第三話 待ちに待った憧れのあの方

 私には数時間にも思えたのですが、実際にうろついていたのは十分間もありませんでした。

 ふと窓からの外を見ると、ほのかに白んでゆく明け方の空の下、一台の車が止まるところでした。一目散に家を飛び出します。


「リュヌさま。家の鍵は閉められましたか?」


「あぁ! そうでした。少し待ってください」


「はい、かしこまりました」


 顔が熱い。きっと真っ赤に紅潮した顔を、シモンにも見られたでしょう。もう今更です。気を落ち着かせながら、家の鍵をかけてから、シモンの車へと向かいました。



 横浜へは小一時間で到着します。まだ通勤ラッシュ前で、道路は比較的空いていました。

 ベイ・ハーフの駐車場が見えてきます。川のほとりにある建物は数え切れないほどの柱で外装を覆われており、おりのようにも見えます。ただ照明で白く光る柱は、それ自身が照明のように輝いて見え、建物全体が周りの風景から浮かび上がっていました。この駐車場は近隣のデパートのものでもあり、白地に青い模様の大きなロゴが印象的でした。


「まだ時間がありますので、リュヌさまは喫茶店でお待ちいただけますか? わたくしは、この場所で間違いないかを確かめてきます」


 そもそも、何も調べていない私がうろついたところで、何かが見つかるわけでもありません。


「はい。では、開いている店を探して待っていますね」


「ベイ・ハーフの三階にベーカリーショップがあります。この時間であれば開店しているはずですので、そちらでお待ちください。何かわかりましたら、すぐにご連絡いたします」


 もう、いたれりつくせりのシモンでした。


「よろしくお願いします」


 少しだけ、自信喪失しながらも、彼の優しさに甘えてしまいます。



 朝早いためエスカレーターは止まっており、階段を三階まで上りました。

 ベーカリーショップは朝早くから開いており、通勤途中らしい人たちがパンを選んでいました。奥には椅子と机が並べられ、喫茶店にもなっています。白を基調としたガラス張り店内は、焼き立てのパンの香ばしい匂いで充満しています。

 モーニングメニューのクロワッサンとコーヒーのセットを注文して、奥の椅子に座りました。もちろん、スマートフォンは目の前においてあり、いつでも取れる準備はできています。



 ベーカリーショップに入ってから数十分間ほどたったころでしょうか、スマートフォンへメッセージが届きました。震える手を振り絞り、画面を表示します。


「賢者の皆さまに、お会いできました。すぐに来てください。店を出て右に伸びる通路を真っすぐに来ていただいたところに、コンビニがございます。そこに皆さんと一緒におります」


 スマートフォンをカバンへ放り込み、コーヒーカップの載ったトレイを持って席を立つ。手も足も震えている。

 震えた手でトレイを近くの返却コーナーへ置いたとき『ガシャーン』と音がしてしまいました。しかし、構っていられません。

 そのまま店を飛び出す。パンを焼く匂いで充満していた店内から、扉を抜けると空気が変わる。マスクを通して、ひんやりとする空気に少しだけ潮の香りがしました。

 扉を抜けると同時に走り出します。


――ヒールなんて履いてくるじゃなかった。走りづらい!


 自分を叱咤しったしながらも、右側へ伸びる広い通路を駆けだす。そこには誰もおらず、ヒールがコンクリートの床をたたきつける音が『カッン、カッン』と、こだましている。通路を埋め尽くす空気すら重く感じ、行く手を阻んでいるようです。


――早くいかせて!


 心の中でそう叫びながらも、空気を押し破るように走り続けました。このさきにあの方がいるのです。もう少しだけ、涙を流すのは我慢しましょう。視界がかすれて転んだら大変です。一秒でも早く会いたい。


 コンビニエンスストアのえんじ色の看板が見えました。


――もうすぐ。


 コンビニエンスストアの壁は総ガラス張りで、弧を描くように囲われている。弧の中央付近にある入り口近くまで来た時に、通路のさきでシモンが立っているのが見えました。


 そして、もう一人の姿が見えてきます。

 あの世界とは違い、この世界では歳をとる。白髪が混じった黒髪を真ん中で両側に分けた五十代くらいの男性が立っていました。すぐにわかります。年齢などこの世界だけの話。あの方に間違いない。


緋一侶ヒイロ!」


 ありったけの声を出して叫ぶ。静寂の空間に私の声だけがこだまします。

 しかし、走ってきたせいで、かすれてしまい、思うような声になっていませんでした。


「リュヌ!」


 名前も覚えていてくれました。私の顔は満面の笑みに違いありません。

 あの方の前で止まり、軽くカーテシーしました。あの世界の女性として体に染み付いたあいさつです。走ってきたせいか息が切れて、うまく話せないかもしれません。

 全身汗だらけで、背中を熱い水滴が流れていきます。周りに悟られないように澄ました笑顔をつくります。

 あの方の顔を見る前から、私の目は決壊寸前でした。しかし、まだです。話もせずに泣いている場合ではありません。


「はぁ、はぁ。大変お久しぶりです。緋一侶ヒイロ


 どうにか言葉を絞り出せましたが、完全に声が裏返っていました。


――しっかりしろ! わたし。


「ほんとに久しぶり……。というか、こんなに美しい有名人と知り合いだったとは夢にも思わなかった」


 そう、何十年も待ちわびた声です。記憶はありませんでしたが、きっとどこかで、この声を聞きたかったはず。

 私も歳を重ね、あの世界の自分とはまったく違う顔をしているのかもしれません。


「まあ、あちらの世界とは異なり、少し年は重ねてしまいましたが、お会いできてうれしいです」


「こっちこそ、だいぶ年老いてしまっていて驚いただろう」


――とんでもない! 緋一侶ヒイロの顔を忘れるわけがないでしょ!


 歳をとるのは、この世界だけの話です。記憶が戻った私にとり、そのようなことは些々ささごとにすぎません。


「いいえ、緋一侶ヒイロ緋一侶ヒイロです」



 そのとき、彼の体を緑色の膨大なオーラが包み込みます。それは徐々に大きくなり、私たちの立っている一帯を包み込みました。


 そして、左前にある階段を薄緑色の光が包み込み、その光が脈動しはじめます。

 光の脈動は『こちらにおいで』と招いているようでした。


 階段へと振り向いた緋一侶ヒイロが、振り返って私たちの顔を見ます。私は小さくうなずきました。ここにいる全員、考えは同じです。


 彼が階段へ向かって歩きはじめました。私も彼のすぐ後ろを歩いていきます。


 そして、あの記憶が頭の中を駆け巡りました。

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