第107話 パワーアップ
客観的に見た場合、昇馬という選手はこの時点で、早熟と評価されてもおかしくない。
その早熟の時点で既に、プロで通用しそうなスペックどころか、プロでトップレベルのスペックであるのだが。
練習試合禁止期間に入ると、トレーニング期間となる。
この時期にどれだけ伸びるかが、最終学年の結果につながってくる。
「去年は勝てなかったから、春の甲子園は勝ちたいな」
ナチュラルにこんなことを言っていて、常識を残している周囲の人間は、表情が宇宙猫になっていたりしたものだ。
昇馬の球威は、さらに上がっている。
キャッチしている真琴は、しっかりとそれを感じていた。
この時期の野球は、プロもアマもあまり、動きというものがない。
MLBなどはストーブリーグの季節で、大きくトレードがあったりするのだが。
直史は仕事で忙しい。
だがプロ入りする司朗を、年末年始は千葉に呼ぶ。
ここからならSBC千葉にも通いやすいからだ。
年が明けてすぐ、新入団選手は寮開きと共に球団の寮に入る。
それまでに鍛えて、キャンプは一軍に帯同させるのだ。
自分が引退するまで、おそらくもう五年はないだろう、と直史は考えている。
さすがにそんな年齢までは、まともに働けないだろう。
衰えた力で対決しても、意味などないのだ。
大介の方も、おそらく目がついていかなくなる。
もっとも人間の遺伝子は、老化しやすいものとしにくいものがいて、大介はいまだに若く見られる。
一度は髭を生やしたこともあったが、かえって背伸びしている子供のように見られたらしい。
武史にしても、今年は故障で休んでいた。
肉体が壊れやすくなっていれば、もう引退も近いであろう。
野球選手は昔に比べると、引退時の体の故障が、通常の生活にも支障が出るレベルであることが多くなっている。
これは昔の人間が頑丈だったのではなく、昔の人間がそれだけ、強度の軽い運動をしていたからだ。
今では科学的に、肉体の最大限のパワーを引き出すようにしている。
そしてそのパワーに、肉体の耐久力の方が耐えられないのだ。
つまり昔はアクセルを踏み込んでも、エンジンがパワーを全部伝えることがなかった。
今はそこにロスがないため、シャーシが耐えられなくなったようなものだ。
生まれつきの素質に、幼少期からの食環境、そして成長期の食環境などが、肉体の頑健さを作っている。
心肺や筋肉はともかく、骨や腱などが耐えられない。
途中から鍛え始めても、もうそれでは遅いのだ。
そう考えると昇馬の場合は、子供の頃からたっぷりと、自然に激しい運動をしてきた。
それも単純なものではなく、色々な柔軟性を必要とする動作で。
野球選手の体重は、たとえばバスケットボールの選手に比べると、身長に比べて体重が重かったりする。
もちろん個人差はあるが、スポーツに関しては体格に、適した体重というものがあるのだ。
昇馬はこの冬の間に、ウエイトトレーニングもある程度はしたが、自重を使ったトレーニングや、山歩きを徹底的にしている。
動作が一定でありすぎると、肉体はそれのみに固定化されてしまう。
もっと躍動感がないと、選手生命は短くなる可能性がある。
ただ昇馬の場合は、体の鍛え方のバランスがいい。
左右両投げという、一応はトレーニングとして、他のピッチャーにもやっている者はいる。
だがそれが本当に、公式戦でも通用するほどに、鍛えてあるピッチャーなどいない。
甲子園レベルでも通用するという、前例のない事態。
一応はMLBでも、両手で登録されたものは、マイナーにおいて存在するのだが。
いっそのこと一球ごとに、投げる腕を変えられれば。
そうしたらもう両投げというのは、最強レベルのチートになるだろう。
単純にいって一球ごとに、投げるピッチャーが変わるようなものだ。
直史にしてもそういった、異次元の存在の誕生は見てみたい。
昇馬をプロで使うなら、パ・リーグの方がいいだろう。
右で投げて中三日、そして左で投げて中三日。
さらに投げない日は、DHでバッターとして使う。
ピッチャーとしては速いだけでは、今はもう通用しない時代。
しかし昇馬のスピードとコントロール、加えて変化球などは、しっかりと通じている。
直史でも今は、NPBで年間30勝は届かない。
若かった頃なら完全に野球だけに専念し、回復を待てるのならば、中四日をやれたかもしれないが。
司朗が引退した今、昇馬は高校野球において、最強のピッチャーであり最強のバッターだ。
こんな存在に育ててしまったのは、主に母親であるが。
あの二人がそもそも、両投げの両打ちという、異次元の技術を持っていたのだ。
年間30勝、ホームランはさすがに少なく30本ほどと見ておく。
30勝、30本、30盗塁。
これが出来たら本物の怪物であるが、投打のどちらかだけに専念すれば、30勝と30-30のどちらかは普通に達成出来るだろう。
一番もんだいなのは、本人のやる気である。
山に登る人間は、どうして山に登るのか。
それはそこに山があるからだ。
昇馬は現在、悪い意味で敵がいない。
野球をやっていても、高校レベルではよほど運が悪くない限り、全国を制覇してしまうだろう。
そんな昇馬が競う相手となると、プロの現在のプロの過去。
つまり記録である。
大介の打率やホームラン数に並ぶのは、おそらく不可能である。
だが直史のシーズン27勝、あるいはMLBの34勝には並べるかもしれない。
もっとも過去には40勝していたピッチャーや、それこそMLBなら70勝していたピッチャーもいるので、こういった記録は抜けないだろう。
しかし同じ時間に、どれだけ突出した成績を残せるか。
これに飽きてしまったら、その時こそ野球をやめる時であると、直史は思う。
直史は自己評価が低い。
実績を自分で貶めるわけではないが、球速のMAXに限界があるのは、自分でもよく分かっている。
だが同じ球速のストレートを投げていても、体感速度が5km/hは違う、というボールは投げられたりする。
そういった技術を、昇馬は知りたがっている。
「単純な話で、まずインハイは目が近いから打ちやすいけど、その分速く感じる。アウトローは目から遠いから打ちにくいけど、目で捉えることは簡単になる」
ホームから新幹線を見るのと、遠く離れたところから新幹線を見るのと、見易さが違うのは当たり前だ。
動体視力の問題で、インハイが得意かアウトローが得意かは決まる。
アウトローは誰にでも有効、というわけではないのだ。それでもインハイとアウトローは、有効な球である。
インハイに投げ込むのは、コントロールに自信がないと、ちょっと難しいだろうが。
コースの他にもう一つ、体感速度ではなく実際の速度を変化させる方法がある。
それはスピン軸の問題だ。
「基本的には今の教え方では、バックスピンのかかるフォーシームばかり教えるからな」
それを一概に悪いというわけではないが。
「バックスピンがかかっているとホップ成分が高くなり、特に高めで空振り三振が奪いやすい」
もっともリリースポイントの問題もあるが。
「ライフル回転がかかっていると、空気抵抗が少なくなって、減速率が低くなる。つまり手元でもキレがあって詰まる」
「キレと伸びの差って何ですか?」
「それなあ。正直指導者も、分かって使い分けてる人間、少ないと思うんだよな」
直史は自分なりに、ちゃんと理解しているが。
古い時代であると、ノビはストレート、キレは変化球に使われていたらしい。
直史はノビをホップ成分、キレを減速率の低さと考えている。
ただホップ成分を高めるのは、バックスピンの量とその回転軸に限ったことではない。
リリースポイントも重要なのである。
身長を利用して、高い角度から投げ込む、という理屈が昔はあった。
これは完全な間違いではないが、やはり少し違うと直史は考える。
身長が高いピッチャーにとって有利なことは何か。
それはより前で、ボールを離せるということである。
18.44mの距離の中で、身長にプラスして腕の長さも考える。
それが20cmも前であったら、タイミングの取り方が変わってくるはずだ。
前でリリースするほど、そのリリースポイントは低くなる。
低いところからストレートを投げると、よりその軌道は地面と平行に近くなる。
少しでも前でリリースすることの有利さは、ピッチャーなら誰でも分かるだろう。
昇馬は身長も高いが、腕も長い。
このためボールを投げる時も、助走距離を長く取れる。
そこからさらにバックスピンが強くかかっていると、とんでもなくホップするように見えるわけだ。
実際の球は絶対に、ホップすることはない。
あるとしたらそれは、アンダースローだけである。
昇馬をさらに怪物化させるにはどうすればいいか。
球速をさらに上げられたらいいが、それは結果であって過程ではない。
打たれないストレートを、もっと極めていくべきなのだ。
「スプリットと言ってたけど、思ってたより負荷がかかるみたいだし、違う球種の方がいいな」
右で投げる時は、上手く落ちてくれるのに、左では上手くいかない。
同じ人間なのに、不思議なことである。
「でも落ちる球はほしいです」
「高速で落ちるなら、縦スラ系かな」
今もスラーブを投げているのだから、スライダーの感覚は分かるだろう。
あとはそれを縦の変化にするのみだ。
キャッチする真琴は大変であるが、何気にパスボールがなかったりする。
抜けた時のワイルドピッチは、さすがにあったが。
「右は逆に、横の変化球がほしいかな」
「ツーシームでも、ほとんど曲がらないんですよね」
真琴と一緒に、色々と試してはいるのだ。
いっそのこと右から投げる時は、サイドスローにしてしまうのはどうだろうか。
さすがに無茶な話だ、と思われるかもしれない。
だが人間の体はその構造的に、右腕と左腕ではそれぞれ、投げる角度が変わるのはありえるのだ。
そもそも人間の、体の中心である心臓。
この位置がわずかに偏っているため、完全には左右対称にならない。
さらに内臓のことを言うなら、重量のある肝臓も、右に偏っている。
そのため人体のバランス的には、左右で全く同じピッチングにするのは、無理があるのだ。
昇馬の投球フォームを、完全に左右対称で確認してみる。
すると左はオーバースローに近く、右はスリークォーターである。
「今まで気にしてなかったな」
「そりゃあんたはどちらでも抑えられるから」
そう、真琴が言ったとおりなのである。
高校野球レベルでは、必要のないことなのだ。
昇馬がさらに上のレベルでやるならば、まだ伸び代がある。
現時点で既に、ストレートなどはプロのトップレベル。
だが全てを上回るためには、まだ出来ることがあるのだ。
高卒でプロに行くなら、引退後の時間も有意義に使うべきだろう。
左はストレートに、それを上手く活かすためのツーシーム。
緩急をつけるチェンジアップで、本来ならこれでも充分だ。
さらに大きな変化球として、スラーブがある。
このスラーブを軸に、変化球の変化量と変化方向を変えていけばいい。
左手の方がコントロールがいいというのは、左手の方が器用であるということ。
指先のタッチで変化する、スライダー系とは相性がいいはずだ。
対して右にも、一つ変化球を与えたい。
昇馬の右は、左に比べてスリークォーター成分が高い。
すると投げられる球種としては、一つ思い浮かぶものがある。
左右の両手どちらも、超高校級のピッチャーであることを考える。
それどころかしっかりと、プロで通用するピッチャーになるのだ。
鬼塚は無茶なことを言っているな、と自分でも考える。
ただ昇馬に教える直史は、無茶でも無理でもないと考えているのだ。
左でスラーブを投げたのは、元はカーブを投げようと思ったもの。
今ではそのノーマルのカーブも、ちゃんと投げることが出来るようになっている。
左右両方にチェンジアップがあるため、緩急をつけることが出来る。
そして左では、スライダー系を増やして投げるのだ。
「カット、小スラ、大スラ、縦スラの四つかな」
その分け方はなんのだ、と鬼塚は思ったものだが。
高校時代の同学年であるアレクは、ピッチャーもやっていた。
そしてその球種は、スライダー系だけであったが、変化量や球速は何段階かに分かれていたのだ。
今はツーシームで、打たせて取ることが出来る。
次は逆方向への変化で、打たせて取ることと空振りを取ること、両方を出来るようになるのだ。
結局のところ、スプリットはやめておく。
昇馬はパワーがあるだけに、逆にスプリットなどは負荷が大きすぎる。
もちろんオーバースローからならば、スプリットは効果的なボールであるのだが。
センバツから夏の選手権まで、残った試合は少ない。
そして気をつけなければいけないのは、白富東が負けた試合のことである。
一つは昇馬の怪我であり、これは偶発的なものである。
しかしもう一つは球数制限という、ちゃんと理由があるものだ。
左右両投げは、この球数制限をどうにか出来るものではない。
左右それぞれに球数制限があるなら、確かに意味はあるのだが。
重要なのは二番手ピッチャーである。
前回のセンバツで負けたのは、昇馬一人に任せすぎたからだ。
もっとも対戦相手が、間隔のあった紀伊高校は別として、尚明福岡、花巻平、桜印、帝都一と強力なチームばかりであった。
勝った試合は2-0、1-0、1-0というものであり、特に桜印とは延長に突入している。
和真が入った白富東は、もう少し点が取れる打線になった。
そしてリードしているならば、二番手以降のピッチャーで通じるのだ。
面白い数字がある。
県大会の序盤などでは、アルトと真琴が投げた場合、アルトの方が成績がいい。
しかし関東大会などのレベルになると、真琴の方が防御率などが良くなってくるのである。
これは考えてみれば、当たり前と言えば当たり前だ。
県大会の序盤のチームにとってみれば、アルトは強豪のエースクラス。
これを打つのはほとんど無理である。
ただこのレベルのピッチャーならば、甲子園に行けば普通にいるのだ。
対して真琴のようなピッチャーは、甲子園でもほとんどいない。
バッターは打った経験の少ないタイプのピッチャーほど、打つイメージが出来ないものだ。
プロ野球などならばともかく、対戦機会の少ない高校野球。
そこでは真琴を使った方が、強豪相手には点を取られにくい。
この分析に、アルトは別に怒らない。
そもそも自分は外野が専門で、ピッチャーは専門外であるからだ。
そのアルトにも、この冬には球速を、150km/hまで乗せてきてもらうつもりだが。
強肩は守備力を高める。
当たり前の話であるが、送球スピードが速い方が、ランナーをアウトに出来る。
レフトは中継でホームに送球することが多いが、ライトは三塁へのタッチアップを防ぐ必要もある。
そのため全ての選手は、肩がいいことに越したことはない。
特に外野はそうであるが、レフトはむしろ判断力が重要になる場面もある。
鬼塚は来年のことも考えないといけない。
昇馬たちの学年が、引退した後のことである。
一年生は基本的に、ピッチャー経験のある六人で、継投するという手段で考える。
どうしようもない時は、和真にマウンドに上がってもらって、ど真ん中ストレートだけで、1イニングぐらいを抑えるといったぐらいか。
甲子園への出場実績や、練習環境の充実。
体育科の設置などもあるので、来年の春には少しでも、エース格のポテンシャルを持つピッチャーが入ってほしい。
夏休みの学校見学には、体育科希望の生徒もいたらしい。
だがこういうことを考えていくと、全国から生徒を集められる、私立の幅が羨ましくなる。
おそらく全国を見れば、白富東に入りたい、と考えている生徒は、もっと多いのであろう。
三年生三人の投手力で、春夏の連覇を狙う。
むしろ昇馬がいる時点で、充分にそれは具体的な目標なのだ。
あとは日本中の、有力校がどれだけ、対策をしてくるのか。
それを上回らなければ、負けることもあるかもしれない。
ワンマンチームというのは、考えていなかった鬼塚である。
だが全ての選手を活かすように考えると、自然とワンマンチームになった。
もっとも昇馬だけでは、勝てないというのも確かだ。
全国の強豪はおそらく、昇馬への対策を考えてくる。
問題になるのはトーナメントの組み合わせだ。
一年の夏から二年の春、そして二年の夏と、白富東はクジ運が悪い。
本当に強いところとばかり、対戦しているのである。
強いて言うなら紀伊高校は、比較的弱かったと言えようか。
桜島には圧勝したが、昇馬以外のピッチャーであれば、そう上手くはいかなかっただろう。
次のセンバツ、一回戦で21世紀枠と当たり、二回戦も楽なところ、といった感じにならないだろうか。
あとはどれだけ、昇馬を温存出来るか。
球数制限のために、他の二人に投げてもらう必要もある。
(昭和の甲子園だったら、平気で五連覇してたのかもな)
そう思う鬼塚は、怪物を指導することの大変さを、つくづく感じているのであった。
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