9 ダンボールに野猫
「痴話げんかに巻き込まれるとか困るんすよ、マジで」
「ええ……ほんとすみません」
恭平はドアノブをぎりぎりと握った。痴話げんかする間柄でもなんでもないんですがね。
すると、ドアが閉まった。
「もういいよ、早く行ってくれ!」
「――お邪魔しました」
樹里を探して4階に上がったが、見当たらない。階段を降りてみると、2階の踊り場に丸まった背中が見えた。スケッチバッグを抱いて、樹里がへたり込んでいた。
「――おい」
樹里はびくりと振り向いた。恭平はゆっくり階段を降りて、樹里の隣にしゃがんだ。「なんとか穏便に済んだから。部屋の階数が違ったね、うちは4階だよ」
樹里は眉間にしわを寄せたまま、恭平を見つめた。
「仕事から帰ってきて階段上ってたら、3階の廊下で声が聞こえてさ。ちょっと覗いたら……」
恭平は苦笑した。「リュック、取りに来たの?」
樹里は顔を赤くたまま、小さく頷いた。恭平は微笑んで、小さくため息をついた。
「俺さぁ、偽善者みたいに見えてた?」
樹里の瞳が見開かれて、かすかに揺れた。
「……女の人の声がしたから」
「んー……いや、まあさっきのは誤解だとして……してもだよ? 俺の部屋に彼女がいたら、君は俺を偽善者呼ばわりするんだね」
「わ、わたしは! どんな理由があっても、彼女がいる男の人の部屋には入らない! 節操のない男なんて……大っ嫌い」
ええ……意外と潔癖。恭平は喉からこみあげそうになる言葉をむりやり飲み込んだ。
樹里は鼻をすすった。
「リュックを……」
「うん判った。持ってくればいい?」
恭平は早口で答えた。これ以上嫌われるのは人として辛すぎる。しかし、樹里は頷かなかった。もの言いたげに、両手を組んで、さすっている。
「えっと……まだなにか話したいことでもあるなら、部屋で聞くよ? ここでしゃがみ込んでたら、住人から不審者扱いされるかもしれないし」
「――彼女がいるなら、入りません」
「……いません」
「今は部屋にいないだけ。とかじゃなくて?」
「……」すくっと、恭平が立ち上がった。
「リュック、取ってくるから、ここで待ってな。それで、もう帰りな」
「えっ」
驚いたように、樹里が膝を立てた。
「部屋に入るのはありえないんでしょう? 俺の状況がどうあろうとさ」
「どういう意味ですか?」
「だって、彼女がいたら、女の子を部屋に呼ぶのはアウト。彼女がいなくても、気軽に部屋に呼ぶのは下心があるとみなして、これまたアウト。俺も、昨日みたいなこと、もう嫌だから」
樹里が慌てて口を開いたが、それを消すように恭平は手をかざした。「君にしてみたら、俺はなにをしても偽善者なんだろ?」
手の甲の向こうで、樹里が下唇を噛むのが見えた。みぞおちが、ぐっとせりあがった。この不快感。自分の言葉に毒気をあてられるなんて久しぶりだ。
「……ごめん」
「――彼女がいないんなら、別にいい」
樹里が、スケッチバッグを両手で握った。「うちは、ノネコなんですよね?」
「え?」
「ほら、動物愛護団体に、睨まれないようにしてもらわないと」
みるみるうちに、樹里の顔が赤くなっていく。耳まで赤くして、彼女はつっけんどんに言った。「だから、入ってもいいですか?」
とっさに吹き出すのを抑えたが、肩だけは揺れてしまった。
悔しそうに、樹里が仁王立ちして、睨んでくる。ついに恭平は笑い出した。そうか、この子は別に、俺を嫌ってるわけじゃないんだな。
「なんですか!」
「いやー」
恭平は目尻をぬぐった。
かといって、問題は山積みなのだが。
「いくつか確認させてくれ」
樹里に座布団を勧めながら、恭平は神妙に言った。「まず、帰宅時間の確認。何時までに帰れば、親御さんは心配しない?」
「……7時半から8時までなら。部活してれば、それくらい遅くなることもあるし」
「部活って、美術部?」
「うん……今は休んでるけど」
「ああ、この前ここでつぶやいてた先輩がどうのこうのって、あれって、美術部の先輩? なんかトラブったとか?」
できるだけ軽く聞いたが、手が汗でじっとりした。ネットで見た自殺未遂の記事……あれは樹里と関係あるのだろうか。
樹里はきょとんとした。
「あ! あれはその‥…!」
恥ずかしそうに目を伏せる。「画塾の先輩で」
「――画塾って、美術部とは違うの?」
「家の近所にある個人宅がやってる教室で」
「へえ」
恭平はコーヒーを樹里に渡した。どうやらこの子は、いろんなところでトラブルを勃発させているらしい。
「中学の頃からよく二人で遊んでた先輩なんだけど」
樹里は恥ずかしそうにマグカップを持った。「あるとき、彼女さんが塾に来て」
「来て?」
「めっちゃ怒られた」
恭平はコーヒーを噴き出しそうになった。
「距離感間違えないようにとか、諭された」
「諭されたんだ」
なるほど、それで神経質だったのか。「判った、じゃあ、それはそれとして。いま、平日はどうしてんの?」
「保健室で過ごしたり、家に居たり……。本音をいうと、家は居づらい」
「――率直に聞くけど」
樹里を見据えて、恭平は唾を飲んだ。「ⅮⅤとか、遭ってない?」
「っお父さんはそんなことしない!」
樹里はぶんぶんと髪を揺らした。そして斜め下に視線を落とした。「ただちょっと……空気が重いだけ」
「あ。そうなんだ……」
ほっとしたが、今度は後ろめたい気分が込み上げてきた。妻の引っ越しに関わった作業員の部屋に、娘がいると知ったら父親はどう思うだろう。
恭平は頬杖をついて、樹里を見つめた。
――まあ、杞憂だな。
ばれたらばれたで。いまはこの子、優先で。
恭平はおもむろに立ち上がり、多段チェストの引き出しを開いた。
「手、出して」
樹里はおどおどと右手を開いた。小さな塊が、彼女の手のひらに落ちた。銀色の鍵が、鈍く光っている。
「部屋のスペアキー、無くすなよ」
樹里は恭平を見上げた。そして、宝物を扱うように、三本の指で丁寧に鍵をさすった。
「親に心配かけない程度なら、いつでもここに来ていいから」
「……うん」
上の空のように、樹里はつぶやいた。
「あと、もう部屋を間違えるなよ。うちは4階だから」
「……間違えないようにするけど、このマンション、どの部屋も表札がかかってないから、不安になる」
不満げに樹里に睨まれて、恭平は腕組みをした。
二人でドアの前に立つ。
なにもなかった表札入れに、無地の厚紙を差しこんだ。部屋にあった和菓子の箱を切り抜いて、とりあえず作ってみた。
「よし、これで判るな。茶色の表札は、うちだけだ」
「――ダンボールみたい」
「え、そう?」
「名前は……入れないんだね」
「表札を見て、名指しで勧誘されるの面倒なんだ」
樹里が、ゆっくり恭平に顔を向けた。
「本当に……通っていいんですか?」
すんと頷き、恭平は樹里の背中を押した。玄関を閉め、すかさず背中を曲げた。「ぜんっぜん遠慮しなくていいから! でも、周囲に誤解されないように、口外はしないでくれるか?」
「誰にも?」
少し寂しそうな声だった。恭平は口を一文字に結んだ。
「……信用のできる人だけなら」
樹里はこくりと頷いた。
「……部屋で、絵を描いてもいい?」
「いいけど、汚れが落ちない絵の具とかは困るかな」
「油絵の具とか?」
「そうそう。使ったことないけど、すごく汚れるイメージがある」
樹里はまたこくりと頷いた。「判った。鉛筆デッサンにする」
「――ごめんな。他は遠慮しなくていいから。デッサンに画板とか使うんだっけ? 必要なものは持ち込んでいいからな」
「……ほんとう?」
「うん、部屋における程度のものなら」
信じられないものを見た。
「ありがとう!」
花が開くように、樹里が満面の笑顔を見せた。これはなにかの前触れなのでは。恭平は動悸が治まらなかった。
そしてそれはあたった。
翌日。仕事から帰ってきて、恭平は暖簾をあげたまま立ち尽くした。部屋に、高さ一メートルほどの木製の物体が、隆々と起立していた。そこにスケッチブックが立てかけてある。
ローテーブルには、むかし美術室で見たよりも小ぶりだが、間違いなく石膏像が、でんと乗っている。
「あ、おかえりなさい」
スケッチブックの後ろから、樹里がひょっこりと顔を出した。
「えーっと……樹里さん、これはなに?」
「これ? イーゼルだよ」
ワイシャツの袖をまくりながら、樹里がイーゼルの木枠をさする。
「へえ……これって、そういう名前なんだ……」
小さなアトリエができていました。
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