第87話 先に行く
白富東が当たり前のように県大会優勝を決める前に、神奈川では桜印がそれなりの苦労をして、優勝を決めていた。
おおよその県の優勝校より、神奈川ベスト8の方が強い。
そう言われるぐらいに、神奈川は強豪の多い県である。
それでも特に強さを維持しているのは、東名大相模原と、横浜学一の二校であろう。
桜印は上杉将典に合わせて、選手を獲得してきた。
それが一年目から甲子園に出場して、翌年のスカウトはかなり楽になったものだ。
もっとも本当の別格の選手というのは、中学の二年生ぐらいからほぼ、進路が決まっていたりする。
完全な一級品などというのは、そうそう集まるものではないのだ。
何かしらの理由があって、分かりやすい名門に入れなかった、という選手を集めたのだ。
ただ本当の一級品であれば、どうにかして調教しようという、そんな監督もいたりする。
昭和の時代であれば、不良で野球だけが出来る、という選手を上手く使っていたりした。
そもそもその時代などであれば、戦場帰りの人間などがまだいて、下手な不良などよりもよほど恐ろしかったのだ。
今の指導者はもっと、論理的に考えている。
選手の自主性とは言いつつも、利口な子供を集めている。
確かに今の野球は、フィジカルモンスターを集めるアスリート競技になりつつある。
だが同時に、それを掌握する知性も求めている。
考えすぎて悪い方向に向かうこともある。
大介などは地頭はいいだろうが、基本的には感覚派のプレイヤーだ。
昇馬もそれと同じか、それ以上に感覚派で、野生型のプレイヤーと言えるだろう。
チームの総戦力で言えば、やはり桜印の方が上回る。
桜印でなくとも、日本中に白富東以上のチームは、たくさんあるであろう。
だがそれでも一人のピッチャーが、相手の打線を封じてしまう。
高校野球のレベルではあるが、それが通用してしまっているのだ。
関東大会は千葉県開催。
白富東の他に、トーチバと東雲が出場を決めている。
トーナメントは先にクジを引いて決定する。
基本的に各県の一位同士は、最初には当たらないようになっている組み合わせだ。
開催地である千葉県の優勝校、白富東は一回戦がシードの位置に。
あとは桜印がどこに来るかで、試合の難易度が変わってくる。
県大会から関東大会までの間に、二週間ほどの間隔がある。
そろそろもう本格的に、夏の気配は消えていくのだ。
野球部だからといって、野球ばかりをしているわけではない。
学生の本分は学業であるが、昇馬は勉強もしていないわけではない。
母方の血統としては、間違いなく頭脳も明晰なのだ。
父親としても直感に頼ることが多いだけで、頭自体が悪いというわけではない。
またワールドカップまで優勝して、同年代の最高の選手とまで言われれば、学校でも色々と向こうから絡んでくる。
アルトと一緒にいることが多かったが、それなりに友人などがいないわけでもない。
女子の中では昇馬を、将来のスーパースタートして狙っている生徒もいる。
けっこう勘違いされることもあるが、昇馬は女嫌いだとか、女に興味がないわけでもないのだ。
ただ相手が勝手に、昇馬が凄すぎると思って、近づきがたいだけで。
事務的な話はするが、野球部内の真琴に聖子、そしてエレナぐらいとしか長い話はしない。
まあ本当にそんなつもりであれば、それでも積極的に関わっていくだろうが。
白富東の生徒は、価値観が独特の人間が多い。
自立心が旺盛であったりもするので、男に依存していたりもしない。
もちろん普通の価値観の人間もいるが。
昇馬は人間の世界で生きるには、ちょっと能力も人格も逸脱しかけている。
まだしもこの世界にいられるのは、家族や学校、野球というつながりがあるからだ。
特に野球で知った顔を喜ばせるのは、なかなかに楽しい。
甲子園やワールドカップよりも、県大会などで見知った顔が多くスタンドにいると、それだけで充分になるのだ。
いわゆる社会的な成功のためには、自分の野球の能力を活かすのが、いいのだろうとは分かっている。
自分のやりたいことが決まっているわけではない。
強いて言えば何かを、決めてしまうのが嫌なのである。
ただ自由に生きるというだけなら、それは無責任なことでもある。
高貴なるものには義務が存在する。
ノーブレス・オブリージュとも呼ばれるものだ。
昇馬は別に貴族でもなんでもないが、やれることがとにかく多い。
優性な遺伝子に、恵まれた環境。
そこで自分のやりたいことと、どう折り合いを付けていくかが問題なのだ。
一番周囲が期待してくれているのは、野球での成功なのは間違いない。
それに応えることも、別に嫌というわけではない。
だがここまで、自分と対等に戦えるような選手が、ほとんどいなかった。
鬼塚としても、既に今の時点で、NPBで通用するとは言っていた。
しかしそれはスペックなどの能力的な面だけであり、シーズンを通して戦うとなると、また違ったメンタルが必要になってくる。
直史や大介が引退した後、NPBを盛り上げる存在が必要だ。
ただ司朗なども、親世代との勝負が出来なくなれば、MLBに移籍する予定である。
昇馬としてはとりあえず、一度はプロを経験するのもいいかな、という程度のことは考えている。
人間に必要なハングリー精神。
昇馬は豊かではあるが、飢えてはいる。
その飢えを満たすものが何か、いまだに分からない。
ただ飢餓感を忘れた瞬間も、確かにあったのだ。
また、甲子園に行かなければいけない。
あの大舞台であれば、少なくとも昇馬を一時的に満たしてくれる。
その延長にプロがあるなら、試すぐらいはいいであろう。
期待はずれであったなら、また違う目的を探せばいいだろう。
ただそれにいつまでも、時間をかけているのも、人生の無駄遣いになるかもしれない。
子供が将来のために、その選択を伸ばすのは、いいことなのかどうか。
人間がいくらでも人生をやり直せる、ということとはまた別の話である。
何かを極めようと思うならば、やはり若いうちからの習得が重要となる。
それは妹たちを見ている昇馬も、ちゃんと分かっているのだ。
スポーツ新聞を中心に、司朗の志望が公開されていた。
ポスティングを容認する球団を中心に、出来ればレックス以外のセ・リーグチーム。
ただ最悪パ・リーグでも構わない、というものだ。
つまり福岡はアウトになるが、それでもチームの方針を変更して、司朗を指名するかどうかの選択肢は残されている。
そしてもしもこの条件を球団が飲まないのなら、司朗は一年野球浪人をする覚悟までしていた。
その間はアメリカに行って、マイナーの球団のテストなどを受けてみる、とも宣言したのだ。
志望の球団以外に指名された場合、大学や社会人に進む、という手段は確かにある。
だがそれをやってしまうと、四年か三年、指名されなくなってしまうのだ。
過去には高卒や大卒で、一年間野球浪人をして、希望の球団に入るという選手もいた。
ちなみにこれをやった場合、前年に指名した球団だけは、翌年の交渉権の獲得が出来ないのである。
とりあえず指名して、札束で頬を叩いて落とす、という手段もかつてはあった。
たとえば六位指名の選手の方が、一位指名の選手よりも、契約金や年俸が多い、という例である。
しかしここで司朗は、ずっと隠していた事実を公開する。
武史との親子関係をである。
札束で黙らせようにも、司朗は完全に金に困らない人生を送っている。
親が金持ちなだけではなく、色々なところの権力ともつながっているのだ。
25歳にポスティングをするという契約を結ぶことを了解して、ドラフトで指名をするかどうか。
ここは案外福岡も、検討の余地があるのだ。
もっとも司朗はここで、何歳の時のポスティング、ということは言わなかった。
多くの選手は25歳以上でポスティング移籍をしているが、それはMLBのシステム的に、それ以下であれば年俸が安いからである。
そんな安い年俸であっても、司朗としては親の世代が引退したら、MLBに移籍することは考えている。
MLBに適応するには、出来るだけ早い年齢で行った方がいい。
またおそらく一番長く現役を続けられそうな、直史でもあと三年ぐらいが限界ではないか。
ただ昇馬がNPBに入ってくるなら、また面白い話にはなる。
司朗も金に困ってはいないが、金がいらないというわけではないのだ。
NPBとMLBの違いについて、司朗はよく分かっている。
正確には父や伯父たちから、よく説明を聞いているのだ。
年間の試合数が、NPBよりも多い。
それなのにシーズンの期間はほぼ同じで、つまり休める期間が少ないのだ。
まずはNPBのシーズンで、完全にフルシーズンを戦えるぐらい、余裕を持った体力づくりが必要になる。
プロとアマの一番の違いは、基礎体力などとも言われているのだ。
司朗は高校野球の最後の春に向けて、冬の間に基礎的な体力をかなり鍛えた。
そのため長打力も上がって、よりその価値は上昇したのである。
それでも高校野球とプロ野球では、公式戦の数が圧倒的に違う。
ここでまずフルシーズンを、余裕で戦えるぐらいの体力をつけるべきだ。
そうすればMLBでも、ある程度の結果は出していける。
逆に言えばフルシーズンを楽々戦い、そして高いパフォーマンスを発揮できなければ、MLBで活躍するのも難しいということだ。
司朗のこの宣言に、スカウトは編成と話し合って、どうアプローチをするのかどうかを決めなければいけない。
そもそも競合指名になるのは分かりきっているので、いっそのこと他の選手を取るのはどうか、という話でもある。
レックスの場合は頭を抱えていた。
直史と真剣勝負をしたいから、レックスはお断りだと、最も強いルートから言われてしまっているのである。
あとは父がいるにもかかわらず、スターズとも対戦したいから、などということまで言っている。
つまりセの4チームとパの6チームが対象なわけだ。
しかしポスティングの問題を考えると、パは5チームになるのだろうか。
福岡はずっと決めている方針を、変更するかどうかに迫られている。
今年のピッチャーには、素材枠で取りたい選手はいても、競合一位指名というレベルの選手はいない。
だがピッチャーの足りない球団は、一位でピッチャーを確実に取っていきたい。
外れ一位でもそれなりにいいピッチャーは取れるかもしれない。
だが他のチームもそう考えれば、競合している間に取られてしまうかもしれないのだ。
あとはポジションの問題もある。
司朗は外野を守っており、特にセンターで広い守備範囲を誇っている。
外野がかなり埋まっているチームであると、せっかくの主力をコンバートすることになるのか。
そのあたりも考えると、外野のどこかに組み込めないチームは、司朗を指名する必要性が低くなる。
内野もそれなりに守れるのは、ピッチャーの練習もしていたからだ。
しかしやはり公式戦では、ピッチャーをやらない時は外野を守っている。
球団としては色々と考えているが、世間としてはどうしてこれまで隠していたのか、ということも考えられる。
わざわざ母方の姓に入ってまで、父との関係を隠したのか。
それは日本のプロ野球では、二世選手の成功が少ない、というあたりが理由になるだろうか。
公開して騒がれているのを見ると、確かに隠しておいてよかったな、という話になる。
本人への取材はまだ高校生ということもあり、なかなか難しい。
しかしそうなると、今年のシーズンが終わってしまった、父親に対する取材となってくる。
武史は比較的鷹揚に、取材を受けていた。
野球というスポーツは本当に、教えたがりが多いスポーツである。
司朗の血統と才能を見て、色々と教えたがる人間が出ては困る。
そもそも本人も中学までは、長打力もあるアベレージヒッターであったのだ。
完全にピッチャーの武史とは、適性が違うのは明らかであった。
司朗の才能を変に曲げないように、シニアでも高校でも、信頼出来る人間に任せたのだ。
周囲の雑音も心配であった。
事実、帝都一は甲子園後の国体を制して、司朗はまたそこでホームランを打っている。
国体が終わるまでは公開したくなかった、というのはチームを騒がせないためにも必要であったのだ。
また本人はあまり部に出ることはなく、外部のトレーニングセンターで練習をするようになっていた。
もしも契約条件が上手く成立しなかった場合、アメリカに行く用意もしている。
西海岸を中心に、メジャーの傘下のチームへ、野球留学をするという準備だ。
セのチームはかなり興奮している。
直史を打てるかもしれない、佐藤家の血統を持つ者。
実際に高校では、最後の春から夏だけで、多くのホームランも打っている。
甲子園でもその通算打率は、六割をオーバーしているというもの。
さすがに大介の記録は、更新することが出来なかったが。
この情報が明らかになると、ワールドカップに出場していたメンバーは、なるほどなと頷いたものである。
司朗と昇馬の関係は、従兄弟同士というわけであったのだ。
ならば親しくても不思議ではないし、兄弟のような感覚も分かる。
ただ二人の持つ雰囲気は、そこまで似通ったものでもなかったが。
そもそもポスティングで選手を出すことが多い、セパの両リーグのチームは司朗の獲得に積極的である。
FAで移籍されるよりも、ポスティングで売り飛ばす方が、よほど球団の利益にはなる。
もっともこれだけ期待されていても、その期待に応えられない選手というのはいる。
競合の多かった選手でも、普通に一軍ではまともに活躍できず、引退ということはあるのだ。
それでも司朗の野球は、アスリートタイプの野球。
よほど育成に失敗しない限りは、即戦力になるのではと見られている。
出来ればポスティングで出したくはないな、と思っているチームもある。
しかし若いスーパースターの誕生は、今のNPBには必要なことであるのだ。
上杉がメジャーに行かなかったため、NPBは彼を中心に動いていた。
タイタンズも悟をFAで獲得し、人気がある程度は回復したのだ。
上杉は去り、悟も来年は40歳のシーズンとなる。
また既に故障していて、全盛期ほどの力はなくなっている。
だから新しい顔を必要な、タイタンズも獲得を狙っている。
金持ち球団は即戦力など、助っ人外国人かFAで獲得すれば、それでいいことだと考えているのだ。
この点ではなんだかんだ言いながら、自前での育成を考える福岡とは、別と言っていいだろう。
出来れば生え抜きの選手にしたい。
それに東京出身であるのだから、タイタンズやレックスであると、地元の人気も獲得することが出来る。
レックスに関しては、ちょっとお断りされているのだが。
司朗の場合はもっと単純に、イケメンであるという理由もある。
女性人気獲得のために、毎試合出場する野手がいてほしい。
なんとも不純な理由であるが、そういう層を狙った獲得も、ドラフトとしてはあるのだ。
地元であることや、選手にアイドル性を求めるという点では、タイタンズが一番熱心であろうか。
だがどれだけ熱意に差があろうと、一位指名をすればあとは、クジの運がものを言うだけ。
これが来年であったなら、もっと選択肢は多かったであろう。
しかし今年はもう、司朗の動向が注目されている。
各種スポーツ新聞は、球団の一位指名の多くを、飛ばし記事で書いたりもする。
ただどのチームからも欲しがられる、という点では本当に、司朗の価値は高いのである。
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