2 恭平と井上
遮光カーテンの編目からこぼれる、砂金のような朝日を、ベッドから眺めた。
壁掛け時計は、午前8時を指していた。
恭平は、大きく背伸びした。
シャワーを浴びる。頭を拭きながら、メールチェック。洗濯機が回っているあいだに、キッチンでコーヒーを飲んだ。
音楽を聴きながら作り置きのカレーを食べていたら、もう正午を過ぎていた。
クローゼットの服の前で、恭平は腕組みした。
さて、今日はなにを着ていこうか。
窓から差し込む陽光が、ファミレスの店内をゆっくりと温めていく。
恭平はMA―1のジャケットを脱ぎ、隣の椅子にかけた。ユーズドブルーのジーンズと、白いロングTシャツを選んだ。
向かいのソファ席はまだ空席で、その後ろにある大きな窓からは、外の景色がひろびろと見えた。窓際に植えられた低木。駐車場の乾いたアスファルト。その上に広がる澄んだ空。
いらっしゃいませ! ウェイターの声が響いた。
足音が、慌ただしくやってきた。
「恭平、悪りい!」
「本読んでたから。走ってこなくてよかったのに」
いやいや、と息を整えながら、向かいのソファに座る。
ウェイターが来て、水とおしぼりを置いた。
「マルゲリータピザ、ドリンクバー付き。あと、季節のパフェ」
「腹減ってんの?」
「午前中に練習あったから。更衣室で昼飯くったんだけど、すぐ空くんだよな」
言いながら、井上はトラックスーツを脱ぎ始めた。
「……お前、チームの練習着で出歩くなよ」
「ああ。忘れてたわ。面倒くさいから着替えずに来たんだった。なぁ、これホントすごいんだぜ。汗がすぐに蒸発して、消臭効果も抜群」
井上は悪びれず、赤シャツをつまんでみせた。
「わかったから、早く隠せ」
Vリーグチームの練習着を勧められても困る。
「はいはい」
井上は肩をすくめて、上着を着直した。
「てか、うちの制服も、ドライ機能、かなりいいから」
「え、なに張り合ってんの」
井上がぷっと吹き出した。「引越し屋がいいウェア着るのは当然だろ。汗臭いやつらに荷物運ばれたい客はいないだろ?」
「それでも俺は、外ではラクダは背負わない」
「あー、なんだ、まだ説教が続いてたんか」
井上は背を反らせた。「恭平はどうせ、ファミレスにジャージも嫌なんだろ」
「お前がジャージ着てるとスポーツ選手にしか見えないから嫌なんだ」
「いいじゃん、なんも間違ってないんだから」
不敵に笑ったかと思うと、ピザを持ってきたウェイトレスに、「ありがとー」と、満面の笑顔を向ける。
この、無自覚ひとたらしが。
彼女は頬を赤らめて、ちらちらと振り返りながら仕事に戻っていく。
当の本人は、もうピザしか見えていないのに。
「……飲み物取ってくるわ」
「あ。俺も」
「あとで来いよ」
「ピザ食べたらジンジャーエール飲みたくなるじゃん」
こんな長身の男二人が、ドリンクバーに並んで立つと、また視線を集めてしまう。
井上はまったく気にせず、チームの近況を話してくる。
「でさ、バックアタックの精度をもっと上げたいとなー、って」
「そっか」
バレーについては相槌をうつしかできない。
「そんで腰まわりを鍛える筋トレで、なにかいいの知らん?」
「ある。この前、新入社員研修で覚え直したのが」
「さすが。身体が資本の運送会社」
「研修の後、2週間、班ごとにスポーツジム通いしてきた」
「すげーな! やり方教えてくれよ。あ、そういえば、あのマンガ、新装版でたの知ってるか?」
「え、どれ?」
「ほら、――だよ」
懐かしい。中学生の頃に、週刊誌連載していた人気の作品だ。「久しぶりに読みかえそっかなー。恭平は、最近お勧めのやつってない?」
「ジャンル問わず読んでるからな……。どんなんがいい?」
――井上とは、定期的にファミレスに集まって、おおむね何でもないことをしゃべっている。高校の頃、キャプテン・副キャプテンとして、チームを春高まで率いていた頃の緊張感はまるでない。
「いま四月の半ばだろ。この時期、作業員って休みとれるん?」
井上はグラスの氷を揺らした。
「まあ、週1.5くらいは。今日がその貴重な一日」
「忙しいな。今日は時間つくってくれてサンキューな」
「井上の方が普段から忙しいんじゃね。Ⅴリーグって、週休何日制なんだ」
「休もうと思えばいくらでも休める。やりたければいくらでもできる。フレキシブルな職場やぞ」
「うまいこと言った、みたいな顔するな。ブラックのにおいしかしねぇよ」
井上は屈託のなく笑った。
呆れてため息が出る。どうせこいつは休日もバレーやってるんだろう。
お待たせいたしました。ウェイターが、イチゴのパフェを置いていった。スプーンから零れ落ちるくらいたっぷりと掬って、井上は一口で食べた。
「なあ、他には?」
「え?」
「仕事でなんか面白いことあったか?」口の端のクリームを取りながら、井上は目を細めた。
「んー……、あ、今度『整理・収納アドバイザー』の研修受けるんだよ」
「おお、なんだそれ!」
不意に、息がつまった。
輝く井上の瞳に、中学生の自分達が映った。
バレーシューズの擦れる音が聞こえる。体育館のライトがまぶしい。高く上がるボール。床にささるスパイク。肩を叩きあう仲間たち。しゃべりながらバレーネットを片付ける。タオルで汗を拭きながら体育館を出ていく。プール前にある部室のカギを開く。打ちっぱなしのコンクリート造りで、壁に触れるとひやりとする。砂っぽい空気。床に敷かれたすのこを踏み割らないように適当に散らばりながら、仲間とマンガを読み回した。
「お前らー、暗くなる前に帰れよ」
見回りに来た先生にどやされて、文句を言いながらも素直に出る。自転車に飛び乗って、大声でしゃべりながら農道を走る。満点の空を見て、夜風を感じて、それを気持ちいいと感じられていたあの頃。
――あの頃、体育館は自分の部屋と同じくらいくつろげる、大切な居場所だった。コートの端であおむけに寝ころび、チームメイトとげらげら笑い、足元に設置された喚起窓の風をあびて目を細めたあの日は、もうかえってこない。
そう、かえってこない――
氷をかみ砕きながら、井上が笑った。
「へー! すげえ役に立ちそうな資格だな」
「――だろ。研修を修了した暁は、俺の部屋はさらに整理されるはず」
「恭平のとこ、すでに物少ないじゃん。むしろ俺の部屋を片付けてくれ」
「お前の部屋。鉄アレイとかトレーニングマシンあるだろ? まずあれをなくさないと広くならんて」
「いや! あれを捨てたら俺の部屋じゃなくなる」
「まー、そうだろなぁ」
井上の真後ろの窓に、春の青空が広がっていた。
風に乗って、雲はしなやかに形を変え、右へ右へと流れていった。
やがて西日が強くなり、店員が端からブラインドを下ろし始めた。井上が腕時計に目をやった。
「そろそろ行くかな。ちょうど電車に乗れそうやわ。恭平は?」
「もうちょっとここで本読んでくわ。伝票はおいてけよ。一緒に払っとくから」
「わお、太っ腹」
「片道1時間の電車に乗ってファミレスにしゃべりにくるお前の方がすげーわ」
井上はボストンバッグを叩いた。
「いいんだよ、実家に顔見せに行くってのも兼ねてんだから」
高校卒業後、井上は大阪のチームにプロ入りした。県外に行っても、地元のバレーファンとの付き合いは絶やさず、県内の中学や高校へも、バレー指導をしに行っているらしい。
「あ、そうだ」
井上が大げさに手を叩いた。「こんど、中学のバレー部で集まって飲み会するらしいんやけど、恭平も来る?」
目尻が、ひくっと震えた。神妙な顔で井上は続けた。「深く考えず、旧友に顔を見せるだけだと思えば」
「本気で言ってる?」
「言ってない」
ついに井上は、肩を揺らして笑い出した。「だってなー、成人式も出てこないから、噂になってんだもん、お前!」
「あのときは、たまたま、仕事が入ってただけだから」
「そうでしたね」
「成人式に出なくても、こうやって元気でやってるんだから、いいだろ。まっとうな社会人ですし」
「そうですよねー」
「なんだよ」
「いや、その通りだなって」
井上は三白眼を細めた。「元気なら、それでいいんだ」
頬杖をついていた手の力が抜けて、肘が前に滑りそうになった。
「お前は、俺の親だっけ?」
「はは!」
井上はバッグを担いだ。「じゃ、またな」
「――おう」
ドアベルの音を聞きながら、井上が窓越しに小さくなっていくのを見送った。
恭平は伝票をアクリルの筒に戻した。
カバンから本を出して、続きを開くが、内容が一向に頭に入らない。
あいつめー……最後の最後で、気が重くなる話すんなよな。
ブラインドの隙間からもれた夕日が、窓際の桟で揺れている。
――バレーを辞めようと決めたのは、春高で優勝した日の夜だった。
「高校も一緒にバレーをしよう」と誓い合い、一緒に向陽高校を受験した日が懐かしい。
決勝戦のオレンジコートが、今も目に焼き付いている。
副キャプテンの井上と並んで円陣を組んだ。
「勝つぞ、お前ら!」
チームメイトの唸り声が、コートに響いた。
あの日、必死でプレーしていたけど、最後まで霧のなかにいるみたいだった。
優勝の瞬間、体育館の観客が巨大な龍のようにうねって、応援席からロールテープを投げ入れられた。
ぼんやり天井の照明を見ていたら、どどど、っと仲間が抱きついてきて、あやうく転びそうになった。身体が浮かんで、胴上げされた。
矢継ぎ早に閉会式の準備が始まり、テレビ局のリポーターが集まってきた。
「今日まで、僕らは決して簡単な道のりではありませんでした」
井上が賢そうに話すのを、茫然と見ていた。自分にもコメントを求められたが、今は言葉にできないと言い訳して、監督に譲った。
カメラのフラッシュが監督の顔を一斉に照らした。そのまま影の中に、身を寄せてしまいたかった。
今から思えば、バレーに対する熱意が違っていたのだ。
恭平が中学校からバレーに打ち込んだのは、思春期の揺れ動く情緒をどうにか収めたかったからだった。
子どもの頃から本ばかり読んでいた恭平に、父親は言った。
身体を動かすとすっきりするぞ。
花屋でたくましく働いている父を見て、恭平は妙に納得した。中学校では運動部に入ろうと決めた。
バレーを選んだのは、スポーツの中で一番面白かったからだ。
野球のように決まった打順で球を打つより、隙あればボールを打つほうが性に合った。ラケットで小さなボールを拾うより、生身でボールの落下地点に飛び込む方が気持ちよかった。
おかげで中学校は穏やかに過ごすことができた。
だが、高校もバレーを選んだ事が、大きな過ちだった。
向陽高校で待っていたのは、「春高」を目指す中堅バレー部のしごきだった。
監督は入部初日から、練習メニューを部員に配った。朝7時からの朝練。放課後は3時間部活。土日も練習と試合で埋まっていた。
「いいか、スポーツはなんでもそうだが、練習した分だけ強くなるんだ!」
コートに転がるモルテンのボールを見て、恭平はぼんやりと息を切らすしかなかった。
たまには遊びたい。
映画を観に行きたい。
読みたい本が、たくさんある。
「最近、練習に身に入ってないんじゃないか?」
職員室で、部日誌を渡すタイミングで詰問された。監督はイスに座ったまま、恭平を睨んだ。「中途半端な気持ちで練習してても身にならんだろ!」
「でも……今のペースで部活してたら、勉強もまともにできません」
「なにも成し遂げないうちに、言い訳か」
日誌が、高い音を鳴らした。職員室にいた生徒たちの視線を感じた。「中途半端なくせに達観するな。お前は自分に負けそうになっているだけだ!」
夜中、恭平はベッドから壁を見つめた。
成し遂げられてないものって、なんですか。
負けそうになっている自分って、どれですか。
バレーに染まれば正しいんですか。
俺の気持ちは、いったい、どこに収まればいいんですか。
それでも部活は休めない。キャプテンは降りられない。
おもむろに、恭平は身体を起こした。
……監督になにも言えないのは、確かに、俺が中途半端だからだ。
拳に力がこもった。
ルールを決めよう。
春高まで駆け抜ければ、自分の気持ちにも整理がつくかもしれない。監督が毎日檄を飛ばすのも、部員がそれについていくのも、すべては春高を目標にしているからだ。
だから今年、春高で結果を出そう。それが終わったら、自分の気持ちにきちんと向き合おう。
答えが出たら、嘘偽りなく従うんだ。
この期限付きのルールのおかげで、恭平は部活に戻ることができた。しかし同時に、ルールに縛り付けられることになった。
中途半端さを許容する強さが、恭平にはなかった。
そして春高優勝した夜、結論は出た。
俺には、バレーを続ける熱意がもう、ない。
その晩はホテルで祝賀会が開かれていて、9時を過ぎてもお祭り騒ぎは収まらなかった。恭平は周りに悟られないようにして、ひとり部屋に戻った。
ドアを閉めると同時に、ずるずるとへたり込んだ。
歯が勝手に鳴り始めた。
廊下から聞こえる団体客の笑い声に、自分のすすり泣きが入り混じった。
もう、消えてしまいたかった。
――貴重な高校生活の2年弱を費やして出した結論があれかよ。と、自分でも呆れる。
恭平は本の表紙をゆっくりなでた。
でも、それももう、どうしようもないことだ。
ウェイターが、端の席からブラインドを上げ始めた。いつの間にか外は薄暗くなっていた。
窓に映った自分は、筋肉こそ落ちていないがスポーツマンの雰囲気ではなかった。休日に運動する気など、さらさらない。
春高優勝してからほどなくして、恭平はバレー部を辞めた。
バレーに関わることがひどく苦手になって、チームメイトとも疎遠になった。
社会人になっても定期的に会っているのは、井上くらいだ。
新しいコーヒーに、クリープを回し入れた。白い線が、ゆるゆると黒に交じっていく。
……井上は、俺とバレーをつなげてこない。あいつは俺に同情したり、進言したり、変に勘繰ったりしてこない。あいつは自分の好きな話をするだけで、同じだけ俺の話にも耳を傾けてくれる。
井上と話していると、お前は間違っていないと言われてる気がする。
眉間にしわが寄った。
……でもさ、これって、センチメンタルが過ぎてない?
青白い空に、細い月がうっすら見えた。
早く――軽くなればいいのに。
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