短編『なんで』

シノミヤ🩲マナ

第1話

「はい……はい……熊、ですか」


 父親が取った早朝の電話は、小学校からの連絡網だった。

 

 電話を切り、連絡網を確認して、次の家にかける。

 たった今、聞いたことを復唱し、受話器を置く。


 食卓に戻ったところで、対面に座る一人娘が疑問を口にした。


「なんのお電話だったの?」


 今年で小学二年生になった娘は母親似だ。大きな瞳も、栗色の髪の毛も実に可愛らしい。

 自分に似ていなくて本当に良かったと思う。


「熊さんが町中に出たんだって。だから学校に行くときと帰ってくるときは、学校のおねえさんやおにいさんたちと一緒だよ。朝は七時半に迎えがくるって」


 パンを頬張りながらテレビに視線を移す。

 画面のなかではお天気おねえさんが各地の天気を伝えていた。

 画面上部に表示された時刻は、迎えが来るまで一時間以上の余裕があることを示していた。


「クマさんは、これからどうなっちゃうの?」


「たぶん、退治されちゃうんじゃないかな」


 熊の目撃情報が最初にあったのは先月。十月の中頃だった。

 はじめのうちは郊外だったが、途中にある牧場で牛や豚を襲いながら徐々に近づき、とうとう町中で目撃情報が出てしまった。

 今日はニワトリが犠牲になったらしい。

 家畜の味を覚えた熊が、次に人間を襲わないとは限らない。

 即座に猟友会の手で処理されるだろう。


「なんで?」

 娘が大きな瞳で見つめてくる。

「なんで、クマさんは殺されちゃうの?」


 せっかく包んだオブラートを容赦なく破り捨ててくる。


 父親は苦笑いを浮かべながら応えた。


「そうしないと、みんなが困るからだよ」


 娘は好奇心が旺盛だ。

 何にでも疑問を持つ。

 きっと質問は、まだ終わらないだろう。


 やはりと言うべきか。

 なんで、という表情で娘が言う。


「みんなって、だれのこと?」


 父親は懐かしく感じた。


(やっぱり、この子は僕の娘だな)


 まったく同じ質問を幼い頃にした覚えがある。

 応えてくれた祖父は、


『みんなはみんなだ』


 としか言ってくれなかった。

 

 祖父だけではない。

 周囲にいた大人たちは誰もろくに相手をしてくれなかった。


『大人になればわかる』

『いちいち屁理屈を返してくるんじゃない』


 今なら大人たちの気持ちもわかる。

 確かに大人となれば自然と理解できることも多かった。

 だけど、父親の心の奥底には今でも相手にしてもらえなかった寂しさや悲しみがヘドロのような塊となって沈殿している。


 自分は、あんなつまらない大人にはなりたくない。

 だから娘の質問には可能な限り真剣に向き合いたいと思っていた。


「ねえねえ、みんなってだれのこと?」

 と、娘が急かしてくる。


 少し考え、父親は言った。


「みんなはね。パパもそうだし、お隣のおばさんや向かいのおじいさん。学校のお友達や先生。この町に住む人たちのことだよ」


「町に住んでたら、みんなに入る?」


「そうだよ」


「じゃ、なんでクマさんはみんなに入れてあげないの? クマさんだけ仲間外れなんてかわいそうだよ」


 一瞬、息が止まった。

 これは難題だ。


「んー……それは熊さんが悪い熊さんだから、かな」

 

「クマさん、悪いことしたの?」


「牛さんとか豚さんを食べちゃったんだよ」


「なら、あたしとパパも悪い子だね」


「え? どうして?」


「だって、牛さんも豚さんも食べるよ? あたしたちも悪い子でしよ?」


「えっと、ね。牛さんや豚さんを食べることは悪くないんだ。熊さんが悪かったのは勝手に食べちゃたからなんだよ。ほら、パパたちもお金を払わないでお店から勝手に物を持ってきたら警察に捕まっちゃうでしょ?」


 しばらく難しい表情をしていた娘が、やがて言った。


「同じならクマさんは、なんで殺されちゃうの? 同じならケイサツにタイホされるんじゃないの?」


 今度は父親が難しい顔になる番だった。


 考えた末に、父親は白旗を上げた。


「それは……人間は、人間のことしか考えていないからだよ。だから熊さんを人間と同じには扱えない。人間は熊さんに優しくないんだ」


 そっかー、と娘は納得したらしい。


 晴れやかな娘とは違い、父親の気分は落ち込んでいた。


 なんて夢も希望もない応えだ。 


 父親は自分がつまらない大人になったことを知った。

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短編『なんで』 シノミヤ🩲マナ @sinomaya

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