第96話 契約

 日本のドラフトというのはかなり公平なシステムだとは言える。

 もっともそれは選ぶ側からの話。

 選ばれる側からすれば、自分の希望が通らないかもしれないのだ。

 職業選択の自由に抵触するのでは、と言われたこともある。

 だがこれはプロ野球という会社を選ぶという意味であって、球団がどこになるのかはどの部署に配属されるのか分からないのと同じようなものである。

 そういう点ではタイタンズは、昔はよく言われていたものだ。

 なにせ使える金が違った時代である。

 ただそれもどのチームも独立採算が取れるようになってきて、かなり変化してきている。

 タイタンズの場合はFAで獲得した選手が、衰えたらポイと捨てられるようなところもある。


 そもそもタイタンズが、司朗の獲得をしたのが、その時点で意外である。

 またスターズが指名を見送ったのも、これまた意外である。

 ただ球団内で、親子が揃ってしまうことを、むしろ恐れたのかもしれない。

 武史の性格的に、息子を贔屓するようなことはないだろう。

 そもそも首脳陣ではないのだから、その恐れは低かった。

 しかし周囲が一方的に、忖度することは考えられた。

 そのあたりが理由なのかな、と司朗としては自分なりに納得出来ていたのだ。


 タイタンズにしてもちゃんと、スカウトは何度も見に来ていたのだ。

 上の説得は難しいけど、なんとか指名出来るかも、というような感じである。

 会話程度はしていたが、それでも今のタイタンズの補強ポイントは、むしろ投手である。

 また司朗の条件についても、しっかりと伝えてあった。

「うちの球団じゃ無理かなあ」

 それがスカウトの最終的な言葉であったのだ。


 そのためタイタンズという選択肢はないだろうな、と思っていた。

 あんな選手層の厚い球団には入らなくてもいいだろう、と変に予防線も張っていたのだ。

 しかし最終的には、指名しただけではなく交渉権も獲得する。

 また行きたくないと言っていたわけでもないので、挨拶は普通に受けていた。

 ただその日の夜には、担当のスカウトから内情が聞こえてきた。

 どうやら編成やGMさえも超えて、球団社長の上、親会社の大物から鶴の一声であったらしい。


 タイタンズ生え抜きのスターを作りたい。

 今も悟が四番を打っていて、充分に立派な数字を残している。

 しかし今年の怪我を見て、さすがにもう年齢的にも厳しいと判断したのだろう。

 そもそも悟は、ジャガースから移籍してきた選手だ。

 女優と結婚したりして、そのあたりも派手に見えるが、本人は野球に堅実。

 あの体格であれだけ飛ばして、大介と比較されたこともあるのだ。


 しかし親会社の宣伝力なども考えると、やはり若いスター選手がほしい。

 それを考えるとやはり、投手ではなく野手と考えたのであろう。

『スカウトとの事前の話はしていたのか?』

「はい。そのあたりでギャップがあるかなと思って。伯父さんも契約する時、特殊な条件入れてたんですよね?」

『分かった。じゃあ次の時に同席しよう』

 そして直史が召喚された。




 タイタンズというのは他の球団にない、独自のルールを持っている。

 たとえば常に紳士たれ、というモットーのため、長髪、染髪、髭を禁止していたりする。

 そんなことを言っていたら、イスラム圏はどうなのだ、という話になってもくるが。

 なお刺青も禁止であり、外国人選手のタトゥーの場合は、隠れるようにアンダーシャツの着用を義務付けていたりする。

 別にこれは構わないのだ。

 司朗としてもあまり、髪型にこだわるタイプではない。

 幸いと言うべきか、母親の淡い髪色は受け継がず、普通に黒髪である。

 だがイギリス人の血が入っているため、顔立ちはやはり彫りが深い。

 子供の頃はこれで、ちょっと珍しいと思われたことはあるのだ。

 ニューヨークにいた頃はむしろ、全くどうにも思われなかったが。


 他にも30分前集合ルールなど、合理的ではない決まりがある。

 そんなに時間を無駄にするなら、他に出来ることがあるだろうに。

 まあ今はスマートフォンがあれば、色々と時間を潰すことが出来る時代だ。

 だからそういった点では問題はなく、まず重要なのがポスティングの件なのだ。

 生え抜きのスターを作りたいという球団側と、メジャー挑戦を視野に入れている司朗。

 当然ながらここは、意見が合わないわけである。


(俺は反対したんだけどなあ)

 担当スカウトとしては、遠い目をするしかないのである。

 当人ではなくその伯父が、ほぼ完全に交渉の権利を握っている。

 しかも本職?は弁護士であるのだから、契約や交渉ごとには強い。

 もっともタイタンズ側としても、25歳でのメジャー行きは仕方がないかな、とは思っていた。

 ただ生え抜きのままでいるなど、今のプロ野球界を見れば不可能に近い。


 そもそも司朗は子供の頃から、アメリカに住んでいた期間も長い。

 今も母の友人が英語圏が多いため、英語は普通に話せるのだ。

 なのでアメリカに対して、文化的な壁を感じていない。

 多くの挑戦者が文化や言語の壁を感じるのに対し、むしろ司朗は英語以外も話せたりする。

 これは家庭内での教育の賜物であろうか。


 こういった家庭環境から、プロに進めばその次には、メジャー移籍が当然と、本人は判断していたわけである。

 全てスカウトは聞いていたため、積極的には押していなかった。

 指名してから札束ビンタでどうにでもなる、と考えていたのは安易である。

 東京の松涛のお屋敷に住んでいる人間が、一億や二億で転ぶはずがない。

 武史などは一番高かった頃、インセンティブを含めて70億ほど稼いでいる。

 それに比べれば一億や二億、と金額の幅が違うのである。


 金では転ばない、ということはさすがに覚悟したタイタンズの編成陣。

 司朗は守備や走塁も含めて、トリプルスリーを達成するような選手になることを期待されている。

 パワーとスピードの両方があり、ケースバッティングも出来る。

 もう遺伝子の強さをこれでもか、と発揮しているような選手なのだ。

 これが今どきMLBに行かないというのは、むしろ無理があるだろう。

 悟の場合は奥さんの仕事の関係で、日本に残ったわけであるのだし。


 タイタンズもそこは、さすがに譲るべきと考えているようであった。

 25歳で七年目のシーズンでポスティングは、他の球団に行かれるよりはずっといい。

 だがそれを口約束で済ませようとするあたりに、直史は噛み付いたのである。

「口約束を信用しないのが、私の仕事ですので」

 完全に弁護士モードに突入し、そこからの交渉が始まった。


 また司朗の場合は、そもそも25歳になる前から、MLB移籍も考えていたのだ。

 金ではなく野球を取ると言ったら美しいかもしれないが、実家が太いために金の心配をしなくてもいい。

 それが正直な事実である。

 なのでここからが、交渉の本格化である。

 タイタンズはタイタンズで、親会社の大物も、そろそろ死ぬのではと思っていたりする。

 だから内密に契約書を作るのはいいかな、と編成では考えていたりするのだ。




 直史は自分の常識には従う男である。

 そしてその常識は、意外と一般常識とは離れていない。

 離れているのはその投手成績ぐらいであり、人間性としては常識の範囲内だ。

 もっとも田舎の長男、というところがかなり印象的ではあるが。

 それぐらいは強くないと、通用しない立場ではあるのだ。


 この場合、司朗が普通程度の成績しか残せないなら、むしろそれは構わない。

 やはりメジャーのスカウトが注目する選手になると、それが困るのだ。

 ただ日本の野手は、投手よりは評価されにくい。

 大介などがあの体格でメジャーに行ったのは、圧倒的な実績もあったが、セイバーのコネクションもあったのだ。


 直史は現役の選手なだけに、タイタンズの内情もよく知っている。

 なので意外とこのチームは、面倒なことになるかなとも思っているのだ。

 スター選手がFAになれば、積極的に取りにいく。

 それ自体は悪いことではないのだが、そのFA選手が不良債権化することもある。

 ただ一時的なスランプであっても、次を取ってくる。

 選手層が厚いと言えばいいのだが、生え抜きでなければ扱いが悪い。


 司朗はその意味では、生え抜きになる。

 ただ最初から、MLB志望ということも伝えてあるのだ。

 25歳でポスティング、というのは契約に入れられた。

 しかしその時までになんらかのタイトル、もしくはベストナインへの選出などを、3シーズン以上は達成していること、という向こうからの条件があった。

 タイトルなんて大介がいれば取れるわけがない、とは直史も司朗も思わなかった。

 なにしろ大介は、来年で43歳のシーズンになる。

 さすがにその頃には衰えているだろう、と思われたのだ。


 またベストナインやゴールデングラブの選出は、それよりも早く達成出来るかもしれない。

 なにしろ外野というのは、三人が選ばれるものであるのだから。

 直史はある程度の貢献を、チームに対してやってから移籍するべきだ、と思っている。

 自分は二年で移籍しているが、沢村賞やMVPなどに加え、タイトルも総なめにしていたのだ。

 チーム自体も二年連続で優勝していたため、充分な貢献度があったと思う。

 何も実績を残さずにメジャーに行くというのは、それこそありえない話である。

 このあたりは球団とも、普通に契約に入れることが出来た。


 タイトルやベストナインなど、そうそう取れるものではない。

 だが大介がいなくなれば、一気に取れるものであろう。

 次に考えるべきは、25歳以前の移籍の話だ。

 金銭的なことを考えるなら、それがいいのは分かっている。

 ただ制度というのは変わるものであるから、それも考慮して決めなければいけない。


 MLBは意外なほど、有名選手でもメジャー昇格は遅かったりする。

 それは人間の成長曲線や、肉体の頑健性の完成が、25歳ぐらいになっているからだ。

 とはいえ個人差があるので、今は一律にはせずに、早くから大形契約を結んでいる選手も少なくない。

 チームに貢献したならば、23歳でポスティングを認める。 

 これぐらいの期間は必要だろうな、と直史は考えた。

 自分は二年でメジャーに行ったが、そもそも年齢が違う。

 あとは契約の問題であるが。




 お互いの妥協点を探っている。

 即座に契約とならないのは、それなりにマスコミに勘繰られることとなった。

 また直史が口出ししていることも、自然と洩れてきてしまっている。

 よって契約難航、などの記事も出たりするのだ。

 実際のところはお互いの理解を深めて、ちゃんと進んでいるのだが。


 直史からすると、やはりタイタンズは面倒な球団なんだな、という印象になった。

 大上段に構えているところがあるが、それも幹部の話。

 しかしタイタンズがどうして低迷しているのか、それが分かった気もする。

 自縄自縛に陥っている、と直史には見えた。


 時代が変わっているのだから、タイタンズも変化するべきなのだ。

 ただ変わるべきところと、変わるべきでないところ、は存在する。

 担当したスカウト自身は、変化すべきだと分かっているのだろう。

 また交渉の前面に出てきた編成部も、それを感じていないわけではないらしい。


 結局は親会社や、タイタンズの過去の監督など、OBがやかましいということなのだろうか。

 確かにタイタンズは長く、ポスティングを認めていなかった。

 かなりの大金で、悟を引き止めたという経緯もある。

 もっとも悟としては、嫁さんの仕事の都合や、子供たちの環境もあって、そこまでMLB移籍を望んでいたというわけでもないのだろうが。

 それでも何度もトリプルスリーを達成した悟は、メジャーでも通用すると思われていたのだ。


 これが成功体験になってしまっているのかもしれない。

 メジャーではなく、タイタンズを選んでくれた、という負の成功体験。

 もっとも過去には多くの主力が、海外FA権を取って海を渡っている。

 ポスティングで稼ぐといっても、タイタンズは資金力が豊富である。

 だからこそ諦められない、というのもあるのだろう。

 ただメジャーに行けば年俸など、10億や20億は当たり前のこと。

 大介は年俸以外の収入もあったので、年間100億ぐらいは普通に稼いでいたはずだ。


 直史は自分の例も出せるが、さすがにそれは例外すぎる。

 しかし他の日本人選手については、当然ながら知っている。

 日本と違ってアメリカでは、年俸は公開されているからだ。

 日本も推定でおおよその年俸は明らかにされているが、実際にはどうかはあくまでも推定である。

 そしてアメリカのFAを取った普通の選手と、日本のトップ選手を比べても、アメリカの方がずっと高いのだ。


 こういった話をしていると、タイタンズとしても金で転ばせるのは難しい、と分かってくる。

 まったくもって今の首脳陣というのは、まだポスティングなどが浸透しておらず、そもそもメジャー挑戦がまさに挑戦とされていた年代なのだ。

 球団社長やオーナーなどになると、さらにその上の年代だ。

 かつては日本の年俸も、メジャーとそれほど変わらないという時代もあったのだが。

 そこはもうNPBとMLBの差と言うよりは、日本とアメリカの差と言ってしまえるだろう。

 もっとも今はNPBの放映権料も、かなり上がってきているのだが。


 大介がMLBから去って、向こうでは毎年タイトルを取る選手が変わっている。

 それだけに大介が、いかに異常なのか分かったのだ。

 その大介がいまだに、選手としてプレイしているリーグ。

 これを見ようとするアメリカ人が増えたのが、市場が拡大した一因である。

 またライガースだけではなく、レックスでは相変わらず直史が、毎年のようにパーフェクトをしている。

 この二人だけで、NPBの価値を高めている。

 逆にこの二人が引退したら、アメリカでの需要は低下するのかもしれない。




 どうにか契約は成立した。

 タイタンズが譲歩した形になったが、司朗が達成しなければいけないことも、かなり厳しくなっていた。

 23歳か24歳で、MLBに行くことも考える。

 それが司朗の方針である。

 そんなことをしてもあまり、金銭的な優位はない。

 ただ司朗はとにかく、自分に出来ることがあるならば、それを最大限してみたいという人間なのだ。


 契約においてはしっかりと、全てを書面で確認している。

 口約束などはいっさい信じないと、直史は考えている。

 もっとも日本の法律では、口約束でも成立する、という場合はあるのだ。

 そこで水掛け論にならないよう、しっかりと書面で残すわけだが。


 司朗にとってNPBというのは、人生におけるステージの一段階に過ぎない。

 長い人生を考えるとしたら、セカンドキャリアはもっと先に考えておくべきだ。

 もっともリスクやコストを考えれば、プロのスポーツ選手など目指すべきではない。

 目指しても大丈夫なのは、そこからリカバーが出来るほど、実家が太い人間である。

 昨今はスポーツ選手でも、単純な貧困層から抜け出す、というものではなくなっている。

 幼少期からの経験というのが、どれだけ重要なものであるのか。

 これこそ脳の運動を司る部分を、発達させるのに重要な部分なのだ。


 司朗が野球で成功しなくても、人生はまだまだ終わらない。

 そこからのキャリアというのは、進めていくべきなのだ。

 野球だけをやっていては、それを失った時に空っぽの人間になってしまう。

 大介ほど極めてしまえば、また話も違うのだろうが。


 息子の進路については、実父である武史は、特に口を出すことはなかった。

 ただ大学には行かないんだな、という程度のことを確認しただけである。

 司朗は祖父の養子となっているので、神埼姓になっている。

 そのあたりからも武史は、自分もこちらの家の人間、という意識があったりするのだ。


 しかしこれで、来シーズンは親子対決が成立するかも、ということになった。

 今年は故障で長く休んだ武史だが、それもシーズン終盤には戻ってきた。

 そして結局は12勝2敗と、立派な数字を残したのである。

 衰えてなお、今のNPBでは最速のストレートを持つピッチャー。

 契約が成立したからには、もう充分に一緒に練習をしてもいい。

 そうは言っても実のところ、ピッチャーとバッターではかなりメニューが違う。

 そのため司朗が頼りにするのは、やはり大介の方であるのか。

 またプロの生活を考えるのならば、直史の方を頼りにしてしまう。

 あまり実父には期待していないが、失望もしていないのが司朗であった。

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