6 ワンルームシェルター
恭平のマンションに向けて郵便局を出発したとき、助手席の樹里は、もう喋れないくらいにぐったりしていた。
眠い。朝からずっと頭がじんじんと痛んでいて吐きそうだった。
無意識に、身体が窓の方に傾いていく。車が右に曲がるたびに、肩がドアトリムに当たった。船をこぐように頭が揺れるが、なんどか瞼を開いて、樹里は流れていく景色をぼんやり眺めた。
町家、ドラッグストア、さっきパトカーがいた公園……。あれ?
樹里の身体がぞわりと震えた。
ここは、学校への通学路だ。
前方に校舎が見えてきて、樹里の心臓がはねあがった。
バンは裏門の前を左に曲がり――あっというまに建物を通り過ぎた。バックミラーに映る校舎に、樹里は息をのんだ。恭平を見ると、彼は真顔でまっすぐに前を向いていた。樹里は黙って、身体をすぼめた。
道路沿いの校庭のフェンスを横目に走っていくと、河川堤防が見えてきた。その手前の交差点を曲がり、狭い路地に入った。樹里はまた動悸を抑えられなかった。この先には図書館がある。昨年度はよく通っていた、お気に入りの図書館だ。
突然、バンが図書館の前で一旦停止した。恭平が樹里をちらりと見た。
「このあたり、判る?」
「……はい」
樹里が頷くのを見てほっとしたようで、恭平はまたバンを発進させた。このまま道なりに進めば、線路と並走する国道に出る。しかし、恭平は図書館の裏手にある住宅地に入った。
一軒家に挟まれるようにして、マンションが一棟建っていた。駐車場の5番にバンを停め、彼はエンジンを切った。「ここだよ」
正面玄関に入ると、部屋番号だけが記された集合ポストがあって、物珍し気に見ていたら、
「こっちだよ」
と、ホールの奥にある階段から、恭平が手招きした。
――エレベーターないんだ。
先に行く恭平の背中を追いかけながら、樹里ははぁはぁと息をした。疲れすぎて、壁に手を這わせないと登れない。手のひらから冷気が伝わる。階段も壁も、むきだしのコンクリートで、外を歩いていたときよりも空気がひんやりしている。
踊り場につくと、風が流れてきて、樹里の前髪を揺らした。ここは外壁が一部吹き抜けになっていて、空が四角く切り離されていた。汗ばんだおでこが、風に吹かれて心地よかった。
ふと、恭平が左に抜けた。慌てて樹里も後に続いた。二人は、三階の共用廊下に出た。各部屋のドアはどれも深い緑色をしていて、集合ポストと同じで表札がなかった。違うのは、小さく張られた部屋番号だけ。
こんな無機質でいいんだろうか。ためらいがちに歩いていたら、廊下の途中で恭平が止まった。ウエストポーチから鍵を出し、ドアを開いた。ドアストッパーで扉を半開きにしたまま、靴を脱ぎ始めた。
「5分待ってて」
そう言って、ひとり中へ入って行ってしまった。廊下に取り残されて、樹里は急に緊張してきた。手に汗がにじむ。よくないとは思ったが、少しだけ中をのぞきこんだ。
ごうんごうん、と、低い轟(とどろき)が聞こえた。玄関すぐのところで、ドラム式洗濯乾燥機が回っていた。
――これって、廊下? それにしては物がたくさん……。
洗濯機の横にはラックがあって、炊飯器が載っている。その奥には、小さいけれどキッチンが。
初めて見る間取りに、樹里はどきどきした。もう一歩ドアに近づいて、さらに奥を覗いてみる。あ、冷蔵庫……。そして、その先には暖簾がかかっていて、奥が見えない。もどかしく思っていたら、暖簾をめくって恭平が出てきた。樹里は慌ててドアから離れて背筋を伸ばした。
「お待たせ。入って」
恭平が大きくドアを開いた。
お待たせと言われるほど我慢できていなかったので、樹里は顔が赤くなった。うしろめたさを抱えて玄関に足を踏み入れる。
「それじゃ、俺は仕事に戻るから。好きなだけゆっくりしててな。俺が帰宅するまで居てもいいし、もし帰りたくなったら、そのまま出ていってもいいから」
「え! 鍵は……」
「いいよ。鍵がかかってなくても、ドアさえ閉めときゃ誰も入ってこないよ。勧誘のチャイムが鳴っても無視しときな」
恭平はドアストッパーを蹴り上げた。「じゃあ」
あっさりと、ドアは閉まった。ぽかんとしていた樹里は、はっとしてドアに耳を押しあてた。ざらついた肌触りと、こおおお、という風が流れるような音が、聞こえる。でも自分の心臓の音が一番うるさかった。樹里は息を深く吸って、吐いた。
恭平の靴の音は拾えなかったけれど、もうドアの向こうに人の気配はなさそうだった。目を閉じ、樹里は玄関にへたりこんだ。しばらくして、ゆるゆるとローファーを脱いで、隅にそろえた。
顔をあげると、洗濯機の中で、恭平のシャツやズボンや弧を描いて回っていた。
「……」
樹里はおもむろに立ち上がり、廊下のすみずみを観察し始めた。洗濯機の隣にあったラックは、くすんだ色のスチール製で、三段に分かれている。一番下には米袋と野菜ストッカー。真ん中の段は赤いトースターと籠で小分けされた乾物や調味料。
一番上に載っている炊飯器は樹里の家と同じサイズだった。
キッチンに移る。据え置きの二口コンロに、ホーローのケトルが鎮座している。
ステンレスの水切りかごには、食器が洗っておいてある。
2ドアの冷蔵庫。天板には電子レンジ。
一人暮らしの冷蔵庫って、これくらいなんだ……。樹里は感心して冷蔵庫を撫でた。
廊下の片面には扉が二つあった。レバーハンドルの方がトイレで、中折れ戸の方は……ユニットバスだった。
――すごく面白い!
初めて入るワンルームマンションに、眠気も忘れて興奮した。とくとくと早鳴る胸の鼓動をそのままに、樹里は暖簾の端をつまんだ。厚みがあって……濃(のう)藍(らん)。
頭を下げて、すっと布を持ち上げた。
部屋は薄暗かったが、すぐに目が慣れてきた。ほう、とため息をついて、樹里は目を細めた。
――男のひとの部屋。
左側の壁に沿って、テレビと机がある。机は本棚付きで、書籍がたくさん並んでいる。マンガ、新書、ハードカバー。大きさに合わせて、きちんと整理されている。
テレビの向かいには、セミダブルのベッドが据えてある。
収納ベッドかな。マットレスの下に引き出しが見える。開けたくなる気持ちを抑えつつ、樹里は床のラグの踏み心地に好感を覚えた。
ラグの上にはローテーブルと座布団がひとつある。樹里はリュックを下ろして、ローテーブルの下に押し込んだ。スケッチバッグはベッドの端に立てかける。ふと、ベッドが一部膨らんでいるので、かけてあるブランケットをめくると、枕だった。
カーテン側が頭なんだ……。遮光カーテンのひだを指でつまみながら、樹里はベッドの足側に視線を移した。ベッドに並んで、多段チェスト、ハンガーラック、姿見がある。ハンガーラックの前に立ち、かかっている服の裾を揺らした。ラクダの作業着、白いパーカー、グレーのジャケット……。どれも大きい。
じっと見ていると、妙に胸がざわついてきた。樹里は足早に部屋を出た。
もう一度キッチンをうろつく。流しの真上にある吊戸棚が気になった。摺りガラスの引き戸なので、中は見えない。背伸びして横に引くと、食器と、コーヒードリッパーがあった。
樹里はかかとを上げて、手を伸ばした。触れたのは、暖簾と同じ濃藍のマグカップだった。手のひらに収まったなめらかなフォルムを、指の腹で丁寧にさすった。
――タオル、シャンプー、スポンジ、雑貨。ほうき、バッテリー、ノートパソコン。
ラグの上で足を伸ばし、樹里はベッドに背中をもたせかけた。目を瞑り、首を後ろに軽く反らせる。
――かしこそうな部屋。それに……すごく落ち着く。
うっすらと目を開けて、樹里は天井を見つめた。
玄関からベランダまで全部あわせても、うちのリビングほどの広さしかなさそうなのに、ここには、人ひとりの生活がちゃんとある。
樹里は頭を起こして、つま先を見つめた。
――うちの家は……いつからおかしかったのだろう。温かみがないわけじゃなかったのに、いつの間にか消えていた。
樹里はつま先をくいくいと動かした。
……おかしいといえば、この状況もなんだけど。そもそも、なんでうちは、ここに居させてもらってるんだろう? 道で声をかけてきたとき、あの人は――そうだ、うちは、あの人の名前も知らない――早く仕事に戻りたそうで、なのに、郵便局まで乗せてくれて……。
樹里は両目をこすった。
とにかく一人になりたかっただけなのに、どうして口喧嘩にまでなっちゃったんだろう。それで、なんでまた……
――俺の部屋で休んだらいいよ。
どうなってそうなるんだろう。
――俺としてはこの方がよっぽど気が楽だから。君が海を眺めているより、ずっとね。
意味わかんない……。こんなことして、なんであの人の気が楽になるんだろう。一度会っただけなのに。お茶を差し入れしただけなのに。
メガネをローテーブルに置いたところまでは、なんとか意識はあった。樹里はずるずると、ラグに沈んでいった。瞼が勝手に閉じていく。眠りに落ちる寸前――切れ切れの記憶が脳裏に浮かんだ。もう、夢を見ていたのかも知れない。
お母さんが出ていく日。やってきた引っ越し業者。こっちを見る作業員。そうだ……あの人、「水谷」って呼ばれてた。
作品、散乱しててびっくりしただろうな。アトリエ、過去最高に荒れてたし。でも、しょうがなかった。引っ越しの前日まで、お父さんが、お母さんを引き留めるから……。
夜中、静かに、でも刺々しい言い方で、二人が話しているのを耳にした。
二階の自室で寝ていたら、階下からぼそぼそと声が聞こえた。ドアをそっと開いて、階段の前まで這って行った。声はアトリエからだった。うちは、階段の何段目かに座って、前かがみになって、二人の話を盗み聞きした。
「考え直さないか」
「悪いけど、明日の朝一番に業者が来るんだって」
「僕のなにが悪かったんだ」
しばらく沈黙して、お母さんの低い声が聞こえた。「悪いと思ってる。でも、これは、けじめだから」
「けじめのために、家庭を捨てていいと思うのか」
「家庭のために、あたしが死にかけていたことは、どう思ってるのよ」
がたりと椅子が動く音がした。思わずアトリエを覗いたら、お母さんが、野球打者のように絵が入った筒を振り上げていた。
――その筒は、引っ越し当日まで、床に転がったままになった……ごめんなさい、 水谷さん。その節はご迷惑をおかけしました。
お父さんの左肩にヒットした筒は、そのままお母さんの手から抜けて、壁際に転がっていった。
「自分の絵を……こんな風に扱って」
お父さんが、苦々しげにつぶやいた。そして、壁に立てかけてあった他の筒を手に取った。それを見て、お母さんも筒を拾った。
あんな二人は初めて見た。叩き合いを始めるなんて。お母さんは、ちょっと楽しそうだった。でもお父さんは、ずっと眉間にしわを寄せて、泣くのを我慢しているみたいだった。お母さんは吐き捨てるようにして、笑った。
「いいのよ。あたしが、他人が、あたしの絵をどんな風に扱おうが、あたしは絶対に、描くのをやめない!」
――明るい。
鼻先に、ラグの毛足と、リュックが見えた。樹里は手を伸ばして、ローテーブルからメガネを取った。背中が少し痛かった。おもむろに上半身を起こすと、ブランケットが肩から落ちた。かけたっけ……そういえば、電灯をつけて寝た覚えもない。
かちゃん、と暖簾の向こうで音がした。
樹里は息をのんだ。しゅんしゅんとケトルが噴く音がする。はっとして立ち上がり、樹里は廊下に飛び込んだ。キッチンで、恭平がコーヒーサーバーを用意しているところだった。
「おはよ」
手を動かしながら、恭平が微笑んだ。
「お……邪魔してます。まだ」
「いいよ」
コーヒーフィルターに茶色いペーパーを取り付けながら、恭平ははにかんだ。
「あ……いま何時……」
「夜の六時だよ」
「あ、の、すみません。勝手に寝てて」
「ゆっくりできた?」
目を細めて、恭平がゆっくり言った。
「……はい」
「コーヒー飲む」
「……頂きます」
恭平は微笑んだまま、ケトルのお湯を、ゆっくりとフィルターに注いだ。
ぼさぼさになった髪を手櫛で直しながら、樹里はトイレ側の壁に背をもたせかけて、恭平の所作を眺めた。
フィルターの粉が膨らみ、サーバーに黒い液体が落ちていく。コーヒーの薫りが廊下に広がる。数回に分けて注がれていくお湯。ケトルの口から洩れる細い湯気。恭平は水切りカゴからカップをひとつ取り。そして、吊戸棚のガラス戸をあけて、もうひとつを選んだ。
あ。あのマグカップ。
自然と身体が前のめりになった。気配に気づいたのか恭平が振り返って、目が合った。頬が熱かった。おろおろして、カップに視線を落とす。恭平は手元を見て、ああ、とつぶやいてからカップを見せた。
「これ、綺麗だろ」
樹里はこくこくと頷いて、さっと彼から離れた。
恭平はくすくす笑って、淹れたてのコーヒーを濃藍のマグカップに注いだ。
「むこうで飲もうか」
二つのカップを持って、恭平は樹里を先に行くよう促した。真横に立たれて、樹里は少し緊張したが、たちのぼるコーヒーの湯気を見ていると、自然と肩の力がほどけた。
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