第97話 0の記録
直史はレギュラーシーズン公式戦無敗という神話を持っている。
野球という集団競技において、こんな記録が残るのは、普通はありえないことである。
ただ全勝ではなく、無敗であるのだ。
引き分けた試合は少しあるので、そこが人間の限界なのだろう。
ただその甥である昇馬は、さらに上の記録を持っている。
高校入学以来、公式戦においては、無失点の記録である。
負けた試合は全て、他のピッチャーが失点したものである。
それさえなければずっと、白富東は無失点が続いていた。
関東大会においても、結局は完封勝利。
この時点で既に、センバツの出場は決まったと言っていいであろう。
これで残る今年の大会は、神宮大会のみ。
その神宮大会までには少し間があり、11月の中旬に行われる。
ただ神宮大会には、日程の問題がある。
トーナメントのどこに入るかにもよるが、連投が多くなる。
そうは言っても二連投までで、出場するのもわずかに10チーム。
三回か四回勝てば優勝なのだから、それほど厳しくはないだろう。
時期的にも甲子園と違って、夏の暑さで体力を消耗することがない。
もっとも11月は季節的に、やや寒さの方が目立ってくるが。
関東大会が終わってから神宮大会まで、二週間以上の間隔がある。
神宮大会は高校の部だけではなく、大学の部もあるのだ。
全国から集まってきたチームで、優勝を争う。
これは甲子園と違って、もちろん近畿のチームが有利ということはない。
むしろ東北勢が、それなりに強かったりもする。
季節的に寒さに強い、ということもあるのだろうか。
今回の白富東は、クジ運に恵まれていた。
三回勝てば優勝という場所に、トーナメントで決まったのだ。
もっとも初戦の対戦相手は、近畿代表の大阪光陰となっている。
父親たちとの世代と違い、あまり今の大阪光陰とは因縁がない。
昇馬たちの世代としては、これが公式戦での初対決となる。
鬼塚は神宮大会の後のことも、考えて予定を立てている。
一回戦から中二日で準決勝、そして決勝との連戦。
それが終わればじきに、練習試合禁止期間に入っていくのだ。
センバツ進出が決定するのは来年になってからだが、神宮大会に出場が決まっていて、センバツに出られないということはまずありえない。
野球部全体で問題行動があったりすれば別だが、今は昔と違って部員に何か問題があっても、それを野球部全体までに広げることはないのだ。
だいたい個人を謹慎させて、他のメンバーは甲子園へ。
そもそもかつてのように、野球部とは関係のない生徒の行動で、出場辞退というのもおかしな話だ。
連帯責任と言っても、限度があるのだ。
この時期の白富東は、わずかだが練習試合を組んでいる。
どうせ春までは当たらないのだから、県内の有力校も含めて、関東近隣のチームとの試合になる。
ただ東京代表は、神宮大会で当たる可能性もあるため、例外となっている。
大きく戦力の落ちた帝都一は、都大会で優勝出来なかった。
準優勝であったので、一応はセンバツに出られる可能性も、残ってはいるのだが。
ただそれは東京代表が、関東代表の白富東より、勝ちあがっていることがおおよその条件。
その東京代表の早大付属とは、勝ち進めば準決勝で当たる、というトーナメントになっている。
昇馬は関東大会の決勝以降に、また他のスポーツをしたりしている。
野球部員ではあるが、野球だけをしないのが、昇馬という人間だ。
そして幾つかのスポーツにおいては、本職をも上回ってしまう。
身長は195cmと、まだわずかながら伸びている。
たいがいの人間にとっては、見下ろす巨人となっているのだ。
ただ同じ学年に、2mオーバーの巨人がまだ二人いる。
瑞雲の中浜と、青森明星の中浦だ。
この二人は一年生の時点で、まだ成長していた。
だから成長痛のため、完全にはトレーニングを行えていなかった、と聞く。
完成度なら将典だが、ポテンシャルならこの二人の方が高いのではないか。
そう言われている二人は、今度の神宮大会にも出場してくる。
それぞれ四国代表と、東北代表である。
幸いと言うべきか、この2チームは反対の山で潰しあう。
そうは言っても他のチームも強いので、どこが勝つかは分からないのだ。
昇馬のように既に体が出来ているようで、それでも未だに成長中というのが、むしろ珍しいものなのだろう。
身長とウィングスパンを考えれば、昇馬もまだ球速が増加する余地がある。
少なくとも身長では、上杉や武史よりも上であるのだ。
神宮大会を終えれば、最後のシーズンに向けて、さらにパワーアップしていく必要があるだろうか。
ただこれ以上になると、さすがに真琴がキャッチできないかもしれない。
とは言っても他に、キャッチャーの出来る選手がいるのか。
アルトにしてもキャッチャーとしては、大きな不安が残るのだ。
最終的にはやはり、170km/hを目指すのか。
もっとも球速が全てではないというのは、昇馬の周囲で散々に言われている。
だが高校生レベルだと、この球威で完全に通用してしまう。
そこで満足してしまわないのは、昇馬のいいところであろうか。
野球に執着しているわけではないが、己の肉体を鍛えることには飢えている。
野球というスポーツを通じて、自分がどこまで出来るかを考えているのだ。
別に野球でなくても、今ならば日本の場合、バスケットボールもかなりの人気を得てきている。
サッカーのJリーグに比べると、参入の障壁が低いというのもあるか。
またNBAで通用する、日本人選手が出てきたから、という影響もあるだろう。
とりあえず関東大会で、ラスボスたるべき桜印は、準決勝で倒してしまった。
帝都一は司朗が引退し、それなりに戦力が低下した結果、神宮大会には出てきていない。
大阪光陰の次に当たるのは、北海道、九州、東京の代表校のどれか。
おそらくは尚明福岡か、早大付属のどちらかが、勝ちあがってくるだろう。
反対の山もそれなりに恐ろしく、瑞雲や青森明星以外には、昨年準優勝の上田学院もいたりする。
中部地方の超強豪、名徳も反対側にいるのだ。
「う~ん、神宮は本当に、弱いところは出て来ないなあ」
鬼塚はそう言うが、甲子園は意外と言うべきか、それなりに弱いチームもいたりするのだ。
県によって学校数が全く違うため、それも当たり前のことであろう。
北海道と東京は、それぞれ一つずつ。
東北は青森明星、関東は白富東、北信越は上田学院、東海は名徳。
近畿は大阪光陰、中国は明倫館、四国は瑞雲、九州は尚明福岡。
甲子園制覇をしているか、神宮大会の覇者であるか、それでなくとも超強豪ばかりである。
客観的に見て、関東を勝ち残った白富東が、今は一番強いと言ってもいいだろう。
大阪光陰も、全国上位の常連であるが、毎年優勝候補であった頃に比べると、ほんの少し落ちている。
夏の甲子園から、さほど時間も経過していない。
それでも高校生は、わずかな時間で成長するものである。
大阪光陰は主に、プロ注クラスのピッチャー三人で、近畿大会を勝ちあがってきた。
やはり選手を集めるという点では、強いチームなのは間違いない。
初戦でこの大阪光陰に当たるということ。
鬼塚は自分の経験から、相手を必要以上に強く見てしまっているかな、とも思う。
昇馬に投げさせるが、左右の腕で投げるイニングを変える。
これが大阪光陰にどれだけ通用するか、それを試しておきたい。
大阪光陰はまさに、高校野球の頂点とも言えるタイプの野球をしてくる。
それに通用するなら、他の相手にも積極的に使っていこう、という話になるのだ。
重要なのは三試合あるため、球数制限に注意すること。
だが三試合で500球というのは、充分すぎる数であると思う。
昇馬はこれまで甲子園を二度も制覇しながら、まだそのスタミナの底を見せていない。
だいたいのバッター相手には、抜いたボールでも三振が取れてしまうからだ。
将典と投げ合った試合でも、11回まで投げて148球。
この程度ならばまだまだ、スタミナには余裕がある。
そしてスタミナ切れになる前に、球数制限に引っかかるというわけだ。
どこかで一度、その限界を確認しておくべきなのだろう。
ただその限界というのは、単純に投げた回数で決まるものではない。
司朗との対決では、一打席だけでもそれなりに疲れている。
しかし実戦で試すのも、無理がある話だろう。
春から夏にかけての期間のどこかで、連投しておくべきであろうか。
だがそれが許されるのは、夏の甲子園が終わったタイミングぐらい。
つまりもう、終わってしまっているのだ。
引退してから試すにしても、どのチームを相手に試すのか。
春休みにはセンバツがあるため、試している暇はない。
いっそのこと冬に、海外で試してもらうか。
だが練習試合で試すのと、公式戦で試すのでは、また意味が違うようにも思う。
昇馬が野球を楽しみながらも、それに執念までを燃やしていないのは、限界を感じていないからであろう。
簡単に勝ててしまうものに、人は興味を抱き続けるのは難しい。
昇馬のためにも野球界のためにも、どこかで決定的な苦戦が必要だと思うのだ。
もちろん今までも、全てが楽勝だったわけではない。
だが司朗になんだかんだ打たれても、失点をしていないというのが大きいのだ。
高校の通算試合で0失点というのは、さすがにおかしな話である。
直史は大学時代に、そんな記録を残してはいるが。
数字で残った記録と、自分の実感とでは全く話が違うだろう。
監督としては間違っているのかもしれないが、指導者としてはやはり、昇馬に野球の難しさも知ってほしいのだ。
鬼塚は今年の夏も、甲子園に行っていた。
そのため中学生向けの、学校案内とは無関係である。
来年の一年生の話も、ある程度は聞いている。
県外の超強豪から声がかかるような、そういう選手はさすがに入ってこない。
今の一年生で言うなら、和真クラスの選手である。
ただ県内に加え、志望が可能な県外からは、それなりの有力選手が入ってくる予定だ。
もちろん体育科の、試験に通ったらという話であるが。
昇馬やアルトが卒業すれば、一気にチーム力は低下する。
ただ指導者の質と、練習環境を考えれば、確かに悪くはないのだ。
もっとも私立の強豪と違い、午後の体育をそのまま部活にするなど、無茶なことは出来ない。
それでも県内の有力シニアから、有名な選手が学校を見学には来ていた。
公立のチームであるのに、しっかりと野球部専用グラウンドがあるのだ。
加えてクラブハウスもあり、寮なども付属している。
もっともこちらは野球部専用、というわけではないが。
古くなっていた設備についても、昇馬たちの入学に合わせて、最新型になっている。
プロでも使っているような、計測器が備わっていたりするのだ。
白富東は基本的に、進学校なのである。
スポーツにも力を入れていて、野球以外でも弓道など、ややマイナーなスポーツで結果が出ている。
もちろん野球部が一番、力が入っているのは確かだ。
それでも体育科の入学枠は、野球だけに開かれているわけではない。
鬼塚は今のところ、目の前の神宮大会の対応で精一杯である。
ただそれが終われば、体育科の受験についても、対応して行くこととなる。
初期の体育科は完全に、身体能力メインで試験を行っていた。
だが今はある程度、学力のテストも重視している。
最低限もクリアできなければ、補習で部活動に参加できなくなるのだ。
その点では意外と言うか、昇馬もそれなりにテストの成績はいい。
英語や数学で点を稼いでいるが、国語はともかく古文や漢文は苦手である。
鬼塚は部長を務める教師や、校長や教頭との話し合いで、ピッチャーが入ってこなければ厳しい、とは言ってある。
この秋からは一年生を、何人もピッチャーとして使ってみて、短いイニングの継投で結果を出してもいる。
しかし結局のところ、核となるエースは必要なのだ。
どういうタイプのピッチャーでもいいが、重要なのはエースとして認められること。
せっかく鍛えてきた守備や打撃も、ピッチャー次第というところはある。
多人数のピッチャーというのは、今の高校野球でエース一人では、勝てないことを認めているからやっているのだ。
昇馬は例外的かもしれないが、球数制限のため負けている。
そしてアルトも真琴も、それなりの結果を出しているのだ。
基本的にこの時期だと、もう有力選手は行き先が決まっている。
シニアの選手などは基本的に、そのチームの監督の人間関係で、進路が決まることは多いのだ。
ただここで金の動きがあるのが、今の高校野球と言えるであろうか。
入学金や授業料免除、寮の費用も無料など、優遇される選手は徹底的に優遇される。
直史なども大学時代は、傭兵のように奨学金をもらって、野球をやっていたものだ。
鬼塚の頃と比べても、相当に選手の流れは変わってきている。
高校から直接プロに行く選手もいるが、大学を経由した場合もかなり多くなった。
これには一つは、企業の社会人チームが、少なくなったのも理由の一つであるだろう。
ただ独立リーグなども各地に存在し、選手が地元であったならば、そこでプレイすることもある。
大学や社会人と比べて、独立リーグのチームが優れていること。
それは翌年からまた、ドラフトの指名対象になることである。
もっとも今は育成でごっそりと、選手を確保する球団もある。
今はそのあたり、本当に過渡期であると言えよう。
とは言え鬼塚がドラフトされた時も、制度的な問題は移行期であったが。
最終的にプロを目指す、という選手は減ってきたかもしれない。
しかし大学から、野球派閥で企業に行く、というのも微妙な時代であろうか。
少なくとも白富東の場合、大学への推薦枠が多い。
また普通に授業でテストをしているため、学力は上がっていくのだ。
自分の人生にセーフティをかけるには、やはり学力というのは分かりやすい。
昔に比べると、人生一発逆転を目指す人間が、少なくなったとも言えるのかもしれないが。
鬼塚は実は、学力でもトップクラスであった。
だからこそ普通に、一般入試で入ってこれた、というのがあの時期である。
アレクなどの帰国子女枠とは、ちょっと違ったのである。
あの頃には体育科などもなかったのだから。
シニアのつながりを、鬼塚も持っている。
そして中には、甲子園に行くまでが自分の野球、と思っている人間も少なくない。
野球は高校で終わるが、甲子園には行きたいと思っている人間。
そういった選手も集めて、どうにかチーム力で戦っていくのだ。
(まあとりあえずは、神宮大会だよな)
チームの戦力の絶対値では、白富東はピッチャーがあまりにも隔絶している。
そのため他の部門では上回っていても、結局は点を取れないのだ。
もうここまで来たら、神宮からセンバツ、そして夏の選手権と、完全制覇を目指してみたい。
それは鬼塚が現役の頃も、達成したことであるのだ。
鬼塚の見るところ、昇馬は12球団全てが競合しても、おかしくないレベルの選手である。
またアルトも充分に、プロのレベルに達している。
一つ下の和真も含めて、この三人をちゃんとプロに届けてやること。
もちろん本人がそれを望まないのなら、話は別だが。
鬼塚は指導者として、最高の進路を示してやりたいのだ。
個人的には昇馬の左右両投げが、プロでどう扱われるのか見てみたい。
直史と話した時などは、右で投げて三日休んで、左で投げて三日休む、などという無茶苦茶な運用を聞いたりもしたが。
ただそれが現実で可能であれば、昇馬は上杉や直史が成し遂げた記録を、さらに更新する可能性がある。
しかもこれはピッチャーとしての力であって、バッティングも充分に有数のスラッガーのレベルなのだ。
(こいつがプロに行かなかったら、野球の歴史は変わるのかもなあ)
そう思う鬼塚の視線の先で、昇馬はボールをネットまで飛ばしていた。
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