3 一年でいちばん長い引越し
快晴の午前7時。キャラバン引越しセンターの駐車場の空きスペースに、作業員が整列する。
「それでは朝礼を始めます。まずストレッチ! みなさん距離をとって」
ラジカセを置いたチーフが、全員に向かって声を張り上げた。軽快な音楽に合わせて、首を回しながら、恭平は右手であくびを隠した。
昨晩、久しぶりに高校の頃の夢を見た。おかげであまり寝た気がしない。井上のせいだ。そうしておこう。
眠気を覚まそうと、内股のストレッチで限界まで深くしゃがみこむ。すると、細い指が肩を叩いた。
「お疲れだね」
「浅野さん」
「水谷君のあくびなんて、レアだわ」
恭平は立ち上がり、両腕を上に伸ばした。「おはようございます」
「はいおはよう」
浅野さんも腕のストレッチをする。後ろに縛った茶色の髪が、ふわりと揺れる。
「浅野さんはいつもシャキッとしてますね」
「兼業主婦の体力とフットワークをなめるなよ」
浅野さんはふふんと胸を張った。ここには浅野さんをはじめ、女性作業員が5名いる。お客によっては、女性作業員を希望する場合もあるし、住まいの整理整頓を手伝う「お片付けサービス」も、女性作業員に任せられることが多い。
「そうだ、水谷君! あれ、承認されたよ」
「なんでしたっけ?」
「整理収納アドバイザー研修」
思い出した。先月、浅野さんから教えてもらった資格だった。整理整頓のノウハウを学び、片付けられない人のアドバイザーになる資格だが、「お片付けサービス」でも役立つから、研修費の一部を会社負担してもらえないか、上に提案書を出していたのだ。
「5人以上が参加するなら、研修費の半額、会社から出してくれるんだって!」
「ちょっとー、めっちゃいいじゃないすか。予定通り、俺も受けていいですよね」
「もちろん。他にも声かけてあるから。夕方、退勤前に書類書いてくれる?」
「俺、今日は3件回る予定で、帰りは5時くらいになると思います。浅野さんは?」
「私は午前の搬入が終わったら、こっちに戻って事務作業してるよ。今日は旦那に娘のお迎え頼んであるから、5時半までなら大丈夫!」
「ありがとうございます、じゃあ俺が帰社したら」
「はいよ。じゃ、今日もお互い安全運転で」
「はい、お互いに」
腕を大きく横に振って、浅野さんは深呼吸した。
帽子をかぶり直し、恭平はトラックの輝くコンテナを眺めた。
よし、今日もがんばろう。
「あ、水谷。今日は2tロングのトラック出してくれ」
不意打ちに、思わず力が抜けた。
「え、今日って、2tトラックでの搬出でしたよね?」
念のため問い直すと、チームリーダーの
「おはようございます! 今日はよろしくお願いします」
「今日は畑さんと二人なんじゃ……」
畑は、また頷いた。
「悪いな。狭いけど、シートベルトはちゃんと頼むな」
助手席から、畑が後輩にシートベルトの位置を教える。男3人でトラックの三列シートを使うのは結構窮屈だ。恭平は左ひじが後輩に当たらないよう注意して、サイドブレーキを下げた。
ラジオから、天気予報が流れる。
《今日は、平年を上回る気温で、汗ばむようなお天気になるでしょう……》
「昨日チーフと相談してさー、今回の搬入、俺と水谷の予定だったんだけど、やっぱもう一人いると思ってな」
畑はバインダーに目を落とした。
「でも、2tロングに収まるくらいの荷物なら、それほど多くないですよね?」
「まあな。ただ、取り扱い注意の物があってさ。二人で搬出に手間取って午後の作業に差し支えるのも嫌だし」
「あのー、ここ、一軒家ですよね? ピアノっすか? 窓からタンス出すとか?」
後輩が間から割って入った。そんなの、見積書に記載されていただろうか。
畑が笑った。
「ちゃうちゃう。そんなに重たくもないし、大きくもない。……三か月前に営業が見積もった時点のままだったら、な」
「今日はもったいぶるうえに、意味深ですね」
「お前たちのストレス値を上げないための、俺からの配慮だと思え。とにかく今日は時間がかかってもいい。丁寧な梱包を心がけよ」
「丁寧な梱包……」
赤信号が見えたので、恭平はゆっくりとブレーキを踏んだ。道路沿いには田んぼが広がっていて、トンビが羽を広げて旋回していた。
お客の家は閑静な住宅街の中にあった。
案内された部屋の真ん中で、恭平は遠い目をして立ち尽くした。
「なるほど、これは確かに丁寧な梱包が必要だ」
大小合わせて数百枚の油絵が、いたるところに放置されていた。長さ一メートルほどの、よくわからないプラスチックの筒もあちこちに転がっている。
アトリエと呼べるこの部屋は、もともとはリビングたったのだろうか、ダイニングとの続きになっていて、天井は高く、ここから二階の廊下の手すりが見える。
絵筆とかって、どこで洗うんだろう。まさかキッチンの流しじゃないよな。よく見ると、部屋の隅に勝手口がある。なるほど、あそこから外の洗い場にでも出るのかな? などど、半ば現実逃避のように想像していたら、
「聞いてた以上に増えてる……」
畑がげんなりとつぶやいた。
唖然としている後輩を、恭平は突いた。
「コンテナに緩衝材ないか、探してきてくれる?」
「壊れ物ばかりですみませんね!」
後輩の両肩がびくりと震えた。依頼人の女性が、黒いワンピースを揺らせて歩いてきた。恭平を見上げてなにか言おうとした瞬間、畑が後ろから声をかけた。
「すみません、二階のお荷物から運びますので、場所を教えて頂けますか」
依頼人の
和美は、最初の挨拶から、とても不機嫌だった。
さかのぼること15分前。玄関先でいつものように、恭平たちは帽子を脱いだ。畑が、
「吉野さんですね。畑と申します。本日は三名で搬出を行いますので、どうぞよろしく――」
「吉野じゃありません」
言葉を切られて、畑は黙り込んだ。「
不覚にも畑はさらに言葉を失った。和美は畑をにらみつけ、手にかけていたドアノブを揺らした。
「それでしたら! こちらにご記入お願いします」
全員の視線が恭平に集まった。畑からバインダーを受け取り、恭平は見積書の氏名欄を彼女に見せた。
『吉野和美』
と書かれているのを見て、彼女はため息をついた。ペンを差し出すと、無言で名字を『箕田』に書き換えた。
そのまま、畑と見積書に書かれた荷物の話を始めたので、恭平は大きく息をついた。
――そしていま、こうして案内されたアトリエの真ん中で、恭平は再び息をついた。
この大量の絵。どうやって搬出しようか。
大きさでいえば片手で持てるほどの絵がほとんどだが、自分の身長を超す物も何枚かある。しかも、すべてむき出しになっている。事前に梱包材が渡されているはずなのだが……。
まさかこのままトラックに積んでいいわけ、ないよなぁ……。
「あの!」
頭上から声が飛んできた。二階の廊下の手すりから、和美がアトリエを指さした。「そのあたりの絵はぜーんぶ、まとめて布でも被せて運んでもらえばいいので!」
「え……いや、そういうわけには……」
「本当にいいですよ! 一枚一枚緩衝材で包まれても、向こうで剥がすの大変なんだから」
恭平は首をさすった。言われたとおりに運んだとしても、破損でもしたらこちらの不手際になりかねない。だが、搬入先で剥がす手間を省きたい、という気持ちもわかる。
迷っていたら、ダイニングのドアが開いた。
「先輩、持ってきました」
両脇に緩衝材を抱えて、後輩がぎこちない動きで顔を出した。一気に持ってきてくれたんだろう、足元にも緩衝材が転がっていた。
恭平は目をまたたいた。それは、ロールタイプのエアキャップ――いわゆるプチプチ――だった。幅1メートル×42メートルのプチプチが、全部で5巻ある。
「……なあ、家具を包む布袋も、コンテナにあったよな」
同じ大きさの絵を集め、それぞれの間に、長方形に切ったプチプチを挟み込む。それらをまとめて、家具用の布袋で包んだ。最後に動かないように、袋の上からゴムベルトで固定した。
後輩と目を合わせて、恭平はにやりと笑った。後輩も、ここに来て初めて笑顔を見せた。「続けよう!」
繰り返すこと1時間。絵は8割がた、青い布袋に包まれた。
「おーい、悪い。一人、こっち来てくれないか?」
二階から畑が手を振った。後輩を行かせて、恭平は一人で梱包を続けた。
こめかみに汗が滴る。タオルで顔を拭き、恭平は腰を伸ばした。
結構しんど……。おもむろに布袋をさすったそのとき、ダイニングのドアが静かに開いた。
黒髪が、さらりと揺れた。
小さな顔。短くそろえられた前髪。顔の半分くらい占める大きなラウンドメガネ。
白いシャツに、緑のリボン。濃紺のプリーツスカートには見覚えがあった。恭平のマンションから徒歩圏内にある高校の制服だ。
その子は音もなくフローリングを歩いて、キッチンカウンターに手を置いた。そこからアトリエに向かって、視線をさまよわせた。
「
「わっ」
いきなり真後ろから叫ばれて、思わず声が出た。いつのまにかアトリエにいた和美が、腕組みをして彼女を見つめた。
「……なに?」
「混じってる。樹里のでしょ、この絵」
和美は階段に並べてあったキャンバスを一枚持ち上げた。
その子は黙って和美に近づいた。顔先に絵を突き出されたが、すぐに受け取らなかった。疲れたように目を伏せて、またつぶやいた。
「お母さん、うち、なにか手伝うこと、ある……?」
和美はアトリエの高い天井を見上げ、そして微笑んだ。
「大丈夫。なにもないわ」
唾が、喉をごくりと通った。
「学校、午前中には行きなさいね」
和美は樹里の肩をさすり、そのまま足早にダイニングから出ていった。
彼女の肩が、やけに小さく見えた。
ここで挨拶をするには、間が悪い。恭平は帽子を取り、黙って頭を下げた。
顔を上げると、彼女は下唇を噛んでいた。
ヤバい。対応間違えた。
「はいちょっとごめんね!」
ドアが、勢いよく開いた。
和美がたたまれたダンボールを担いで来た。
「はい、なんでございましょう!」
「これってどうやって運べばいいかな?」
和美はアトリエに転がるプラスチックの筒を指さした。
「筒の中身は、絵でしょうか」
「そうよ。木枠から外して、丸めて保管してあるの。長さがあるから、Ⅼサイズのダンボール箱にも入らないのよ。斜めにすればなんとか閉まるけど、隙間ばっかり空いてあんまり入らないし、箱ばっかり消費するのよね」
和美は眉間にしわを寄せた。
「それでしたら、ストレッチフィルムでまとめて、蓋が開いたままでいいので、ダンボール箱に差し込みましょう」
「ストレッチフィルムって?」
「丈夫な食品ラップみたいなものです。ハサミで切れますし、剥がすのも簡単ですよ。ちょっと荷台にあるか見てきます」
そそくさと家を出て、恭平はトラックの前で、ようやく深いため息をついた。コンテナを覗くと、小さなハンガーラックと衣装ケース数個積まれていた。どう見ても家族分の荷物じゃない。
一人分。そう、和美だけの引っ越しなのだ。
「ああ先輩! 助けてください。マジで重い……」
ダンボール箱を抱えて、後輩が走ってきた。
「彫刻でも詰まってんの?」
「荷物じゃないですよ。いま、奥さんが電話してるんですけど、お姑さんですかね。受話器越しに修羅場ってますよ」
「盗み聞きすんなよ」
「してませんって。あの奥さん、声が大きすぎるんですよ」
うんざりした様子で、後輩はダンボールを荷台の奥に滑らせた。
「まだ二階に仕事ある?」
「もうすぐ終わります。畑さんから、一階を手伝ってくるように言われました」
「よし、じゃあ一緒に行くか!」
ストレッチフィルムを持って、二人は、こそこそとアトリエに戻った。
和美は電話が終わったようで、いまは樹里とダイニングで話し込んでいた。和美は疲れた顔で椅子に腰かけ、樹里はキッチンカウンターに背をもたせかけて母親を見下ろすようにして話している。
極力聞かないようにして、後輩と作業をすすめた。それでも、話の断片が耳をかすめていく。
だから……向こうについたら電話するから。お父さんにも電話してあげて。……もう、お父さんはいいんじゃない? よくない……
泣きそうな声が聞こえた。「よくないよ」
「樹里。いいか悪いかは、お母さんが決めるんだよ」
恭平はうつむいたまま、ストレッチフィルムを指でちぎった。後輩も、下をむいたまま、こわばった顔をしている。
自分たちは、荷物を運び出すのが仕事だ。
意を決して立ち上がったら、半分開いたドアから彼女の黒い髪が、するりと消えていくのが見えた。
和美が、面倒くさそうに髪をかきあげた。こっちを一瞥して、顔をしかめた。
「ねえ、早く運んでもらえます!」
アトリエの荷物は、樹里の絵を残して、ようやく全て積み終わった。
「では……サインをお願いします」
乾いた笑顔で、畑が和美にボールペンを差し出した。後輩も笑顔を作ろうとしているが、半ば放心状態だ。
和美がサインしている間、恭平はアトリエの白い壁を、ぼんやりと眺めた。
すると、勝手口が音もなく開いた。
小さな拳と、黒髪がわずかに見えた。
ゴトリと音を立てて、フローリングにビニール袋が置かれた。
「ん?」
和美が書類から顔を上げた。
勝手口はもう閉まっている。
袋を持ち上げて、和美は中を覗いた。しげしげと見つめたあと、彼女は小さく頷いた。
「お疲れさまでした。これ、皆さんでどうぞ」
ずいっと、恭平の前に袋を突き出してきた。
「え、はぁ……」
早く持てと言わんばかりに睨んでくる。慌てて受け取ると、ずしりと重みを感じた。それはコンビニのレジ袋で、外側に水滴がついていた。
がちゃがちゃと揺れる色んな種類のペットボトルは、いま買ってきたものだとわかる。少しバツが悪そうに、和美が笑った。
「こういうところはね、あの子の方が、私より気が利くんですよ」
「おかえり! 今日もいい仕事してきたかい?」
営業所のドアを開けると、浅野さんが手を振った。
畑は無言で浅野さんの横を通り過ぎ、後輩は頬をこすりながら更衣室に引っ込んだ。
「えー、なにこのノリの悪さは」
「ちょっと今日のは大変だったんすよ」
苦笑いしながら恭平はビニール袋を机に置いた。
椅子に座ったまま、浅野さんの隣まで移動する。「俺も疲れました」
浅野さんはふうんと頷いた。
「ちょっと複雑なお家だったのかな?」
「まあ……浅野さんも経験あるでしょ」
「うーん……ある。ありますなぁ」
浅野さんは両手に人差し指でバッテンを作った。「――よし! 今日は優しい私がコーヒーを淹れてあげよう」
勢いよく立ち上がり、「コーヒー欲しい人!」と、部屋にいる全員に向かって叫んだ。笑いをこらえながら、恭平も手をあげた。
給湯室で浅野さんが他の作業員と喋っているのを聞きながら、恭平は背もたれを反らせて天井をぼんやりと見上げた。
あー、今日の日報……。そうだ、浅野さんと研修の申請書も書くんだった……。
のろのろと机に戻り、恭平は引き出しから書類を出した。
肘がビニール袋に当たって、かさっと音がした。緑と水色のペットボトルキャップが覗いていた。
吉野邸から一番近くにあるコンビニはどこだったのだろう。
一家の一大事であったにも関わらず、自分たちのためにコンビニまで買い物に行ってくれたあの子に礼のひとつも言えなかったことを、恭平は、少しだけ、悔やんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます