第一幕
一:療師と名無し
***
「矜羯羅街/こんがらがい」
ここ数年の内に成長した巨大都市の外れに存在する巨大な集合住宅。この大きな住処は貧者、異形、奇病、あらゆる負の受け皿。蒸気と黒煙、喜怒哀楽の犇めく其れは一つの生物の如き騒がしい街である。
***
ゴミで満杯の麻袋の塊の上で眠る少女を見た時、療師の
少女は薄暗い部屋で起きた後、自分がソファの上にいることに気がつくまでに十数秒を要した。路地の奥に進むと襲いかかってきた暴漢との格闘の末、目眩のために何かふかふかとしたものの上で眠り落ちた所までは覚えていた。しかし、ここは明らかに違う場所だ。先程の悪臭もなく、寧ろ香のような匂いが漂っていて、散らかってはいるものの綺麗な部屋である。
「今日はどうしてか、変なことばかり起こるのね。気がつく度に、知らない場所にいる」
少女は混乱から、考えついた言葉を一字一句口にした。それからまだ怠い身体を起こしたまま、ソファの上で辺りを見回していた。すると部屋の奥から足音が近づいてくることに気がついた。少女は身構えた。呑気にしていたが、よく考えてみるとこの場所は奴らのアジトなのかもしれないのだ。やがて足音の主が珠簾の奥から現れた。薄汚れた肌着を来た男が薬箱を持っている。
「おいおい、頼むよ。僕は敵じゃない。どうか拳を下ろしてくれないかい」
「さっきあいつらだってそんなことを言ってたよ」
男は「そりゃそうか」と言って苦笑した。
「僕は常。ここのクリニックの院長の息子。療師をやってるんだ。治療してやるから、とりあえず落ち着いてくれないか。僕は奴らの仲間じゃないからさ」
常はそう言って手に持った薬箱を少女に見せた。少女は少し落ち着いたようで、常が近付いてももう手を出そうという様子を見せなかった。
「ちょっと、気になるんだけど。療師って何よ。医者じゃないの」
「知らないのか? 免許は無いが腕の立つ医者のことをここじゃそう呼ばれてるんだ。僕は医学薬学を親父に叩き込まれてるからね。あとは漢方だって調合する。君の容態次第で、それにあったものを出そうと思うから、自分について分かっていることを教えてくれないか。名前、痛むところ、そういうのをね」
少女は少し納得のいかない様子だったが、自分についての話を始めた。
「名前は、分かんないの。気がついたら変な路地の入口の前にいた。何かある気がして奥に進んだら襲われたの。でもぶっ飛ばしてやったわ。その後のことも覚えてないけど、起きたらこんな場所にいて、頭がもやもやするし体は怠い。でも怪我はないわ。あいつらに傷つけられる前にやっつけたから」
常は「それはそれは」と言って愉快そうに笑った。少女の話す全ての事柄が彼の興味を引いたのだ。
「見かけによらず強いみたいだね、君は。それにしても、謎だらけだ。知らない顔だとは思ってたけど、まさか自分の名前すらわからない記憶喪失の人間だとは。とりあえず気分が落ち着くようなものを作っておこうか。他のことはその後にしよう」
常はそう言うとまた珠簾の奥へと戻って行った。少女はまた知らない部屋に一人取り残されてしまった。自身の身に起こる様々な不条理、不可解。少女はそれに対する不満の溜息をついた。
「一体なんなの、ここは……」
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