室は、いまは社会科の倉庫になっている。

「なんでお前が謝るんだか」

 建明がコーヒーメーカーを操作しながら、苦々しく笑った。「樹里のせいじゃないってのに」

「『樹里』って言った」

 ああ、これは失礼。と、ぼやきながら、建明は紙コップにコーヒーを注いだ。樹里に渡すと、そのまま手を伸ばした。骨ばった顎が樹里の頬をかすめた。背中に感じていた冷気が止んだ。

「そこ、危ないから腰かけるな」

 建明は窓の鍵を閉めた。

「建明くんだって、身乗り出してたやん」

「吉野。美術部、戻ってこいよ」

「……やだ」

 樹里はコーヒーの湯気を見つめた。「戻ったら……また迷惑かかるもん」

「いや、だからさ」

「お母さんは元気?」

「……なんで俺に聞くかな」

「ごまかしはダメ。連絡取ってるんでしょ」

「……まあ、な。元気だよ。忙しそうではあるけど」

「……そう」

 黒い波紋に、自分が揺れた。



 関はコップを見つめたまま、つぶやいた。

「なんていうか……私は、吉野はいじめにあっているんじゃないかと思っていたんです」

「確かに。彼女、目立ちますもんね」

 関が、目だけ滝本に向けた。

「吉野さんは、一種、魅力のある女の子です。奇抜な格好をしているわけでもないのに、その所作に目が離せないところがあるでしょう。きっと佐久間くんは……そんな吉野さんに惹かれたんです。でも、上手くいかなかった。それで、あんなメールを残して……」

「ええ……いや、でも……」

 恋愛かぁー、とつぶやきながら、関は頭をがしがしと掻いた。「それで学校にこれなくなるなんて、本当か? と思いたくなります。いっときの感情で学校生活を棒に振るなんて……」

「それは大人が決めていい領分ではないのでは? なにを辛いと思うか、どれだけ辛いと感じるかは、人それぞれなんですから。さらに恋愛だというなら、外野があれこれ言うのは、もう無理じゃないですか?」

 関は苦しそうに眉をしかめた。

「……その通りかも知れませんね」

 


「――ねえ、やっぱり窓、開けていい?」

「少しな。紙が飛んでいっちまうから」

 開けたとたん、プリントが散らばった。建明にくどくど言われながら、床に落ちたのを拾い上げる。頭上でカーテンがふくらんで、目の前が半透明の世界になった。

 一瞬の風で、またするりと納まったカーテンの向こうで、渡り廊下そばの花壇が見えた。

 苗箱を持った人がいる。

 あの作業服のおばちゃん……前も花壇の手入れをしてたな。あの花はなんだろう。遠目ではよく見えない。いまから植えて、春まで咲いているのだろうか。

 樹里はプリントを胸に抱いた。今日は雪が降りそうなくらい、寒い。


 七時を過ぎてしまったけれど、恭平の部屋に寄った。

 暖簾を上げると、恭平がこたつに入ってパソコンを見ていた。

「おかえり。遅かったな」

「……色々あって」

「――寒かっただろ。夕飯たべてくか?」

立ち上がる恭平が、じわりと滲んだ。

「恭平……うち、学校、辞めるかもしれない」



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