8 作業員、謎に触れる

「実は俺、無類の猫好きなんだ」

 無類の猫好き? なに言ってんだ俺は。

「つい、ノネコを保護したつもりでいて……」

 樹里が口を半開きにしている。

 めっちゃ恥ずかしい。すげぇ疑わしいって顔してる! でも、とにかく、そんな風には見てないと思わせないと!

「つまり俺は! 君のことを猫だと思ってる! うちに呼んだのは、動物愛護精神からなんだ!」

 背中が汗だくだった。恭平は無理やり微笑んで見せた。

「……それって」

 唖然として恭平を見上げていた樹里が、つぶやいた。「猫耳女子を好む、オタクってことですか?」

「……いや、そうじゃない」

「じゃあ、ますます意味がわからない!」

 恐怖がピークに達したら怒りになるのか。かみつくように樹里が怒鳴った。

 ああ。この子の中で、俺の信用は今こそ地に落ちたに違いない――……


――そんなことを繰り広げようが、朝は必ずやってくる。

 5時からアラームが、10分おきに鳴っている。

……最高に疲れた。

 恭平は布団の中でこめかみを押した。

「もう来ません! さようなら!」

 樹里は、そう捨て台詞を吐いて出ていった。

 いや、別にもう来なくていいけどさ……。恭平は枕に顔をうずめた。

 猫好きだというごまかしは、完全に失敗だった。動物愛護精神で保護したなんて、今にしてみれば他にも言いようがあったのかも知れないが、あの時はあれが精一杯だったのだからしょうがない……。

《ピ》

 5時半のアラームを素早く止め、恭平は布団から跳ね起きた。カーテンを勢いよく開ける。洗面所でざぶざぶと顔を洗い、頭にも水をかけた。

「よし、もう終わりだ、終わり!」

 ローテーブルに置いてあるリモコンを取り、テレビをつけた。ふと、テーブルの下に、なにかが押し込まれているのに気付いた。

「……うそだろ」

 樹里のリュックだった。「どんだけ慌てて帰ったんだよ」

 顔の前まで持ち上げて、恭平はげんなりとした。

「貴重品は……」

 後ろめたいが、中を改める。教科書、筆箱……。内ポケットから、定期券と学生証が出てきた。

「……三日待っても来なかったら、学校に捨て置くか」

しゅんしゅんとケトルの蓋が揺れる。トーストをかじりながら、恭平はノートパソコンを開いた。

湊沢みなとざわ高校、だよな。確か。遺失物取り扱い窓口載ってないかなー」

 ウェブの検索窓に、高校名を打ち込んだ。


湊沢高校|  

――――――――――――――

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湊沢高校 偏差値

湊沢高校 自殺未遂



焦げたパンの欠片が、キーボードの上に落ちた。

マウスの矢印を、「自殺未遂」の上に重ねた。


    湊沢高校の2年生男子生徒 自殺未遂。進学の悩みか?


 「生きることが辛い。未来が見えない」等の日記を残して、校内で睡眠薬を大量に服用し自殺未遂を図ったこの事件、高校側はいじめを否定しています。確かに男子の日記からは「日々の勉強が辛い」等、進路についての悩みが多く書かれていました。しかし校内の人間関係が一因になっているという見解はぬぐえず、特に所属する美術部では部員と仲が悪く、廊下で女子部員と言い争いをしていた場面も見受けられたそうです。何があって男子学生は自殺に踏み切ってしまったのか。今は自宅療養をしているとの事ですが、正式には公表されていません。

 

 指が震えた。

――私がいると、色んなものが壊れそうで怖くなる。

 スケッチバッグを肩にかけて歩く樹里の背中が、恭平の脳裏に浮かんだ。




――ちゃんと遅刻せずに学校に行くのは久しぶりだ。

 保健室のドアの前で、樹里は小さく息をついた。

 なるべくそっと引き戸を開けたが、労の甲斐なく、けたたましい音が鳴り響いた。いつもこうだ。滑車になにか引っかかっているのだろうか。

「はいはーい!」

 明るい声で、「ゆずちゃん先生」が振り向いた。

「お、吉野さんだ! おはよう」

 滝本柚希たきもとゆずきは、身体をひねったまま出窓に浅く腰かけて、ひらひらと片手をあげた。もう片方には霧吹きを持っていて、その後ろに並んだ観葉植物が、光を浴びて輝いていた。

「おはようございます」

「今日はどうした?」

「ここで勉強したいんですが、いいですか?」

滝本は霧吹きをプシュッと押した。

「オッケー。じゃあ担任の先生に伝えるね」

 白衣をひるがえし、机の内線電話の受話器を取った。滝本が話しているうちに、樹里は丸テーブルのところへ行き、椅子に腰かけた。大理石模様の丸い天板をそっとなでる。

「一限目は数学だけど、教科書か参考書持ってきた?」

「参考書なら。教科書はいまちょっとなくて……」

「そう? じゃあ参考書の例題を解いていこっか」

 滝本は樹里の横まで椅子を転がしてきた。樹里はスケッチバッグから美術用のペンケースを取り出した。カッターで削られた長い芯の鉛筆と、練消しゴムをテーブルに置く。

「あれ? それだと書きにくくない?」

「……筆箱も忘れてしまって」

「画材だけは忘れないんだね、感心感心」

 滝本はにこにこして机のペン立てからシャーペンシルを引き抜いて樹里に渡した。少し頬を赤くして、樹里はシャーペンの芯をノックした。

 静かだった。HBの芯がノートの上で摩耗していく音だけが響く。保健室は日当たりがよくて、レースカーテン越しに差しこむ5月下旬の陽光が、罫線の上で揺れていた。

 例題を解きながら、樹里はここにはないリュックについてぼんやりと考えた。あの部屋に置き忘れてから、もう二日経っている。

 忘れたことに気づいたのは、駅に到着してからだった。改札口で定期券を出そうとして、背中が軽いことに愕然とした。幸いスケッチバッグに財布が入っていたので、その日は切符を買って家に帰った。昨日は学校を休んで、今日は切符を買った。意外となんとかなるものだ。

 樹里は頬杖をついた。

 たぶん、リュックに入っているのは、定期券と学生証。2年生の教科書に、あと筆記用具くらいだろう。ずっとお小遣いを切り崩すのはなんなので、定期券はどうにかしたい。いっそ、紛失したものとして、新しく買いそろえてもいいかもしれない。でも、なんとなく、そうしたくない気持ちもある。じゃあ取りに行けばいいんのだけれど、いざ行くとなると、勇気がいる。

……捨て台詞も吐いちゃったし。

「難しい?」

 滝本が参考書を覗き込んだ。樹里は背筋を伸ばして、シャーペンを走らせた。

――数式のように人間関係もきれいに解くことができればどんなに楽だろう。

 中学校のとき、因数分解を解いた爽快感を思い出す。……人が考えることは、いつも複雑だ。あの人も、なにを誤魔化したかったのか知らないけど、うちのことを猫だとか……。いや、違う。確か「ノネコ」って言ってた。

 樹里はシャーペンの芯を見つめた。

「――先生、辞書借りていいですか」


【野猫】の・ねこ。のらねこ。やどなしねこ。

飼い主に捨てられて野に放たれた状態。

            

 広辞苑の字面を指でなぞりながら、樹里は唇をむすんだ。

……突拍子もない発言に引いたけど、実のところ、うちの今の状況はノネコに近いのかもしれない。

 スピーカーから終了のチャイムが鳴った。

「吉野さーん、麦茶飲む?」

「いただきます」

 広辞苑を戸棚にしまい直す。のねこ・のらねこ・やどなしねこ……。呪文のように、辞書の言葉が頭の中をめぐっていた。

 昼休み、滝本とサンドイッチを食んでいると、背後でドアが轟いた。

「うわ。このドア、すごい音しますね」

 クラス担任のせきだった。「おー、吉野!」

 関は大股で樹里に近づき、隣の椅子にどかりと座った。

「久しぶりだな。勉強で分からないところとかないか?」

「あるけど、なんとかしてます」

 関はうんうんと頷き、そしてしょぼんと眉を下げた。

「教室で一緒に勉強できたら、もっと教えてやれるんだがなぁ」

「……すみません」

 手のひらが汗でじわりと濡れた。こういう態度をされるのが、いちばん困るのだ。

「吉野さんは保健室でも勉強がんばってますよ。私も分かるところは教えてますので」 

 滝本はにっこり微笑んだ。

「そうですか! それはなにより。ま、吉野、教室にも来れるようにがんばれよ」

 樹里は目を伏せた。なにをがんばるのか。関先生は判って言っているのだろうか。

「お昼休みまでわざわざありがとうございます」

 滝本に付き添われて、関はしゃべりながら保健室のドアを引いた。また轟が響く。関は耳に指を入れた。

「これ、どうにかならんのですか?」

「いいんです、これで」

 滝本は目を細めた。「静かだと、誰か来ても気づかないかも知れないでしょう」

 はあ~、そうですか? とぼやきながら関は出ていった。滝本は白衣のポケットに手を入れて、冷ややかにため息をついた。そのままドアを閉めようとしたら、廊下で女子生徒が二人、関に呼び止められているのが見えた。そのまま、保健室に向かって走ってきた。

「おー、ジュリエッタ、いた!」

「かやちん」

 滝本の脇をすり抜けて、背の高いボブカットの女子が手を振った。彼女の後から、もう一人がおずおずと顔を出す。

「アミも」

「久しぶりやーん!」

 かやちんは購買のパンを振りながら、樹里の椅子に手を置いた。アミは、テーブルの向かいに立って、控えめに微笑んだ。

「関先生のクラスの茅野かやのさんと網崎あみさきさんね? 確か部活も同じ」

「そーでーす。ゆずちゃん先生、ここで一緒にお昼食べていいですか?」

「どうぞどうぞ」

 机で弁当を食べる滝本のそばで、三人は丸テーブルに座った。

「さっき関がさー、ジュリエッタが保健室にいるって教えてくれたんだ」

「そうなんだ……」

「今日は美術部行く? 建明たてあきセンセに顔みせてやんなよー」

 かやちんはコロッケパンにかぶりついた。

「……今日は、いいかな」

「うん? そっかー。ジュリエッタが来ないと寂しんだけどな。二年はうちとアミだけだし。先輩たちは夏休みまでにさっさと引退して、部長職を譲るとか言ってるしさー」

「一年生はどれくらい入ったの?」

 4月から一度も部室に行っていないから判らなかった。

「……あー」

 かやちんとアミが顔を合わせた。アミが、少しいびつに微笑んだ。

「今年はゼロだったんだ」

「今年度の一年生は、吹奏楽部とチア部に集まってるらしいよー」

 かやちんが、ふたつめのパンの袋をやぶりながらぼやいた。「あれだ、昨年の野球部ミラクル甲子園出場のせいだな、ぜったい」

 悔しそうなことを言っても、かやちんはそれ以上続けず、次々と話題を変えた。最近ハマった漫画。担任の関について。こんど体育で創作ダンスすることになったんだけど、パンが膨らむ様子を表現するって、どうすんよ! とかやちんがテーブルに突っ伏したら、エアーポケットに入ったように、保健室は静かになった。

「……樹里は最近どう?」

 アミが、窺うような目をした。

「最近……どうかな、うん」

「あ、ごめん。昼休み終わりそう!」

 かやちんが立ち上がった。

「ほんとだ」

 アミも荷物をまとめる。出るときに「またね……元気そうでよかった」と、ささや土た。


 体育館そばの自販機の前で、紙パックのコーヒーを買い、樹里はのろのろとストローを刺した。

 もうすぐ下校時刻だ……このあと、どうしよう。

 どこともなく校舎を眺めていると、花壇の前に、軍手をはめたおばさんがいた。こっちに気づいたのか、小さくおじぎをしてきた。樹里もぺこりと頭を下げた。

 渡り廊下の手すりに肘をついて、樹里はストローを甘噛みした。紙パックのコーヒーは、甘ったるくて冷たくて、あの日のコーヒーとはまるで違った。

 樹里は空を睨みつけた。そして、ストローを紙パックに押し込んだ。


 図書館のあたりから周囲を気にしながら、樹里はマンションに近づいた。

 階段を上がり、目当ての部屋の前に立ち、樹里はごくりと唾を飲んだ。ドアノブを見つめる。

……まだ帰ってきていないかも知れない。でも、あの人の連絡先は聞いてない。

 手に汗がにじんできた。

……今日は、ポストに置手紙をして帰ろうかな。でも、ここで人が来ても、変に思われる……。

 えいやっと、樹里は思い切ってインターフォンを押した。

《はい》

 低い声がした。

「あの……吉野です。リュックを取りに来たんですが」

《は? 誰?》

 インターフォンに触れていた樹里の指先が凍り付いた。

「いえ、リュック……部屋に忘れて」

《どしたのー? 荷物?》

 やや遠くから響くその声は、小鳥のような声だった。

《いやー、なんかリュック取りに来たとか?》

《なにそれ? そんなのあった?》

 二人のやり取りを聞きながら、樹里の顔から血の気が引いていった。諭すように、男が言った。

《あのさー、もしかして、部屋間違って……》

「偽善者!」

 怒りに震えた声が、マンションの廊下に響いた。

《はぁ、なに言ってんだ?》

《ちょっとなに……まさか、また浮気した?》

《ちげーし、おい、あんた! そこ動くなよ!》

 怒気を含んだ声に圧されて、本当に動けなくなった。

 内側から鍵が回る音がした。樹里はスケッチバッグを両腕で抱えた。ドアがわずかに開いたそのとき――温かいものが樹里の背中に触れた。

 大きな指が樹里を支えた。同時に、長くて筋肉質な腕が、風を切るように彼女の顔をかすめた。開きかけたドアを力任せに押し返した。

「あー……すいません」

 落ち着いた声が、頭上で響いた。恭平の顎先がすぐ上にあった。無理やりに閉じたドア越しに、恭平は落ちついていった。

「部屋番号、間違えました」

「なんだって? おい、なんで開かない」

 ドアは揺れるものの、恭平の腕力でまったく開かない。樹里の背中にあった恭平の手のひらが、右肩に移動した。階段に向かって身体をぐいと押す。

(行け!)

 口パクと目線で怒鳴られた。(見えないところまで行け。行けって!)

 あとずさりながら、樹里はドアを離れた。恭平は腕に力をこめたまま、ドア越しの相手に営業スマイルを見せている。

 膝を震わせながら、樹里は階段を降りた。2階の踊り場まで来て、力が抜けた。心臓がどくどくしている。壁が、涙でじわりと滲んだ。

 背中を丸めて、樹里はスケッチバッグを抱きしめた。





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