第85話 孤独な世界

 ピッチャーというのは孤高の存在である。

 野球においては最も、その試合における責任が重いポジションだ。

 メンタルが弱い人間がこなすには、ものすごく難しいものである。

 その点では昇馬にとって、さほど問題のないポジションだ。


 ピッチングは一番、ボールに触れることが多い。

 野球の一連のプレイは、ピッチャーが投げるところから始まるのだ。

 昇馬はこの孤独な作業が、一人きりのものだという独善を抱いているわけではない。

 キャッチャーがいて初めて、バッテリーとして成立する。

 ただキャッチャーがどう言おうと、打たれる責任はピッチャーにある。

 もちろん完全にリードを、キャッチャーだけに任せるなら別だが。


 昇馬のピッチングはアメリカ式である。

 アマチュアにおいては普通、ピッチャーがどう投げるのかを決めるのだ。

 日本のようにキャッチャーがリードすることも、ないわけではない。

 だがもうMLBであると、ベンチから配球が決められている。

 その通りに投げるのだが、もちろんピッチャーのコントロールはそこまで万能ではない。


 またデータ分析の結果というのも、それを上回るキャッチャーのリードには、まだ勝つことは出来ない。

 本当ならば判断能力だけなら、コンピューターの方がもう、人間よりも上を行っている。

 たとえばほぼ完全な思考の競技である将棋は、AIの方が人間よりも読む。

 チェスの場合はさらに、それより前から攻略されてしまっていた。

 さらに選択肢が多いのは囲碁であるが、これもまたAIの方が強い。

 それなのにどうして、野球ではキャッチャーの頭脳のリードが、AIを上回ることがあるのか。

 簡単な話である。

 データを取得しきれていないからだ。


 ピッチャーの対戦する相手のバッターが、今日はどういう調子であるのか。

 最適すぎる分析からの指示では、相手もそれに対処するだけだ。

 バッターボックスの中のバッターの、リアルタイムの情報というのは、AIが判断出来るものではない。

 また人間の個体ごとのこだわりなど、状況によって変化して行く。

 経験という名のデータの蓄積、キャッチャーのリードがAIを上回ることはあるのだ。


 またピッチャーのその日の調子も、キャッチャーが最も把握している。

 あるいは本人以上に。

 そのためバッテリーというのは、お互いの間に信頼関係が成立していないといけない。

 昇馬にとって真琴は、能力ではなく人格や関係性で、信頼している存在だ。

 もちろんキャッチャーの技術も、充分に立派なものであるが。


 それと比べて高島は、初めてのまともに組めるキャッチャーだといっていい。

 昇馬の全力のボールを、しっかりとキャッチしている。

 試しにほどほどに外したボールを投げても、しっかりと飛びついた。

 またそれをちゃんと見抜いて、強烈な返球もしてきたのだ。

 少なくともプロの世界には、これよりも優れたキャッチャーが何人もいる。

 他の二人のキャッチャーも、打撃力に振っていたり、あるいはリードが高島以上であったりするが、昇馬のボールを捕るだけならば捕れる。

 それでも高島が、昇馬との相性は一番である。




 このピッチャーにとっての味方は、もちろん味方の野手全て。

 しかしピッチングで語り合う味方は、キャッチャーのみである。

 あとはバッターボックスに、次から次へと敵がやってくる。

 昇馬のストレートであっても、それなりに当ててくる。

 甲子園の中でも、かなりの強打者や巧打者の範疇に分類されるものだ。

 そういった存在を、全て叩きのめして、昇馬はここにいる。

 少なくとも対戦したバッターの中で、司朗以上の者はいなかった。


 同年代では圧倒的。

 それでも昇馬が油断はあっても、慢心することはない。

 自分の全力に対しても、父は平気で打ってくる。

 公式戦ではないし、キャッチャーとの配球もしてはいないが、ゾーンのボールならほとんど打ってくる。

 親殺しというのは世界共通のテーマの一つ。

 例え話であって、父親を乗り越えるというのは、男の子にとっては一つの通過儀礼だ。

 ただプロに入って公式戦で大介と対戦するとしても、昇馬が勝つよりも早く、老いが大介を衰えさせる。


 衰えた父の代わりに、自分は何をすべきか。

 野球の世界というのは確かに、世界的に見て大きな市場となっている。

 だが昇馬は野球をしながらも、このスポーツがどんどんと、金持ちや時間持ちの娯楽になっていることに気付いている。

 妹の百合花などは、さらに高価な娯楽に手を出した。

 もっとも彼女は彼女で、自分の思い通りにならない世界が、むしろ面白いと思っているらしいが。


 野球というスポーツは今のところ、昇馬にとって簡単すぎる。

 もちろんキャッチャーなどがいなければ、成立しないものであるのは分かる。

 ただ自分以外の味方の力によって、自分が負けてしまうというのは、あまり気持ちのいいものではない。

 個人競技のテニスなども、昇馬にとっては適したスポーツなのだろう。

 パワーにクイックネス、スタミナにテクニックと、かなりの運動量が必要となる。


 しかし昇馬は他人に見られるようなスポーツなら、他の誰かと一緒にやりたいな、と思う人間なのだ。

 孤独なスポーツをするのなら、それこそ登山でもしていればいい。

 とりあえずの目標として、エベレストの踏破なども考えている昇馬。

 色々なことを出来る背景を持つだけに、その選択肢は広がっている。

 こういった何か一つに絞れないということが、今は逆に野球に応用出来ている。

 ただいつかは、野球だけに人生を捧げた、執念の人間に敗北するかもしれない。

 今の昇馬だとそれでも、仕方がないかなで済ませてしまう。

 それぐらいの価値しか見出していないのだ。


 アメリカにいた頃は、バスケットボールもやっていた。

 190cmあって野球選手の中では、相当の巨体である昇馬。

 しかしバスケットボールの世界なら、中学生でも既に2mに達している選手もいる。

 そういった選手にはスピードと、クイックネスで勝負していたのだ。

 あとは巨体相手でも、パワーでは負けない。

 そんなパワーがあるのに、バネでも負けないのだ。




 昇馬の異質さは、直接の付き合いが深い司朗を除けば、高島が一番感じている。

 野球のボールを投げている、という感覚ではないのだ。

 その球質に関しては、軽い時もあれば重い時もある。

 直接ミットで受けてみて、どうしてここまで打たれないのか、ようやく分かった。

 スピン量が変化しているのだ。

 基本的には高スピンであるが、ずっとそればかりというわけでもない。


 ただ速いだけのストレートと、高スピンのストレート。

 だいたいその二つにギアを分けているピッチャーはいないでもない。

 昇馬の場合は確かに、同じくギアが変化したりする。

 しかしそれ以上に、スピン軸の変化がある。

 バックスピンとライフルスピン。

 おおよそはこの二つがスピンの違いであり、普通はバックスピンを求める。

 それがかからないボールが、自然とライフルスピンとなるのだ、

 これが完全にライフルスピンとなると、ジャイロボールとなる。


 昇馬は意識的に、これを投げ分けている。

 だが三振を取るのは、この二つの投げ分けだけでは不充分だ。

 緩急と変化球で、上手く使い分けているのを隠す。

 キャッチャーならばもちろん、この違いは分かるが。

 普通のピッチャーでも、やっている投げ方の違いであるのだ。


 高島もまた、プロを目指してはいる。

 だが高卒からすぐというわけではない。

 打てるキャッチャーというのは、すぐにコンバートされてしまう傾向がある。

 それだけ日本のキャッチャーは、育成に時間がかかるし難しい。

 ならばキャッチャーとしての、圧倒的な実績を積むべきだ。

 そのためにまずは、大学に行くのだ。


 三回の攻防が終わって、日本はランナーを出したが、台湾はまだ無出塁。

 そして四回の表、日本は司朗の前にランナーを出すことに成功する。

 台湾はピッチャーを既に交代していたが、この継投策というのは案外失敗する。

 どんなピッチャーであっても、それなりに調子が悪い時はあるのだ。

 外で勝負して、歩かせてしまっても構わないほどの強打者。

 それが分かっているなら、ホームのアドバンテージを活かして、もっと外に投げるべきであった。


 司朗がボール球を打たないのは、確実に打てるとは限らないから、というだけではない。

 それをすると他のチームメイトを信じていないのでは、と思われてしまうからである。

 だがここでは既に、試合前から木下が、台湾側のピッチャーのピッチングを予測していた。

 そのため司朗はここで、ボール球を打っていくことが出来たのだ。

 スタンドにまでは届かなかったものの、フェンス直撃のツーベース。

 そしてランナーが帰って、日本がまず先制したのであった。




 一点あれば充分な試合、というものはある。

 少なくとも昇馬のストレートに、二打席だけで対応するのは難しいようであった。

 また昇馬もここで、三振ばかりを狙うわけではない。

 105球まで投げられても、確実に台湾打線を抑えられるとは限らない。

 ある程度は打たせて取るピッチングをして、余裕を持っておかなければいけないのだ。


 三打席目が回ってくる、上位打線相手には力で完全に抑え付ける。

 台湾代表がどのように、アジャストしてくるか分からないからだ。

 下位打線を少ない球数で制圧し、上位打線用に球数を抑える。

 このあたりはバッテリーと共に、監督やコーチ陣が考えたものだ。


 上位打線が完全に抑えられて、台湾のピッチャーたちも、パフォーマンスを発揮するのが難しくなっている。

 まさにこれこそ、ピッチングが最高の攻撃と言える所以。

 味方が点を取ってくれないのに、いや、取れる兆候がないのに、パフォーマンスを発揮し続けられるピッチャーは少ない。

 なので日本は、二点目を追加したのだ。


 本当に化物なのか、と思うのは高島である。

 当初の予定通りに、相手の打線を抑え続けている。

 これまでの試合は、短いイニングを投げるだけのものであった。

 だが普通のピッチャーの限界とも言える、100球近くになってもまだ、パフォーマンスの落ちる兆候が見えない。


 一応はリリーフのピッチャーも準備はしていた。

 昇馬はそれを見ても、気にしたりはしなかったのだ。

 何が起こるのか分からないのが、野球というものである。

 かつては怪我をしてしまって、マウンドを降りたこともある。

 だから控えに準備をさえておくのは、当然と考える。

 この思考の冷徹さは、高校球児のものではない。

 一応はコーチ陣なども、これを頭では理解しているだろう。

 しかしキャッチャーの高島は、昇馬の投げるボールからそれを、実感しているのだ。


 打たせて取るピッチングをすれば、ある程度はヒットにもなる可能性が高い。

 だがそのおかげで昇馬は、全力のストレートを上位打線に使っていける。

 変化球でもしっかり、空振りを奪えるという状態。

 アジャストするには7イニングだけでは、絶対に足りない。

 日本の高校のチームがどれだけ、昇馬を打とうとしているか。

 それに比べれば台湾チームの持っている情報は、まだまだ少ないと言えた。


 高島としても昇馬を、どうやったら打てるかと考えていた一人。

 それを逆に応用すれば、昇馬をどう活用していいのか、という話になってくる。

 昇馬が投げれば勝てる。

 この決勝はつくづく、それを感じさせるだけのものであった。




 一人のピッチャーが、同じ時代でこれほど突出したというのは、過去には上杉ぐらいであろうか。

 直史もまた、一人で試合を勝たせるピッチャーではあった。

 奇跡のような試合も残したが、それでも高校の時点では、昇馬の方が上であると言えないだろうか。

 上杉ともほぼ等しいが、サウスポーの分だけ上回る。

 それが昇馬の評価であろう。


 スカウトが見に来たのは、あくまでも今年の指名選手たち。

 また他の国であっても、特にアジアの国ならば、日本に来てもいいと考える者がいるかもしれない。

 そう思っていたのだが、ピッチャーに関しては結局、昇馬が一人で持っていってしまった。

 あとはバッティングであるが、この試合数で六本という、とんでもない長打力。

 ピッチャーとして使うのか、バッターとして使うのか、来年のドラフトが今からもう、気になっているスカウトが多い。


 ただとりあえず一致したのは、やはり野手では司朗一択、ということであった。

 ピッチャーは少なくとも、高校生からは一位指名はない。

 大学生や社会人の、一流ピッチャーをどう評価するか。

 言うなればこんな大会は、どうでもいいとすら考えるスカウトもいる。

 むしろ小さな故障などで、参加しなかった方が昇馬と比べられず、幸いであったのかもしれない。


 日本代表は3-0で決勝を勝利。

 昇馬は7イニングを、一人で投げ抜いてしまった。

 この短いイニングの間に、奪った三振の数は14個。

 まさに圧倒という形で、チームを優勝に導く。

 だが本人にとってみれば、何かを得たというわけでもない。


 少なくとも一つ上の学年には、司朗ぐらいしか勝負になる相手はいない。

 これならまだ甲子園の方が、色々と細かい作戦が多かった。

 優勝をしておきながらも、昇馬には特に喜びはない。

 それでも高島とハイタッチをして、皮肉な笑みを浮かべる程度のことは、しているのが昇馬であった。

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