7 だと、思っている

「どれがいい?」

 お皿とフォークをローテーブルに並べながら、恭平が尋ねた。

 樹里はおそるおそる箱の中身を覗き込んだ。チーズケーキとシュークリームと、黒く艶めいたガトーショコラが詰まっている。

「遠慮しないで」

「……じゃあ、ガトーショコラを」

「じゃ、俺はシュークリーム。あと、チーズケーキもいい? 腹減っちゃって」

 言いながら、恭平はガトーショコラを皿にのせた。

「ありがとうございます――」

 恭平は箱からシュークリームを掴むと、そのまま二口で食べてしまった。続けて、チーズケーキを取り出す。こちらはちゃんと皿において、フォークを刺した。

 弾けるように目が合った。樹里は慌ててフォークを掴んだ。

 水あめのような粘度のチョコソースが、とろりと溶けて、口の中にほろ苦い甘みが広がる。ほろほろとしたチョコスポンジは、カカオが濃厚で、思わずため息が出た。

 恭平がくすっと笑った。

「あの、ごめん。今更なんだけど、君の名前は『樹里』だよね?」

 慌てるように、彼は両手をあげた。「いや、引っ越しのとき君のお母さんがそう呼んでたから。えっと、箕田? 吉野?」

「……名前は樹里で合ってます。けど、名字は吉野です。箕田はお母さんだけ」

「そっか、ごめん。もう聞かない」

 恭平はフォークを噛んだ。

 なにも言えなくて、樹里もじっと俯いた。キッチンの排水溝から、低い音が響いた。

「――音楽かけていい?」

「…‥どうぞ」

 恭平は立ち上がり、パソコンの音楽ファイルから流行りの洋楽を再生すした。ついでに本棚から筋トレの雑誌を取りローテーブルに戻った。

「――仕事でさ」

 チーズケーキを食べながら、雑誌をめくり始める。「正しい筋トレの仕方を後輩に教えないといけなくて」

「……そうなんですか」

 恭平は首を左右に回し始めた。腕を上げ、上半身のストレッチを始める。

 ひと通り終わると、また雑誌をめくった。音楽に合わせて肩がゆるやかに揺れている。

――この人は、不思議な間の取り方をする人だ。

「家……ここから遠いの?」

 雑誌に目を落としたまま恭平は尋ねた。

「……そんなに。電車で二駅なので」

「そっか。じゃあ、遅くならないうちに帰りなよ」

 恭平はコーヒーをすすった。

 彼のまつ毛と、通った鼻筋を見つめていると、胸がざわついた。

 ここからどう話を切り返すのが正解なのだ?

 小さくなったガトーショコラの周りに、砕けた黒い粒が散らばっていた。

 こめかみに、指すような痛みが走った。

「なんで」

 一瞬の間をおいて、恭平が顔をあげた。「……なんで、うちを部屋に呼んだんですか?」

 彼はゆっくりと雑誌を閉じた。

「えっと……いま、それ聞く?」

「だって、おかしいじゃないですか。こんなによくしてもらって――」

 息が、浅く、速くなった。

「……どうした?」

「ばかだ」

 恭平の口の端が歪んだ。「先輩にも……言われたのに」

 片膝を浮かせて、恭平が樹里に手を伸ばした。だが一歩早く、彼女は後ろに下がった。

「帰ります!」

 ベッドに立てかけておいたスケッチバッグを掴んだ。おい、と背中越しに声がした。

 暗い玄関でローファーを探した。指が震えて、うまく履けない。

「具合でも悪いのか」

 声が近づいてくる。

 怖い。

 上下の歯がぶつかって鳴り始めた。

「なあ――」

「いいんです!」

 自分の声が記憶をつんざく。


――樹里ちゃんってちょっと距離感おかしくない?

――そんなんじゃ、迫られても文句言えないよ。


 バカだ、バカ。うちはまた失敗して。ここは安全な場所なんかじゃない。お母さんの引っ越しに来た作業員の部屋なんかじゃない。うちはよく知りもしない男の部屋に一人で来てしまったんだ。

「どうしたんだって!」

 弾けるように視界が蘇った。

 恭平が、樹里の横で腰をかがめていた。

「いや、待てって」

 ドアノブを回した手に、恭平の指が触れた。

 肌理が泡を吹いた。恭平の顔に向かって手を振り上げた。平手をかわされて、逆にバランスを崩した。

 肩に鈍痛が走った。

 平手をかわされて、逆にバランスを崩してしまった。よろめいた先に、ドラム式乾燥機があった。

「ごめん!」

 恭平が樹里の二の腕を掴んだ。

 体重が、なくなったのかと思った。

 今までで一番近い距離に、恭平がいた。彼の後ろで、洗濯物がくるくると回っていた。

「――うちは、そういうつもりじゃなかったんです!」

 恭平が両手を上げた。

「いや、それはこっちのセリフだし!」

 彼はせわしなく首筋をさすった。「……なあ、誤解しないで」

 乾燥機の音が低く響く。暖簾の向こうから、洋楽がとぎれとぎれ聞こえる。

 何分たったのだろうか。おそるおそる顔を上げると、恭平は玄関のかまちに腰を下ろしていた。

「本当に違うんだって」やつれた顔で苦笑した。

「……じゃあ、どうして引き留めるんですか」

「あんな様子で出ていくのを、なんで放っておける?」

 恭平は息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「実は俺、無類の猫好きなんだ」

 はい?

「確かに俺が軽率だった。いきなり部屋に呼んだりして、いろいろ誤解もしただろうし、怖がらせてしまったと思う」

 演技がかったように、恭平はおもむろに立ち上がった。

「俺はつい、ノネコを保護したつもりでいて」

 彼の顔がみるみる赤くなっていく。口ごもっていたが、意を決したように樹里を見据えた。

「つまり俺は! 君のことを猫だと思ってる! うちに呼んだのは、動物愛護精神からなんだ!」

 乾燥機が止まった。恭平はぎこちなく微笑んでいる。

「……それって」

 頭のなかを精一杯整理したつもりだった。「猫耳女子を好む、オタクってことですか?」

 恭平は微笑んだまま、うなだれた。

「そうじゃない……」

「じゃあ、ますます意味がわからない!」

 恭平は両手で顔を覆った。



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