第105話 基礎体力
野球においてプロとアマの最大の差はなんであるのか。
もちろんアマの上澄みが、プロに行っているので全てに差はある。
しかしアマの上澄みがプロに入ったとき、一番何で躓くか。
経験はもちろん関係するだろうが、まずは基礎体力である。
年間に143試合をして、さらにポストシーズンも戦う。
この試合の多さは、他のスポーツと比べてもかなり違う。
サッカーなど月に二回しか自軍のグラウンドを使わないではないか、と揶揄されることもある。
いや、他にも色々と、リーグ戦以外に試合もあるのだ、と言うであろうが。
それを言うなら野球にしても、WBCなどがある年度があるだろう。
ポストシーズンに進出すれば、試合の数も増えてくる。
ここで基礎体力と言ったが、より正確には肉体の力と言うべきか。
要するに年間を通して戦う頑健さが必要なのだ。
野球は運動強度がそれほどでもない、と言われる。
確かにピッチャーは別としても、内野で一番忙しいショートなども、それほど球を処理するわけではない。
むしろ一番忙しいのは、バッテリーを除けば一番、ボールに触れることの多いファーストではないか。
ただポジションの負担度を見れば、ピッチャーを除いてキャッチャーが一番、ショートが二番となっているのだが。
高卒の選手はこの基礎体力がまだ足りない、と言われることが多い。
もっともピッチャーなどは、比較的早めに仕上がっていたりするのだが。
野手に時間がかかるのは当たり前。
そう言われつつも大介は、MLBみたいな守備をするな、と言われたりしていた。
多くのプロ野球選手の中でも、高卒野手で一年目から通用したものは、ほとんどいない。
投手ならばけっこういるのだが。
司朗はその基礎体力のために、短距離ダッシュを繰り返していた。
体格からしても司朗は、内野を守るには大きすぎる。
一応サードとファーストはやってもみたが、それよりはまだピッチャーの方がいいぐらいだ。
ただ外野を守らせたら、その足でフライをキャッチしまくる。
肩の強さも150km/hを低弾道で投げられるのだから、プロでも外野で使われるのは間違いない。
基礎体力とも言われる頑健さを、どう身につければいいのか。
それはやはりウエイトトレーニングではある。
パワーとスピード、などと言われるがこのパワーはあくまで瞬発力である。
持久力的なパワーというのは、むしろ見せ筋となってしまいかねない。
本当は一番いいのは、練習をしまくって、その動作の中で筋肉をつけることである。
ただ基礎体力に関しては、司朗は昇馬に一目置いている。
高校一年生の夏の甲子園、決勝までの全試合をフルカウント投げ655球。
特に三回戦以降は、中一日での登板であったのだ。
翌年春のセンバツで球数制限によりマウンドから降りた時も、余裕を充分に残していた。
あのまま投げられていれば、帝都一はおそらく敗北していたであろう。
つまり昇馬は、怪我とルール以外では、勝てない化物であったのだ。
もっとも親の世代がさらに化物と名状しがたい何かなので、あまりそうは感じないのだが。
引退して契約も終わり、メディカルチェックやイベントへの参加もした司朗。
ただ入寮する前から既に、何か変な感覚が首筋に感じられた。
元々感覚が鋭いというか、バッティングなどではほとんど、予知能力的に打っていたこともある司朗。
何かこのままでは、悪い結果が出そうだと、そうも思っていたのだ。
筋肉は必要であるが、司朗はバネでフライをキャッチすることもある。
スライディングキャッチはしても、ダイビングキャッチはするなと、高校ではみっちりと教えられた。
ジンも司朗のことは一年生の時から、いずれはプロに行く人間だ、と思っていたのだ。
自分はそれを高校の三年間、預かっているだけ。
ちょっとした上積みはするが、クセを付けずにプロに入れるのが、一番重要だと考えていた。
もっとも最後の冬には、昇馬のパワーに対抗して、かなりの増量を実施したが。
センターを守りながら、つまり走力を落とさないままに、長打力を伸ばす。
コツはバネである。筋肉も重要だが、それだけではない。
司朗の打ち方は中距離打者としての性質が強く、飛距離を出すのは少し工夫する。
それでもワールドカップでは、昇馬と合わせてホームラン王競争をしたものである。
プロになったら外野を守るとして、自分に何番の打順が期待されているのか。
したたかにそれを考えて、バッティング練習も行っているのだ。
単純なバッティングピッチャーのボールなら、左右のポールフェンスに当てることすら出来る。
どうせなら一番短い距離でホームランにするのが、お得であるという考えだ。
ただホームランというのは、飛距離さえあれば方向はどうでもいいのだ。
昇馬のバッティングならば、そういう傾向になってくる。
あちらは左右両方で打てる、スイッチスラッガーであるが。
昇馬のトレーニングの一つに、司朗が全くやっていないことが一つあった。
ボルダリングである。
あの壁の凹凸に手足を引っ掛け、登っていくというものだ。
もっとも昇馬の場合は、最初はロッククライミングをしていた。
日本ではあまりいい岩がないので、代用しているわけだが。
バッティングで飛距離を出すのに必要なのは、実は腕の筋肉ではなかったりする。
もっとも腕にしても、前腕は鍛えた方がいいのだが。
ミートのインパクトの瞬間、しっかりとバットを握ること。
バットがすっぽ抜けないように、大介などはバッティンググローブを使わないが、普通にグリップでバットを握っている。
当たった瞬間に、上手くヒットになるようにコントロールする。
この技術が司朗は高いのだ。
ただケースバッティングで、安打製造機であった司朗より、大介の方が甲子園での打率などは高い。
あれだけの長打力があっても、八割ほども打っていたのが大介である。
地方大会でも甲子園でも、打率はあまり変わらなかった。
(単純だけど素振りが、一番分かりやすい)
スイングの音を聞くために、目を閉じて振ることもある。
一番空気を震わせるのが、正しいスイングであるのだ。
バッティングでもパワーなら、昇馬の方が上である。
ただホームランは、130mも飛ばせば充分であるのだ。
なにも大介のように場外まで飛ばしても、点が二倍になるわけではない。
もちろんそれはそれで、記憶にも記録にも残ることではあるが。
司朗が付き合った、オフシーズン中のトレーニングとも言えないトレーニング。
それは山道を歩くことであった。
昇馬だけではなく、直史に加えて百合花。
一人だけ小学校の女の子が混ざっているが、百合花はこの山歩きに慣れている。
「ユリちゃんはゴルフを始めたんだっけ?」
「そうだよ! それでこの山歩きが、トレーニングなわけ」
まあ言いたいことは分かる司朗である。
現代野球において、長距離のランニングは、あまり効果がないとも言われている。
実際に持久力の筋肉が必要ないというのは、野球においては確かなことなのだ。
それでも走ることがあるのは、心肺機能を鍛えるため。
これが優れていると、疲労しにくく疲労から回復しやすい。
ただ走る場所は注意しなければいけない、とも言われている。
帝都一ではランニングする時は、必ずスパイクからランニングシューズに履き替えるように言われていた。
アスファルトなどを走れば、意外とその衝撃が伝わるからである。
適度に走ればむしろ、体の成長を促す刺激にもなるそうだが、ジンは故障しないことを第一にした。
そしてこの山歩きは、平坦な地面を歩いたり走ったりするわけではなく、登りや下りを繰り返すために、股関節や膝が適度に柔らかくなる。
心肺への負荷はほどほどで、ゴルフなどには丁度いいそうだ。
野球の倍もボールを遠くに飛ばす、ということで司朗はその仕組みを習ったことがある。
教えたのはジンであり、あくまでも野球で飛距離を出す理屈の上で、ゴルフの打球を例にしたのだ。
それにゴルフでも、飛ばすだけが重要ではない。
野球と違って、50mや100m、あるいは5mだけしか飛ばしてはいけないこともある。
止まっているボールを打つだけに、それだけ繊細なヒッティングが重要視される。
そんなゴルフは、要するに走塁のないバッティングのようなもの、と司朗は意識している。
ただ長い距離を歩くので、そこは確かに少し体力が必要であろうが。
しかし直史からすると、体力よりも気力の消耗が激しいのだ。
集中力のいるピッチングをすれば、その瞬間には心拍数が上がっている。
緊張感に耐えるのには、それを抑える力が必要となる。
司朗はピッチャーもやっていたので、その緊張感による疲労、というものは分かった。
バッティングも集中した時は、ボールが止まったように見えたりもする。
しかしその後は、確かに疲れるものであった。
「脳に酸素を送るため、心肺が継続的に少し早く動くんだ」
そのため地味に、疲労が蓄積して行く。
ランニングなどでずっと、心肺がそれなりの強度で動くのと、同じようなものである。
また山道を歩く、登山というのはそれだけ、足元が不安定である。
特に下山した後は、膝や腰への負担が、体重の重い人間ほど多くなる。
それを柔らかく受け止めるのが、肉体の柔軟性である。
足腰を柔らかく使えば、それだけ可動域も広くなり、ダメージも少なくなるのだ。
野球は三時間から三時間半ほどで、試合が終わる。
これは高校野球に比べると、かなり時間がかかっている。
それだけダラダラと続くようでもあるが、同時に集中力は長続きしなければいけない。
ゴルフの場合は1ラウンドに五時間ほどもかかる。
もちろんずっと集中し続けるのではなく、上手く緩めることも重要であるが。
高校野球とプロ野球の最大の違いは、そのテンポであろう。
技術面の違いは、もちろん当たり前だとして。
週に六日は試合をして、移動することも少なくない。
あとはタイタンズの場合、選手の扱いが他球団とは違う。
「そのあたりはガンとか、水上に付いていればいいと思うけど」
岩崎は今、二軍のピッチングコーチをしている。
あと悟は直史にとって、高校の後輩である。
タイタンズには他に、本多や井口といった選手も、入団している。
ただ純血主義というのか、タイタンズの監督は基本的に、タイタンズ一本でプロ野球生活を終えた選手しかなれない。
コーチでさえもその特徴があるが、最近ではそれなりに、他球団経験者もコーチにしている。
そのあたりのこだわりが、今は悪い方に出ているのであろう。
それに司朗はメジャー行きの意向が強い。
タイタンズ一本という人間からは、当たりが悪くなるかもしれない。
だが全ては、実力で黙らせればいいのだ。
そのためにまずは、最初の身体能力測定が重要になる。
野球は身体能力でやるもの、という思考が最近では主流になる。
正確にはもう、身体能力はあって当たり前、というのが正しいであろうか。
直史にしても体の柔軟性では、ほぼリーグ全体でトップである。
また指先の可動域なども、他のピッチャーよりも優れている。
最盛期は154km/hをコンスタントに出していたのだが、体格と体重からすると、よほど肉体を効率的に使っていたのだな、という評価になる。
直史としては下手に筋肉をつけると、上半身から肩の駆動域が、狭くなると考えていたのだ。
スピードは重要であるが、スピードだけなら普通に打たれる。
既に身体能力においては、司朗はほぼ全ての分野で、直史を上回っている。
たとえば球速なども、155km/hぐらいは出る。
しかし帝都一では、エースとしては投げなかったのだ。
外野ということもあり、基本的にコースは全てど真ん中ストレートを狙う。
キャッチする野手が一番、アウトを取りやすいところに投げるのだ。
その思考があると、キャッチャーの構えるストライクゾーンの、あちこちに投げるのが難しくなる。
なのでピッチャーとしては、二番手以降で投げていたのだ。
守備力だけでも相当に高い。
俊足とバネを活かして、広い範囲をカバーする。
そして強肩を活かして、タッチアップも防ぐのだ。
このあたりの動きはアスリート的で、躍動感が凄まじい。
元から父親も母親も、スポーツ万能ではあったのだ。
特に武史は、バスケットボールをやっていたので、体の使い方は高く跳ぶのに適していた。
直史としてはこの山道を歩くことには、特に体の一部分を鍛えることになっていると考える。
「ゴルフの教本を読んでいたんだけど、プロゴルファーはかなり走るらしいな」
これは心肺を鍛えるためであるらしいが、特にもう一つの意味がある。
「ふくらはぎを鍛えるためらしいぞ」
なぜにふくらはぎであるのか。
確かにゴルフスイングでも、野球のバッティングでも、そのあたりは重要な場所だが。
「理屈としては、脳が関係しているらしい」
ゴルフは運動強度はそれほどでもない。
しかし思考するという点では、他のどのスポーツよりも脳を酷使するかもしれない。
止まっている時間、また歩いている時間が多いからこそ、その間に思考し続ける。
その思考する脳には、血液が酸素を送り続けるわけだ。
試合をしながら補給食を食べたりもするし、またハーフを回ったところで食事をしたりもする。
それだけエネルギーをしっかりと補給し、そのエネルギー入りの血液を脳に送るのが、第二の心臓であるふくらはぎなのだ。
たとえば女子ゴルフのプロの大会を考えよう。
おおよそ6500ヤード、メートル換算で6kmとしよう。
これをコース間の距離も少し歩くため、一日に10kmは歩くと考えようか。
それを三日間か、四日間も続ける。
さらには練習日まであるし、予選の予選がある大会もある。
プロであるならプロアマ戦というのもあったりする。
つまり一週間で、60kmも歩かなければいけない場合がある、ということだ。
この間にずっと、コースの攻略について考える。
するとやはり、基礎体力が必要になるだろう。
大会の数にしても、日本女子プロゴルフの大会は、年に40回弱もある。
これに海外の大会に挑戦することまで考えれば、60kmかける40回と考えようか。
試合周りだけを考えて、2400kmを歩く競技。
他の競技でここまで、歩くことがあるだろうか。
それこそ登山のような、競技ではない分野になってくるだろう。
マラソンランナーであっても、走るのはともかく歩くのは別だろう。
そう考えると意外なほど、基礎体力の必要さが見えてくる。
またゴルフは、メンタルのスポーツでもあるという。
一番メンタルの影響するのがビリヤードで、二番目がゴルフだとか。
ゴルフの場合は、最高のプレイをしても、勝てるとは限らない。
突然の風のせいで、あるいは落ち葉が前をよぎったせいで、ミスショットになることもある。
そういった理不尽さに、耐えるだけの精神力。
野球であればピッチングや、バッティングでもプレッシャーはかかってくる。
だがゴルフの場合は、対人と言うよりは自分自身のプレッシャーだ。
まあそう考えたら、直史がかなりあっさり、アマチュアの上位者レベルになるのは分かる。
精密な動作という点では、大介や武史よりも、その傑出度は明らかであろう。
そしてプレッシャーへの強さも、当然と言えば当然だ。
失点への責任が、一番重いのがピッチャーである。
バッターは打てなくても、三度に一度打っていれば、充分な役割なのだ。
司朗はゴルフのスイングを、自分の練習の中に取り入れてみた。
すると意外なことが分かったのである。
ドライバーのような、長くて重心が遠いクラブは、見るからに振るのが苦しそうに見える。
だが実はパターを除いて短い、ウェッジと呼ばれるクラブの方が、何度も振っていくと重くなっていくのだ。
理屈がどうなっているのかは、ドライバーは重心が遠くにあるだけに、振るだけなら重力や遠心力を利用できるらしい。
だがウェッジはそれが出来ないから、むしろ苦しいのだとか。
バッティングのミートポイントよりも、クラブのミートポイントの方が、よほど小さしものである。
それを意識して、バットでの素振りも考える。
打ちやすいボールなど、来るはずがないと考えるのだ。
フォームを少し崩した状態から、どうやってスイングをしていくか。
昇馬のように、パワーだけで持っていくのか。
確かに司朗もパワーはあるが、上手く体を連動させて、バットを加速させるものである。
単打を打つのと長打を打つのと、スイングは二つが必要になる。
ホームランの打ちそこないがヒット、という考えは司朗には出来ない。
とにかくジャストミートを考えて、ヒットを確実に打っていく。
その中で特に打てた場合は、ボールが伸びてスタンドに入る、という考えにした方がいいのだろうか。
基本的にバッティングは、好球必打である。
しかし難しい変化球などにも、対応していかなければいけないのだ。
勝負所でしっかりと、打点を稼いでいくこと。
また打順によっては、まず出塁を考える場面も必要だろう。
大介に独占されている、打撃のタイトル。
その中で取れそうなのは、最多安打ぐらいか。
(考えてみれば名球会入りも、2000安打が条件なんだよな)
司朗は長打も打てるクラッチヒッターとして、キャンプ入りを目指すのであった。
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