第92話 理不尽な存在

 野球は一人では出来ないスポーツだ、というのは当たり前の話である。

 だが高校野球レベルでは、ほとんど一人で勝ってしまうことが出来る。

 それでも甲子園ぐらいになると、やはり一人では勝てないし、それどころか県大会でも一人では勝てない。

 そうは分かっていても、昇馬のピッチングは圧倒的であった。

 そして白富東のチャンスも、昇馬の周辺から出てくるのだ。


 一人で投げて、一人で打つ。

 プロでもそんな試合が、ごく稀にある。

 昇馬の場合はそれが、ごく稀なわけではない。

 ホームランとまではならないとしても、打点を稼いでいく。

 高校通算のホームラン記録は、さすがに大介に及ばないであろう。

 だが公式戦のみに限れば、及ぶ可能性が少しはある。


 重要なのは本数ではなく、誰からどんなシチュエーションで打ったか、ということ。

 県大会の序盤で、無名のピッチャーから打ったとしても、それはおかしなことではない。

 だが甲子園で、一人で投げて一人で打つ。

 一年生の夏から、それはほぼ変わらなかった。

 そういった成績を残した他の選手は、上杉が一年の夏で準決勝まで勝ち進んだ。

 そのカリスマ的なピッチングを見て、近隣の選手が集まってきたのだ。


 春日山は上杉の影響が消えた今、普通の公立校としての実績しか残していない。

 だがそれも仕方のないことなのだろう。

 一人の人間が、あまりにも大きな影響を残しすぎた。

 そしてその子供も、父の名声の影響下にある。

 将典はなんだかんだ言いながら、そのプレッシャーは分かれている。

 柔道をやっている兄が、父の後継者であることは間違いない。

 ただ野球ファンは、上杉の息子ということで、将典を見ている。 

 その意味ではプレッシャーのかかる、不運な生まれであるのかもしれない。


 二世選手は成功しにくい。

 もっとも直史のところは、真琴が女子であるので、なんとも言えないものはある。

 それに女子野球の中ならば、真琴は充分に傑出しているのだ。

 実のところ直史は、野球をやらせるべきではなかったかな、と思ったりもしている。

 真琴の身体能力であるならば、テニスでもさせていた方が、よほど成功したであろう。

 ただ真琴が、野球以外のスポーツでの成功を、望んでいたとは限らないが。

 父に憧れて始めたのだと言われれば、親として嬉しくないわけがない。

 なんだかんだ反抗期めいたものはあったが、それも含めて子育てというものだ。


 比べると大介や武史のところは、それぞれ別の道を歩んでいる。

 長男は共に野球をやって、司朗はプロに向かう。

 ただその妹たちは、母方の影響を受けたのか、主に音楽の分野の才能を発揮しているようだが。

 大介の子供たちは、全員が身体能力に優れている。

 長女の里紗はバレエを真剣にやっている。

 双子の次女と三女は、ダンスをしながらも色々な部活に借り出されている。

 そして一番プロフェッショナルに近いのは、四女の百合花であろうが。


 二世選手の大成功例となるのか。

 少なくとも司朗の残している実績は、甲子園にい挑んだ歴代のバッターの中でも、特に上位に位置するものだ。

 ただそれすらも上回っているのが昇馬なのである。

 ピッチングでは無双し、バッティングでもスラッガーとしては司朗に並ぶ。

 この素材をどう育てるか、鬼塚は頭を悩ませたものだ。




 桜印との対戦においても、昇馬はまだ一人の力で戦っている。

 もちろん本人は、バックがいてくれるからこそ、ピッチングの幅が増えていると言える。

 三振をどれだけ取ろうと、必ず打ってくる選手はいる。

 昇馬の165km/hは、単純に速いだけではなく、浮かぶぐらいのホップ成分があるのだ。

 ツーシームとストレートの組み合わせだけで、本来はゴロなどを打たせてもいい。

 チェンジアップを持っているからこそ、ストレートはより活きる。

 かつてはカーブとストレートのコンビネーションだけで、一時代を築いたピッチャーもいたものだ。


 野球は進化している。

 縦の変化が主流の今だが、横の変化もあった方がいい。

 さらに緩急をつけるため、チェンジアップも必須である。

 こういったボールに関しては、ピッチトンネルを通すという工夫も必要だ。

 昇馬はそれをやっているが、変化球としてはスプリットもほしいなと思っていたりする。


 昇馬は自分が、完全無欠のピッチャーだとは思っていない。

 また同時に、バッティングにも課題が残っていると思っている。

 プロの世界に行ったならば、まだまだ凄い選手がいるというのは分かる。

 だが理解するのと実感するのは、また別の話。

 なにしろ子供の頃から、本物の超一流に触れていたのだ。

 たいがいの一流に対しては、既に耐性がついている。


 将典のピッチングは、日本の高校生の中では、特別に優れていると思う。

 一つ上のピッチャーや、二つ上のピッチャーは、知る限りではそれほどでもなかった。

 確かに昇馬の年代は、昇馬と将典以外にも、既に150km/hを投げているピッチャーがそれなりにいる。

 昇馬の世代と言われるのであろうか。

 上杉世代というのはあったが、白石世代というのはない。

 それはSS世代と呼ばれているからだ。


 両者の対決はそのまま、世代ナンバーワンの決定戦である。

 だが既に有識者は、どちらが上かということは、はっきりと分かっているだろう。

 直接対決ではほとんど、昇馬の方が勝っている。

 負けた試合は昇馬が、怪我で投げられなくなった試合のみ。

 またそのピッチング内容も、ピッチャーの能力としては重要であろう。

 将典も充分に、怪物と呼ばれるのには相応しい。

 しかしそれ以上のピッチャーが、同世代に一人いたというだけなのだ。


 球速で上回り、コントロールでもおおよそ上回っている。

 球種に関しては、互角といってもいいであろうか。

 奪三振能力で、大きな違いがある。

 だが将典も普通に、一試合に15個ぐらいは三振を奪うのだ。

 昇馬が20個ほども奪うのが、異常すぎるだけだ。


 それでも重要なのは、エースとしてのチームを背負う姿。

 将典は間違いなく、エースの中のエースである。

 比べてみれば昇馬のありようは、エースというものではないのかもしれない。

 とにかくたった一人で、試合を決めてしまうというもの。

 マウンドの上に君臨する、王とでも言えばいいのか。




 他の世代であれば、怪物と呼ばれてもおかしくないのが、将典である。 

 また将典以外にも、怪物に相応しいピッチャーがいる。

 ならば昇馬はどう呼べばいいのか。

 怪物の中の怪物。

 あるいは怪物の王。

 グラウンドの一番高い場所から、バッターを睥睨するその姿。

 確かにこれは、怪物の王と言えるのだろう。


 事実上の決勝戦、とこの試合は言われている。

 そして桜印は少しでも昇馬を削るべく、選手たちが粘ろうとしている。

 だが粘れたとしても、一球程度。

 緩急をつけられてしまえば、どうしてもスピードボールに対応していけない。


 この怪物から、司朗はクリーンヒットを打ったのだ。

 桜印の打線陣も、意地になって塁に出ようとはする。

 しかし前のめりになりすぎると、内角のボールに腰が引けてしまう。

 その次に外角に投げられれば、どうしてもスイングが遅れて届かないのだ。


 スピードだけならば、慣れることが出来る。

 実際に桜印は、165km/hの出るマシーンで、スピード自体には慣れつつあったのだ。

 だが昇馬はしっかりと、変化球も投げてくる。

 チェンジアップは空振りばかりになるが、それでも140km/hは出ていたりする。

 昇馬の弱点というのは、遅いボールがまだ速い、というぐらいであろうか。


 直史は150km/hのストレートと、90km/h以下のカーブを持っている。

 対して昇馬が投げるのは、遅いカーブでも130km/hは出ている。

 130km/hなどというのは、真琴の最高球速であったりする。

 これよりもさらに遅いボールを投げられるようになれば、昇馬のピッチングの幅は、より広がっていく。

 カーブではなくても、より遅いチェンジアップでもいい。

 それを身につけられたら、昇馬のステージはさらに一つ上がる。


 この昇馬に対して、中盤に入っても桜印は無安打。

 ただ覆いかぶさっていたようなバッターに、一つデッドボールを与えていた。

 そのためパーフェクトは途切れているが、関東大会でノーヒットノーランは続いている。

 桐生学園相手には、コールドのため成立していなかった。

 だがここでならば、正式なノーヒットノーランが成立するかもしれない。


 そしてこの投手戦は、やはり一発で均衡が崩れた。

 昇馬の三打席目を、なんとか外野フライで抑えた将典。

 だがたった一打席で、消耗していたのは確かだ。

 次のアルトも長打はあるが、昇馬ほどではない。

 そう考えて安易に、変化球から入ってしまった。


 ボールのスライダーから入ったはずだった。

 しかし指先の感覚が、昇馬との対決でわずかに鈍っていた。

 内よりに少し、ゾーンの中に入ってきたスライダー。

 左打者のアルトにとっては、打ちやすい球になったのは間違いない。

 バックスクリーンぎりぎりに飛び込んだホームラン。

 これによって白富東は、一点を先制したのであった。




 桜印の早乙女は、自分の甘さを痛感している。

 それはこの試合にも、一番の強打者である鷹山を、四番バッターとして置いてしまったということだ。

 昇馬の投げる試合は、フルイニングの試合であっても、三打席しか打席が回ってこないことが多い。

 だからせめて、二番バッターに置くべきであったのだ。


 たったの一点のリードである。

 高校野球では相当のピッチャーでも、一点ぐらいは普通に取られる。

 上手く打たせて取ることによって、球数の節約を考えたりするからだ。

 ドラフト候補のピッチャーであっても、甲子園では普通に一点や二点は取られるものだ。

 それなのに昇馬は、一点も取られないのである。


 圧倒的過ぎるスピードのストレート。

 また落差のあるチェンジアップに、緩急をつけるためのカーブ。

 変化としてはスラーブが、かなり曲がってくる。

 そしてツーシームで、打ち損じを狙う。

 160km/hオーバーが手元で動けば、それはもう対応のしようがない。

 プロならばこれが打てる選手がいるのか、と絶望的な気分になったりもするものだ。


 真琴は桜印のデータを調べて、上位打線の攻略法は考えてある。

 もっともこの上位打線は、一年の秋あたりから既に、スタメンに入っている選手が多い。

 つまり夏の時点から、三年生が引退したのに、さほど戦力が落ちていないのだ。

(なんだかんだ言いながら、うちもそこそこは球数を投げさせることが出来ている)

 真琴のパワーならともかく、聖子はよほどミートしなければ、ヒット性の打球にはならない。

 しかしボールを見極める選球眼は、それなりに優れたものがあるのだ。


 将典が優れたピッチャーであるのは、この試合の終盤でも明らかであった。

 九回を迎えてもなお、球威が落ちていなかったのだから。

 桜印も二番手や三番手のピッチャーが、いないわけではない。

 だが白富東の上位、特に昇馬を抑えるのが、難しいことは明らかであった。

 そして将典にしても、昇馬を抑えるのには体力も気力も使いすぎてしまう。

 なので四打席目には、ついにヒットを打たれてしまったが。


 重要なのは点を取られないことだ。

 アルトに和真と、他の強豪のピッチャー相手でも、確実に点を取ってきた打線。

 しかし一発を打たれて以降、将典はしっかりと二人を封じている。

 白富東は確かに、昇馬を中心としたチームだ。

 だが完全に昇馬の、ワンマンチームではないのである。




 一点が重い。

 それでも桜印は、ヒットを全く打てないというわけではなかった。

 昇馬の変化球に、上手く合わせるバッティングはあったのだ。

 それでもなかなか、クリーンヒットとはいかなかったが。


 桜印の監督早乙女は、これをどうやって来年の夏、攻略するのかを考える。

 ここまで何度となく敗北し、偶然の勝利を勝利とは考えない。

 だからこそ昇馬から、点を取る方法を考えるのだ。

 何か上手く、球数を投げさせる方法はないものか。

 あるいは上手く、決勝までに向こうが、消耗していたりはしないだろうか。


 他力本願な作戦は、作戦とは言えない。

 セットプレイを考えて、スクイズなどで点が取れないか。

 だが昇馬のボールは、下手にスクイズなどをしても、失敗する可能性が相当に高い。

 ただスクイズをした時に、ボールを外すという行為は、あまり出来ないだろうと思う。

 キャッチャーである真琴の、身長や構え方。

 そこからは大きく外れたボールに、飛びついてキャッチするということが、上手く出来るとは思えないのだ。


 ピッチャーではなく、キャッチャーを攻略すべきなのか。

 確かにキャッチャーから、サインがしっかりと出ている。

 このリードの傾向を見て、そこから狙い球を絞るべきか。

 だがそんなことぐらいは、これまでに何度となくやってきたし、他の学校もやっていたであろう。

 それなのにまだ、点が取れていないのだ。


 まずはこの、無失点記録を、どうにか止めなければいけない。

 他力本願であるが、それが止まってようやく、まともな作戦を立てることが出来るようになるのだろうか。

 早乙女の見守る先で、試合は終盤から決着に入ろうとしている。

 代打を試してみても、おそらく打てないことは間違いないだろう。

 だが球速対策に特化した代打も、桜印にはいるのだ。


 そんなバッターさえ、昇馬を打つことが出来ない。

 これだけ打てないということは、いったいどういうことなのか。

 もちろん球速もあるが、それだけではない。

 色々と測定もしているが、果たして本質的なものはなんなのか。

(一点も取れないのは、ちょっとおかしすぎるぞ)

 昇馬の高校野球生活は、ピッチャーとしては圧倒的過ぎるものである。

 もちろんバッティングでも、超一流のものではあるが。

 九回の攻撃も、もう終わろうとしている。

 試合の流れが変わる兆候は、全く見えなかった。

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