第79話 広がる舞台
足の怪我をおしながら、最後の校歌から閉会式まで、戦友の肩を借りて参加した真琴。
それは映像的には美しく、感動的なものとなった。
だが今の時代は、いちいちケチを付ける人間がいるものだ。
怪我をしている選手を、どうして代えなかったのかという論調である。
大手のマスコミはさすがに、これは美談のように飾り立てた。
しかし怪我のことが分かると、一般人がSNSから声を上げたのだ。
馬鹿な話である。
その程度のことは、鬼塚も分かっていたのだ。
選手の将来のことを、鬼塚が考えていないはずもない。
だがこの夏を、キャッチャーの交代で敗北などすれば、真琴は一生己を責めかねない。
もしも真琴のやっているのがテニスなどで、彼女がプロを志望しているのなら、もちろんやめさせたであろう。
しかし甲子園の、しかも決勝は別なのだ。
高校球児が、甲子園にどれだけのものを感じているのか、果たして分かっているのか。
どうせと言ってしまうとなんだが、真琴はプロに行けるわけでもない。
それならば彼女でなければ後逸の恐れが高い、昇馬のボールを誰に受けさせるのか。
一応はアルトがキャッチャーの真似事をしていたし、県大会の序盤などなら通用しただろう。
しかし桜印は、急造キャッチャーの穴を絶対に突いてきたはずだ。
そして三年のキャッチャーでは、昇馬の全力ストレートは、やはり捕れない。
勝っても負けても、色々な形の非難が出てくることは予想していた。
だが最後まで真琴は、足を引きずることはなかったのだ。
ならばその覚悟を、肯定してやるのも指導者の役目ではないか。
もちろんそれでは負けると思ったら、即座に交代を告げたであろう。
実際のところ、閉会式から甲子園の医務室で診てもらうと、即座に専門の医者にかかれと言われてしまった。
そしてよくちゃんと歩けたね、とも言われてしまったのだ。
ただの捻挫と言うが、捻挫を甘く見てはいけない。
今回の場合は靭帯が、わずかだが断裂していたのだ。
それを少なくとも、2イニング隠し通した。
真琴の負けず嫌いな性分は、明らかに父親譲りである。
ギプスまではしないが、テーピングでガチガチに固める。
そして松葉杖まで使って、千葉に戻ることになったのだ。
去年も昇馬とバッテリーを組み、白富東を優勝に導いた。
今年も決勝打となる一点は、真琴のヒットから始まっている。
そして両軍通じて、ホームに生還したのは真琴のみ。
こう考えると彼女がいなければ、白富東は優勝出来なかった、という論調になりうる。
ただこれを美談として、残すわけにはいかないのだ。
「監督失格です」
鬼塚はそう言って、いくら真琴がちゃんと歩いて見せたとはいえ、負傷部位を確認するべきだった、とマスコミ相手には言う。
女でもあんなことをやってのけたんだぞ、という前例になってはいけないのだ。
真琴も自分をヒロインにしようとするような、そういう誘導には乗らない。
「少しでも足を引きずってるのを見られたら代えられるのが分かっていたので、必死で我慢しただけです」
アマチュアの無茶なプレイに対しては、とことん厳しく非難するのが父の直史であったりする。
もっとも直史自身は、マウンドで倒れるまでピッチングしているので、あまり説得力がない。
色々と言われる直史であるが「それはお前だけだ」「お前と誰かを比べるな」と言われる方が「お前が言うな」よりは言われる回数が多い。
直史はこの件に関してコメントを求められた時、その立場は娘に対して否定的である。
「満足なプレイが出来ない負傷をしたら、その場で交代するべきだ。自分じゃないと出来ないなどと考えて、監督に状態を隠すなどあってはいけない」
ヒロイン誕生路線のために、娘を庇う意見を期待したが、直史はばっさりと切った。
「こんなエゴイスティックな選択が美化されて、以降の高校野球に残らないよう、我が家でもしっかり指導しておく」
こんな厳しいことを言ったが、お前も倒れるまで投げたよね、と年配の記者は普通に内心で突っ込んだ。
真琴としても帰郷前に、こんな直史の言葉を聞いていたので、どれだけ怒られるかを内心でびくびくしていた。
だが実際に家に帰ると、直史は珍しくも穏やかな声で言ったのだ。
「頑張ったな」
おそらく無理をしなくても、白富東の有利で試合は進んだろう。
ただあの決定的な機会を逃しては、流れが変わってしまうのが高校野球だ。
「俺でも同じことをしただろうが、人前では絶対に誉められないからな」
直史の本音である。
直史はもう、高校で野球は終りでいい、と考えていた人間なのだ。
高卒の時点では、まだ素材枠として下位指名か、などと考えていた球団も多い。
大学でも奨学金や学費無料など、そういった条件がなければ早稲谷には行かなかったし、野球も同好会にでも入っただろう。
フィジカルなどでは岩崎の方が上だし、同年代には160km/hを投げる大滝などがいた。
直史の細さを考えれば、一年ぐらいは体作り、と考えたスカウトがいてもおかしくはない。
大学入学時の直史の球速は、MAXで144km/hであった。
もっと楽に勝てるようにと、それで球速を伸ばしたが、コントロールが安定しなくて困った試合もある。
本来の予定であれば、地元の公立大学に進学しよう、と考えていたのが直史である。
なので野球に根性論を復活させてはいけないし、無茶なプレイによる怪我を美化してはいけない。
それが直史の、現在のスタンスなのである。
千葉県の秋季大会は、九月の中旬ごろから開始される。
三週間ちょっとの時間があって、真琴は全治二週間と診断された。
まあ本格的な断裂であれば、そもそも体重をかけられなかっただろう。
ただ足首をというのはキャッチャーにとって、重要な部分である。
ここが上手く動かなくなると、キャッチャーとしての能力全体が落ちる。
また足首はピッチングにも影響してくる。
しっかりと治すのはもちろん重要だが、そもそも第二捕手を完全に作るべきなのだ。
キャッチャーというのはそうそう、簡単に務まるポジションではない。
アルトにしても、そこそこは練習試合などで組んでいるが、キャッチャーとしての総合力は低い。
むしろ今回の件で、鬼塚は他の選手をキャッチャー兼任にすべきか、と考えた。
それはショートの鵜飼である。
鵜飼はいわゆる旧式キャッチャーのような、どっしり感が全くない。
もっともそれを言うなら、真琴だってそうなのだ。
彼は当て勘がないというのか、バッティングは全く期待できない。
だがボールを捌くセンスというのは、確かに一年生からショートを守っているだけのことはある。
シニア時代から、左には打つなと言われるほど、その守備範囲は広かった。
白富東の一年生は、それなりの選手が和真以外にも入ってきた。
だが使えるピッチャーはもちろん、キャッチャーもいなかった。
これはもちろん、昇馬の相手が出来るか、という基準である。
ピッチャーに加えてキャチャーも、今は身体能力が優れた選手が、守るようになって来ているポジションである。
鵜飼は守備の時も、ショートという内野の要を守っている。
だからフットワークなども、優れているのは分かっている鬼塚だ。
「いや、勘弁してください」
鵜飼としては自分をめがけて、160km/hオーバーのスピードボールが投げられるというわけだ。
打球の速度でもそれだけのものは、そうそうあるわけではない。
ファーストやサードであれば、バントにチャージした時に、バスターで自分にボールが打たれることもある。
だがショートは前進守備をしても、真正面からボールが襲い掛かるわけではないのだ。
「無理かあ」
「出来ると思うけどなあ」
鬼塚は嘆息し、真琴は首をひねる。
だが真琴にしても、付き合いが長いからこそ、昇馬のボールに慣れたというところはある。
昇馬のボールはあまりしっかりとキャッチすると、手の皮膚が裂けてしまうのは確かだ。
真琴は体を柔らかく使って、それを上手く逃がしている。
そのため実は昇馬のボールは、傍から見ていると少し遅く感じる。
キャッチャーのミットを鳴らす音が、小さくなっているからだ。
普通のピッチャー相手なら、ミットを鳴らす音は大きくした方が、ピッチャーはいい気分で投げられる。
だが昇馬にはそんなことを気にするほど、神経が細いところはない。
ただ大介や直史も、普通にキャッチすることは出来たりする。
いくら鍛えても真琴は、筋肉の量が根本的に違う。
上手く衝撃を逃がさなければ、キャッチするのは厳しいのだ。
それでもアルト以外にも、第三キャッチャーは必要である。
鵜飼はしぶしぶキャッチャーのプロテクターを装着したが、確かに少し遅めのストレートならキャッチ出来た。
なんだかんだ練習では、バッティングピッチャーで昇馬のボールを見ているのだ。
しかしMAXのストレートは無理である。
だがそれならそれで、抑えたストレートを使って上手く、バッターを打ち取ることを考えればいい。
「打たせて取る、か」
意外なことに前向きな昇馬は、ストレートでバッターを打ち取ることに、もう慣れてしまっている。
そんな昇馬に対して、またも変なところからの要請が来たのである。
これがワールドカップへの召集であった。
昇馬はこういったものに、全く興味がない。
現在のワールドカップU-18というのは、八月の終盤から九月の序盤に、行われる日程となっている。
前提となる代表合宿などにも参加していない昇馬だが、今回の場合は甲子園の後に、三年生のピッチャーで故障者が数名出た。
昔からこのU-18というカテゴリーは、高校三年生で構成するのが慣例である。
もっともその例外が、昇馬の父の大介であり、真琴の父の直史であるのだが。
わざわざ学校を休んでまで、なぜに海外に行かなければいけないのか。
ただかつてはアメリカで決勝が行われるのが常識というのが、直史や大介の時代であった。
しかしここのところは、アジアで大会が行われるのも、珍しくなくなっている。
WBCと違ってこのワールドカップは、さほど注目されていないといのと、金にならないのがアメリカ主催でない理由だろう。
本当ならWBCにしても、一番たくさん優勝している、そして施設も整っている、日本でやる方がずっといいであろうに。
ここのところは大介が、年齢を理由に参加していないこともあり、意外な国が優勝していたりするのがWBCである。
それでもここまでの優勝回数は、日本が一番多いのだ。
またこのU-18の枠は、あまり日本も勝てていない。
これは日本の場合、二年生以下は秋季大会の日程に重なる場合が多いのと、三年生は甲子園で燃え尽きている場合が多いからだ。
今年は特にピッチャーが、甲子園で燃え尽きて小さな怪我などをしている。
そのため千葉県の大会の日程も見て、参加出来そうな昇馬に声がかかったというわけである。
日の丸を背負う、ということに全く意義を感じないのが、昇馬という人間である。
そもそも人間の社会において、個体として強力すぎるのはある。
もちろん生活のうえで、人間の文明の恩恵を受けてはいる。
リベラルな思想を持っているわけではないが、なにしろ日本で育った期間が短い。
それでもアメリカよりは日本かな、という程度には過ごしやすいと感じている。
学生はまず勉強をすべきである。
直史のそんな考えを、昇馬は受け継いでいる。
ただ部活動もまた、一つの勉強にはなるか、と考えて野球をやっているのが昇馬の感覚の落としどころ。
だが年代別の日本代表に入って、さほど観客も入らないという試合に、出るという感覚が分からない。
「そうは言っても、一度ぐらいは一緒のチームでプレイしてみないか?」
説得というほどでもないが、そう昇馬に声をかけたのが、従兄の司朗である。
また今回の大会は、行われるのが台湾である。
さほど遠くもないということで、今さらアメリカにまで行くのもな、と考えていた昇馬は少し考え直した。
昇馬は日本に帰国する以前から、自分の責任で試合に負けたことがない。
自分が怪我をしてしまったのも、自分の責任というなら、桜印には負けたことになるが。
甲子園でも完全に、孤高の存在となってしまった。
投げれば普通に20個ほどの三振を奪うし、勝負してもらえばホームランも簡単に打ってしまう。
司朗には確かに勝ちきれないところがあったが、それは団体競技としては仕方のないところ。
重要なのはチームが勝つことで、それに関してはピッチャーの貢献が大きい。
昇馬はそれなりに前向きになった。
確かに司朗と一緒のチームで、本気の野球をやってみるのもいいかな、とは思えたのだ。
だが重要な問題というか、気になる点もある。
「確か国際大会って球数制限が厳しいんじゃなかったっけ? 俺が参加してもあんまり投げられないような」
「いや、確かに球数制限は厳しいけど、7イニングで終わるからな」
これを聞いたら過去の選手は、驚いたかもしれない。
かつてはこのカテゴリーの国際大会も、9イニング制であったのだ。
しかし今は7イニングであって、八回からはタイブレークとなる。
日本の高校野球は確かに、そこそこ前から甲子園も、7イニングに短縮しては、という声があったりした。
だが国際大会の方は既に、7イニングに短縮されているのである。
確かにシニアならば、日本の試合も七回までだ。
だが高校野球はコールドを除けば、ちゃんと九回まで戦うのだ。
最近はピッチャーの消耗が激しく、継投が当たり前ともなっている時代。
甲子園のない他の国は、未成年のアマチュア野球など、7イニングで充分と考えているのだろう。
実際に9イニングの甲子園で、あちこち故障者が出ているのだし。
また国際大会であるが、普通にコールドもある。
この7イニング制への移行の理由としては、野球のオリンピック競技の正式種目への復活が目的であるとも言われる。
何がと思うが、それは高校野球をやっている人間から見れば、分かりにくいだろう。
だが甲子園とプロ野球を比較すれば、言われてもなるほどと納得するかもしれない。
それは競技の試合時間が、長くかかりすぎるということだ。
日本のアマチュア野球は、特に高校時代までは、さっさと試合展開を早くするように、審判からも言われている。
実際のところダラダラしたチームに対して、不利なジャッジをするという傾向は間違いなくある。
日本人はさっさとするのが当然、と考えているので高校野球の試合時間は比較的短い。
これが短く終わるから、プロ野球よりも好きだ、という高校野球ファンさえいるのだ。
ちゃんと戦術などを考えていると、試合時間が三時間を超えるのが当たり前になる。
だが甲子園を見れば、延長にでもならない限り、そんな試合はあまりない。
攻守交替も全力疾走、というのが高校野球である。
なるほど、日本の野球は違うのだな、と昇馬は改めて感じたりした。
「それで、どうする?」
「まあ一週間だけなら、参加してもいいかな」
少なくとも日本の国内では、昇馬はほぼ無双とも言える強さを発揮している。
しかし昇馬にわずかだが興味を持たせたのは、明史が調べて言ったことだ。
「アメリカにはしょーちゃんより速い球投げる高校生いるからね」
あまり野球に対して、執着などはしていなかった昇馬。
だが自分よりも優れた選手がいるというなら、それはちょっと対決してみたい。
アメリカ時代は特に、全米規模の大会になど出ていない。
国土の広さゆえに、高校以下の試合となると、あまり積極的でもないのがアメリカなのだ。
もっとも選手育成については、ちゃんとしているのがアメリカという国だ。
ただ少年期から、野球に人生を捧げるようなプレイヤーは、トップレベルでも少ない。
故障のリスクや成長の打ち止めを、ちゃんと考えている者が多いからだ。
昇馬以上の球を投げるピッチャーがいる。
ならば司朗以上のバッターもいるのではないか。
野球に対する執着は薄くても、本能的な闘争心は持っている昇馬。
世界に向けて昇馬の目が、本格的に向いたのがこの時点であった。
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