第110話 霞む新年
新しい年がやってくる。
18歳で成人し、社会人となる司朗には、お年玉がない。
もっとも今年の年俸が1600万円。
契約金とインセンティブで、税金を引いても相当の金額になるのだが。
豆知識であるがプロ野球の契約金は、臨時所得扱いで税金が安くなる。
それを抜きにしても来年には、年俸を爆増させるつもりではあるが。
基準が武史となっているので、日本の年俸だと最高額でもたいしたことないと思ってしまう。
この司朗の持っている基準を、超えられなかったのがタイタンズの編成陣である。
メジャーだとFAになったそこそこの選手でも、年間に20億ほどの契約になる。
だがNPBだと最高額の大介でも、年俸だけではその金額にならない。
金で司朗を動かせないといったのは、武史のMLBにおける11年の活躍があったからだ。
九度のサイ・ヤング賞を受賞したピッチャーは、複雑な契約にはなっていたが、1000億近くの年俸を手にした。
アメリカでもさすがに、それなりの税金はかかったものだが。
節税のためにツインズに相談し、アメリカの節税術の闇を知ったものである。
年始は初詣に出かけたりもしたが、司朗は周囲の騒がしさに辟易する。
「それがプロの世界だからな」
直史はそう言うが、タイタンズの一位というのは、そういうものである。
しかも競合六球団から、引き当てたものであるのだから。
自前で育てたスター選手、というのが最近はあまりいないタイタンズだ。
高卒の野手ではあるが、スーパースターであることを義務付けられている。
さすがに一年目は、開幕一軍スタメンは苦しい、と思っている人間が多いだろうが。
タイタンズは二位から四位まで、即戦力の大卒と社会人ピッチャーを取りにいった。
競合必至が司朗と同じであったろうに、どうして久世を取らなかったのか。
支配下では野手を二人、ピッチャーを四人と言う配分。
高校生は司朗を除くと、下位指名で二人を取っていた。
同じだけの数の育成も取っていたが、司朗の知らない選手ばかり。
支配下でも片方は知らず、もう一人はさすがに同じ関東なので知っている、刷新の沢渡であった。
練習試合もしたし、甲子園にも出場していた。
もうちょっと評価は高くてもいいのにと司朗は思ったが、白富東と当たってボコボコに打たれて、それが評価を下げている。
あとは甲子園で、桜島にボコボコに打たれたのも、評価が下がった理由ではあろう。
司朗の年代のピッチャーも大変であったろうが、昇馬の年代のバッターも大変であろう。
とにかく昇馬が簡単そうに、関東大会や甲子園で、パーフェクトだのノーヒットノーランだのを達成するからだ。
おそらく今年のセンバツと夏も、昇馬と当たったプロ注バッターは、軒並評価を落とすだろう。
当の昇馬は飄々と、左右両投げの完成度を高めつつあるのだが。
マウンドも作ってあるし、プロテクターもあるしということで、大介は昇馬のピッチングを受けてみたりした。
スピードガンは左で、166km/hを記録する。
正確にはどうか分からないのだが、これで自己最速を更新である。
冬の寒い時期に、そんなことをしていてはいけないのだが。
昇馬はいい意味で早熟だ。
大介もあの体格で、高卒からプロで通用した。
昇馬は高校入学時点で、既にプロレベルであったが、まだそこから伸び代が残っている。
バッターボックスに入ってみたものの、さすがにツインズもこの球速は打てなくなっていた。
頑張ればなんとかなるかもしれないが、下手をすると手の骨が折れる。
昇馬はこれだけのボールを投げていながら、怪我はともかく故障とは無縁である。
あの桜印戦での捕球は、もう二度としてはいけない。
ただ両投げにも、一つだけ弊害は出来ているのだ。
それがゴロの処理をする時、どの選択が早いか、というものである。
基本的にフィールディングは、その動作上右ピッチャーの方が、少しだけ早くなる。
左ピッチャーはほんの少し、体を捻る動作が増えるのだ。
もちろん三塁に投げる時などは、それも逆になる。
直接拾える打球などは、咄嗟にグラブを捨てて、右でファーストに送った方がいいのでは、と考えてしまうこともある。
この一瞬の判断がリスクにはなるが、それでも両投げの利点の方が大きい。
ちなみにMLBには昔、隻腕のピッチャーがいた。
先天的に右腕の先がなく、それでもメジャーで活躍し、二桁勝利を何度も記録した。
当然ながらサウスポーであり、右手の先端にグラブを置き、投げたと同時にそれを左手に装着。
ボールをキャッチしたらそれをグラブごと外し、ボールを送球するといった流れで送球していた。
当時のMLBは片方がDHのないリーグであったため、ほんの少しだが打席に入ったこともある。
それでいて守備指標は良かったと言われるのだから、フィールディングはサウスポーだからとか、甘えてはいられないのだ。
ちなみに大戦前後には、隻腕のバッターもいたらしい。
こちらはちょっとどうやっていたのかというと、まさに大戦の時代であったため、1シーズンだけメジャーで成績を残した。
実際のところ緩急を使われると、さすがに対応が出来ないことが明らかになり、短い期間しか通用しなかったらしいが。
ただピッチャーの方は、ノーヒットノーランを達成している。
これに比べれば昇馬の左右両投げも、どちらの手もあるのだから、無理ではないという話になる。
いやいや無理だろうと思うが、実際にやっているのだ。
人間の可能性が無限である、とまでは言わない。
しかし想像以上のことをやってのける人間は、実際に存在するのだ。
事実は小説よりも奇なり。
ちょっと違うかもしれないが、世の中というのはそういうものであろう。
昇馬の右からのピッチングは、司朗を悩ませた。
まだ未完成であるが、これはまた大きな武器になる。
昇馬は身長だけではなく、ウィングスパンも大きい。
つまりサイドスローで投げると、左右の角度が大きくなる。
右打者にとっては背中からくるボールに見えるだろうし、左バッターにとっても懐に飛び込んでくる球となる。
ただサイドスローから投げると、スプリットが上手く落ちなくなるという弊害もあった。
つまり右で投げる時は、二つのフォームを使い分ける必要がある。
ここまで複雑にするべきなのか、と司朗は思う。
ただでさえ怪物なのに、さらに怪物になっていく。
だがこれでも、大介はそこそこ打ってしまう。
「難しく考えすぎなんだよな」
考えずに打てるのは、それこそ大介ぐらいだろう。
そして直史は右腕一本からでも、大介を抑えてくるのだ。
直史は練習では、真剣勝負をしても大介に打たれる。
別に配球に手を抜いているわけでもないのだが、ここでの対決は分が悪い。
潜ると表現する、直史の集中力。
一つ目はゾーンであり、さらにもう一つ深いところに潜る。
それを練習でやっていたら、消耗がとんでもないことになる。
脳をとんでもなく使っているのだ。
これが負担を強いているのか、むしろ考えることによって脳細胞が活発化されるのか。
それは分からないが危険性があるため、練習と試合では使い方が違うし、試合においても状況と対戦相手で使わなかったりする。
なのでここでは、司朗のバッティングピッチャーが役目となる。
高校野球からプロというのは、ピッチャーのレベルが一気に変わる。
ただ高校の本当のトップなら、プロとさほども変わらない。
超高校級の条件としては、やはり一年目から一軍の主力になったか、ということがあるだろう。
上杉兄弟や真田の他には、本多と同年の玉縄などもそうだ。
本多は意外と言うべきでもないが、一年目はやや仕上がりが遅かった。
最終的にメジャーに到達したので、玉縄よりも評価は高いが。
上杉の影響があった時代は、野手でも即戦力高校生がいた。
パで新人王を取ったのは織田であったし、大介は一年目で多くの記録を更新した。
身近な人間であれば、アレクも新人王を取って即戦力になっていた。
司朗のプレイスタイルは、本来ならば織田やアレクに近い。
ただパワーもあるため、打率はやや低く、長打はやや増えるだろうか。
ケースバッティングの判断が出来るので、トリプルスリーを目指すタイプでもあるだろうが。
直史のピッチングを見ることで、右腕の変化球はほとんど、対応出来るようになったと言える。
もっともそれぞれの球種はともかく、配球によってどうなるかが、本番では問題なのだが。
左のピッチャーに対しても、速球は問題なく打てるようになっている。
ただ大きな横の変化は、昇馬が今練習中だ。
指先のタッチが繊細な左手で、スライダーを三種類投げ分ける。
それがこの冬の間に完成したら、とんでもないことになるだろう。
大介はこのオフ、肉体的なトレーニングよりも、動体視力の反応を優先して鍛えている。
この年齢になると、鍛えると言うよりは維持なのだが。
多忙な直史に比べると、大介はまだしも時間の余裕がある。
そんな大介には、実はまたお話が来ているのだ。
WBCのメンバーだ。
来年は43歳のシーズンになるおっさんを、なんでそんなところに引き出すのか。
ただこれは投手陣に問題がある。
武史なども出来れば召集したいが、故障した直後のシーズンで、参加を求めるのは難しい。
WBCで活躍した選手は、その年には故障に苦しむことがある、というのがパターンとなっているのだ。
直史は忙しすぎて、さすがに遠慮してくる。
ピッチャーの不足分を、バッティングで補うという考えだ。
まだ自分でも決めていないが、若いピッチャーがたくさん出てくるなら、その心を存分に折っても構わないだろう。
いっそのこと昇馬を連れて行ったらとも思うが、時期が完全にセンバツに被さっている。
いくら特例を作ろうとしても、高校生を加えるわけにはいかない。
直史と樋口は特例で、主戦力になったものだが。
おそらく大介としても、これが最後の国際大会だろうな、という気はしている。
しかしアメリカは、メジャーではなくメジャー寸前の、3A選手を主体にピッチャーを組んでくるらしい。
ならこちらもそれでいいのでは、と思わないでもないが。
同じ舞台に立つ人間として、司朗は改めて大介を観察する。
あの体格とあの筋量で、どうしてあそこまで飛ばすことが出来るのか。
エネルギーはスピードと質量に比例するが、単純にそれだけでもない。
大介のバッティングは、バットが一瞬、ボールを捕まえるのだ。
静止画で見れみれば、ボールが歪んでいる写真になる。
このインパクトの時に、わずかにグリップの力を変える。
するとボールの弾道は、大きく変わっていくのだ。
長くて重いバットを使っている。
扱いは難しいはずだが、それを使うことで質量は、間違いなく増加しているのだ。
そして作用点が支点から遠いことで、より大きなパワーとなる。
試しにバットを振らせてもらったが、これを使いこなすには時間がかかるだろうな、と思わせた。
大介がほとんど故障もなく働けているのは、体重が軽いからであり、体が頑健だからだ。
ただ筋肉の量は、かなり体重に比例する。
脂肪をつけず、筋肉で覆われた大介の肉体。
それでも最終的に距離を飛ばすのは、センスなのであろう。
当て勘というものである。
極限の集中の中で、ボールの回転を見抜き、どの角度でバットを当てればいいのかを判断する。
思考ではなく、ほとんど反射のようなものであろう。
これだけの力があれば、直史を相手にしても、打てるはずだと思うのだ。
しかし実際には、多くの場面において、大介は直史に敗北している。
ただ直史に敗北を与えたのは、大介だけでもある。
少なくとも高校最後の年度からは、公式戦で直史に勝ったのは、大介しかいないと言える。
天才の持っている技術を、継承することが出来るのだろうか。
極限の努力をすれば、それも可能だという人間はいるだろう。
だがその極限の努力をするには、そもそも努力の才能が必要になる。
努力をしているフリだけならば、かなりの人間に可能なのだ。
しかし本物の努力というのは、工夫が必要となる。
司朗は大介のスイングの音を聞く。
太い音ではなく、鋭く切り裂く音だ。
司朗のスイングもまた、それに似ている。
だが極限のところで、微妙に違うのが分かっている。
昇馬のスイングは、基本的に技術では打っていない。
パワーがあるので、自然と打てているだけだ。
低反発バットに変わってから、高校野球はまたスモールベースボール有利になったと言われる。
その中で昇馬は、長打を量産しているわけだ。
体格からしても昇馬は、パワーだけでかなり飛ばすことが出来る。
選手としての本質は、やはりピッチャーにあると言えよう。
もっともこのバッティングも、活かさないのはもったいないだろうが。
プロの世界に入るなら、それでも左右両投げで、どれだけ体力がもつかを考えるべきだろう。
上手くすれば年間に、30勝に届くかもしれない。
21世紀以降のNPBでは、シーズン30勝以上を達成したピッチャーはいない。
MLBにしても直史が達成しただけで、武史でもそこまでは届かなかった。
21世紀の範囲で言うならば、間違いなく最強のピッチャー。
5シーズンだけしか投げていないが、その評価は間違いない。
昇馬が何かを記録するにしても、それは大学を卒業後でいいのではないか。
ただ本人は大学に行けば、もう野球には興味を失うかもしれない。
まだその高みには達していないが、ここまでまともに負けたことがない。
それが野球というスポーツに、価値を見出せないことになっているのではないか。
司朗にヒットを少し打たれただけでは、司朗との関係が近すぎるため、ムキになることがない。
最終学年のセンバツと夏で、どこかでホームランデモ打たれればいいのではないか。
そうしたらそこでやっと、野球に対する執着が湧いてくるかもしれない。
純粋に考えれば、昇馬の野球による影響というのは、社会に大きく届くであろう。
野球はマイナースポーツだが、アメリカの市場では大きなものなのだ。
どうせなら人数も少なく、貢献度も高いNBAの方が、やってみたいと思っている。
無限とも言える体力を考えれば、野球よりもいいかもしれない。
ただ昇馬の適性は、やはり野球の方に大きい。
2mもないチビであっては、NBAでの活躍は難しい。
もっとも昇馬の身長は、いつの間にか伸びている。
あとちょっとでマイケル・ジョーダンと並ぶであろう。
肉体の頑強度や体力では、リバウンド王にもなれるかもしれない昇馬なのであった。
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