10 野猫観察記
「お前……ばかじゃねぇ?」
ファミレスのテーブルがゴツリと鳴った。井上は、続けてゴツゴツと拳を叩きつけた。「どんな言い訳つけてナンパするわけよ」
「ナンパじゃない。保護だ、保護」
「お前はいつから保健所勤めになったんだ? 動物愛護条例の前に、青少年保護育成条例に引っかかるわ」
恭平は両手で顔を覆った。
「なんでバレーボーラーが、そんな条例すらすら口に出せるんだよ……」
「スポーツマンは清楚が命。監督が俺にくぎ刺すんだよ」
そう言いながら、パスタを運んできたウェイトレスににっこりと微笑む。 井上はうきうきとフォークを絡めた。
「いやー面白い。ついに恭平をいじる日が来たぞ」
「いや待て。本当にやましいことはなにもないから!」
「ばーかな! 密室に二人でなにもないわけないだろ」
突き出されたフォークに、恭平はため息をついた。
観察記 1
「――ただいま」
鍵を回さずにドアを開けることが多くなった。靴を脱いでいるうちに暖簾が動いて、樹里がそっと顔を出す。
「おかえりなさい」
それだけ言って、部屋に引っ込む。デッサンの続きに戻るのだ。
カバンを廊下に置き、熱いシャワーを浴びる。樹里が通うようになってから、着替えを洗濯機の上に置くようになった。たまに忘れて、バスタオル一枚で部屋に入ることもあるが、樹里がデッサンに没頭してくれているから、すごく助かる。
風呂上りは、ベッドで本を読む。樹里はずっとデッサンしている。
やがて樹里のリュックからアラームが鳴り響く。それを合図に、樹里は肩の力を抜いて、息を吐く。イーゼルから離れて、デッサンの狂いを確認する。そしておもむろにつぶやく。
「……今日、学校で」
俺は姿勢を正す。彼女はいつも、このタイミングで話しかけてくる。
自販機にイチゴミルクが入った。
保健室の本が増えた。
花壇の花が植え替えられた。
画材を片付けながら、脈絡なくなんでも話す。
話さない日もある。そんな日は、たぶん朝からここにいるのだ。デッサンもより緻密になっている。
「じゃあ……ありがとう」
樹里はローファーのつま先を小突いた。静かにドアが閉まる。俺はようやく右手を下ろす。
「――え、それで終わり?」
井上は顔をしかめた。「ずっと部屋で絵を描いてるだけって、そんなんで間がもつのか?」
「もつんだよ、これが」
「男の部屋に女子高生が居座っててなにもないって、そんなん面白くないやん」
「エンタメ的には面白いかどうかはすごく重要だが、俺はそれを求めていない」
「なにメタなこと言ってんの。そういうのって、状況が揃ってたら、自然に転がり込んでくるもんっしょ。非日常的なものがさ!」
恭平は注文したパイにフォークを刺した。こういう恋愛脳って、まじで面倒くさい
「――あ、そういえば、この前さ……」
「なんだ」
井上が目を輝かせて、顔を寄せてきた。
観察記 2
ミステリーだ。どうやら最近、俺以外にも体重計を使っている奴がいる。
「いや、樹里ちゃんだろ」
井上はグラスの氷をかみ砕いた。
「聞きたいなら黙ってろ」
朝、体重計の電源をつけると、明らかに自分ではない体重が表示された。
ミステリーだ。
体重計にはメモリー機能があり、直前に計った体重が出てくるのだが……
この、48㎏ってのは、普通なのか?
ぱっと見、樹里は一六〇㎝くらいだ。体重を気にしているようには見えなかったけど、女の子の基準はよく判らない。
そんなことを考えながら、俺は体重計に足を載せる。表示された筋肉量と体脂肪率に、小さくガッツポーズが出る。
夕方、仕事から帰ると、いつも通り樹里が顔を出した。
なんだか元気がないように見える。スケッチブックには、今日も緻密なデッサンが描き込まれている。
「いつから描いてるんだ?」
「……お昼過ぎから」
「お茶するか」
樹里は、ぼんやりした顔で頷いた。コーヒーを淹れて、ローテーブルにお菓子を並べる。
「これ、先輩の旅行土産。岩手に行ってきたんだって」
はちみつを混ぜた胡桃ペーストを、クッキー生地で挟んだ盛岡市の名物だ。
「わぁー」
樹里が目を輝かせた。「このロゴ、小田中耕一のデザインだ!」
そっちかい。
樹里は食い入るような目つきで、包装紙を指で伸ばした。今日は珍しくポニーテールにしている。細い首が、ワイシャツの襟を通って、その先の鎖骨が……
「……樹里」
「え?」
俺は樹里の両脇に手を入れて、持ち上げた。首根っこを掴まれた猫のように樹里の両足がぷらぷら揺れた。
まだぼんやりとしてるのか、樹里はなにも言わない。俺はそのまま浴室まで連れていき、体重計に乗せた。
「46㎏」
2㎏減⁉
「あー、今日はずいぶんと……」
「持病でもあるのか?」
しょぼしょぼとした顔で、樹里が俺を眺めた。
「デッサンしたら、いつも減るけど」
……こいつ。脳みそだけでいったい何カロリー消費してるんだ?
「飯!」
「え?」
「飯食ってけ! 今から作るから、親父さんに連絡入れとけ」
二十分後。樹里の目に輝きが戻った。
卵をたっぷり使ったとろとろの親子丼と、ナスの味噌汁。
休みなく食べる樹里を眺めていたら、ため息が出た。
「なあ樹里……もうちょっと肉つけた方がいいんじゃない?」
味噌汁の椀を持ったまま、樹里はまたたいた。「多分さ、樹里は普段からエネルギーが足りてないんだよ。絵を描くには、頭も使うし、姿勢を保つために筋肉も使うだろ。人間はカロリーを消費するとき、まず体内の炭水化物を消費して、次に脂肪を燃焼させるんだ。さらに脂肪が足りないと、今度は筋肉が分解されていく。怖いだろ? つまり、基礎代謝が落ちるってことだ」
「えっ、と……」
俺は親子丼を指した。
「要はもっと食べろ! そして筋肉を増やせ!」
「ええ」
「明日から俺とここで筋トレだ!」
「ええ! 筋トレ⁉ ――って、なにするの?」
「あー……」
おろおろする樹里を見ていたら、頭が冷えた。「とりあえず、バランスボールかな」
「――それからは、体重計で樹里の筋肉量も計るようにしててさ」
井上が、呆れた顔で水を飲んだ。
「おかんなの? なにやってんのよ恭平」
「面白いだろ?」
井上は頬杖をついた。
「てかさぁ……囲い過ぎじゃね? 出席日数とか大丈夫なん? その樹里ちゃんて子」
なんとも言えず、レモンパイをフォークで突くしかなかった。
「恭平さぁ、樹里ちゃんに自分を重ねてんだろ?」
井上の物憂げな目に、胸の奥が委縮した。「高校のときのお前みたいに樹里ちゃんが苦労するのを見てられなくて匿ってあげてんだろ。でもさ、それって、樹里ちゃんから見たらどうなんかな。同情よりもタチ悪くない?」
井上は背伸びをした。「あー、そっか、樹里ちゃんにはそんなこと話さないか」
腕を充分伸ばしたところで、井上はやっとこちらの視線に気づいたようだった。さっと手を下ろして、背筋を伸ばした。
「けっこう掘り下げるじゃん」
「あいすみません。ここはおごらせて頂きます!」
井上はテーブルに突っ伏した。
窓辺にある観葉植物の葉が、一部枯れて茶色くなっていた。
観察記 3
「ここんとこ朝から来てない?」
ベッドの上で雑誌をめくりながら、それとなく聞いてみた。樹里は返事もせず、デッサンを続けていた。別に糾弾してるわけじゃないのにな……。仕方なく、雑誌に目を戻すと、ぽつりと聞こえた。
「2年生は、修学旅行だから」
彼女は黙ってデッサンを続けている。一定に動く肘。その先につながる汚れた右手。細い指。長い芯。
「――綺麗だな」
樹里が怪訝な顔で、ゆっくりと振り返った。「そのデッサンやばい。なんで俺ん家のクローゼットがそんなに綺麗に見えるんだ?」
「……クローゼットが素敵だからじゃないかな」
樹里はうつむいて、ねりけしを伸ばした。隣に並ぶと、頬がうっすらと赤かった。
「絵、好きか?」
「――うん」
樹里は鉛筆を動かし続けた。「ここなら思いっきり描ける。他の場所だと……たくさん人を傷つける」
「それはたぶん、相手の度量が狭いんだよ」
肌理にふれる芯の動きが止まった。メガネの奥で、まつ毛が震えていた。「コーヒーでも淹れるか」
「……うん」
キッチンに並んで、サーバーに落ちていくコーヒーを、静かに眺めた。
「な、明日も来る?」
「……行く、つもりだったけど」
「俺、仕事休みでさ」
「――ごめんなさい! 明日は家に居る」
「え? 違う違う。これ」
隣県の美術館で開催中の『印象派展』のフライヤーに、樹里は目を丸くした。
「どうせだし、遊びに行かないか?」
その日、樹里は初めて私服でやってきた。白のスキッパーシャツに細身のジーンズ。ロングカーディガンを羽織り、小さなリュックを担いで来た。
駐車場で待っていた恭平は、思わず腕組みした。
「学校の制服は真面目だけど、私服はカジュアルなんだな」
「制服はオーソドックスに着るのが好きだから」
照れもせず、彼女はさらりと言った。
「髪型も違う」
「制服のときもしてるよ。今日はアクセ着けてるからかな」
後ろにひとつにまとめている髪も、髪ゴムの周りがゆるやかにカールする凝った作りをしている。
「簡単だよ。くるりんぱ」
「くるりんぱ?」
「えっと、なんていえばいいか……とにかく、こうやってまとめた髪の根元を分けて、そこに毛先を入れて、下へ引き抜くと……」
「へえ、けっこう簡単にできるんだな。ヘアアレンジってすごいな」
「お母さんが……お洒落はさりげなく、なんだって」
「そっか――」
高速道路に入ると、音と景色が平坦になった。樹里は静かに窓を外を眺めている。ハンドルを握る手が、湿っぽかった。
「樹里のお母さんってさ……その、画家なのか?」
「――うん。一応、画家。なったのは最近だけど」
「画家ってさ、どうやって生計立ててんの?」
「いろいろあると思うけど、お母さんは画廊と契約してて毎月決まった枚数を描いてお金もらってたみたい」
「へー……毎月どれくらい描くの?」
「十枚から十五枚」
「……一カ月で? 売り物になるくらいの絵を?」
「売り物になる絵、っていうのはよく判らないけど……とにかく描かないと画廊と切れちゃうからって、ここ数年はずっと枚数をこなしてた」
「すごいな……」
ずいぶん遠い世界の話だ。いまさらだが、和美はよく離婚したものだ。もしも樹里を引き取ることになっていたら、二人して生活難になっていたのではないか。
「ゴッホの絵は、生前は一枚しか売れなかったんだって」
抑揚のない声だった。「でも今は誰でもその名前を知ってる。誰でも知ってる、って、信じられないくらいすごい事だよね」
「……そうだな」
「売り物になる絵、って、なに?」
樹里の言葉が、胸の奥に波紋を残す。「そのとき売れなかったら悪い絵で、売れたら素晴らしい絵になる?」
「……俺は、絵を買ったことがないからなんとも言えないけど、今のはちょっと違うような気がするな」
助手席は静まり返った。
「……怒ってる?」
「――違う。理不尽な人生について考えてるだけ。がんばっても報われない社会について、いろいろ思ってるだけ」
「……社会って、そんなんばっかでもないよ」
樹里の視線を感じた。「社会にはいろんな仕事があるし、収入も不安定な職ばかりじゃない。そもそも、やりたい事だけを仕事にする必要はないわけで」
速度を出し過ぎていないかメーターを確認する。
「周囲が求めるものをサービスして収入を得たり、人がしたくないことを率先して引き受ける仕事もある。まあ、ブラック企業とかもちろんあるけどさ、世の中、そう理不尽な仕事ばかりってわけでもないよ」
コーヒーを取ろうと手を伸ばしたら、紙コップと一緒に樹里の指先が触れた。
「ありがとう」
氷のかけらが喉を通っていった。ぽつりと、声が降ってきた。
「そう言えるのは、恭平が、理不尽から遠い場所にいるからだよ」
しっかり働いて、お給料をもらって、休日には私を美術館まで連れて行ってくれる大人……。
恭平は、お母さんを否定する大人――
「……まあ、そうだな」
高速道路の出口が見えてきた。「理不尽な世界に『好き』を見つけちゃったらどうなるか……それは俺も判らないな」
「……そう?」
「好き、っていうのは本当に強いよな」
ブレーキを踏み、ゆっくりカーブを曲がった。「印象派展、楽しみだな。俺、美術の事はよく判らないから、教えてくれよ」
樹里は下唇を噛んで、頷いた。
これが、恋する女子ってやつか?
展覧会で、樹里のテンションは上がりっぱなしだった。
オレンジ色の巨大甘食のようにしか見えないミレーの「積みわら」がいかに良いか、滔々と語ってくれた。
次はモネ。ドガ……最初は恭平の質問に答えていたのだが、樹里は徐々に自分のペースで動き始めた。行って、戻って、立ち止まる。顔を寄せてはすっと離れる。
そして終わりにさしかかり、あの画家の絵が、目にとびこんできた。
手を引かれるように、樹里は人だかりの隙間を縫って展示ロープぎりぎりまで近づいていく。
「これは無理だわ……」
人混みを押し分けていく気力はなく、恭平は展示室の中央にある長椅子に腰かけた。
つま先立ちをしているのか、樹里の後頭部が上下している。
……理不尽な世界って、ヤクザな世界の事だよな。じゃあここはヤクザな世界の崇高な場所?
ほの暗い室内でライトに照らされる絵画群を、恭平は一望した。
今の世の中、絵を描いて食っていける奴がどれだけいる? 夢のために、家庭を捨ててまで絵を描くのが、本当に幸せなのか?
和美は身勝手だ。でも、樹里は、彼女の気持ちが誰よりも判るのかもしれない。
町を徘徊していたあの日より、今日の方が、ずっと生き生きした目をしている。
樹里には、絵が必要なんだ。
かつての俺のバレーのように、樹里にとって絵が救いというのなら……今は、好きなだけ俺の部屋に来ればいい。修学旅行も行かなくていい。絵を見て、感動して、樹里が今日一日を心穏やかに過ごせるっていうなら、それだけで、俺は構わない。
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