第78話 大きくて小さい

 真琴は最初から、片膝を立ててキャッチするのを、ランナーのいない状態では行っていた。

 だがツーストライクになったり、ランナーが出た場合は、完全に膝を地面につけるような状態にはしていない。

 その膝の部分を上手く使って、ボールをキャッチしたり送球したりと、ちゃんとした「キャッチャー」が出来るようにしていたのだ。

 足首を捻ったことで、確かにそういった動作はしにくくなっている。

 だからもう昇馬のピッチングに頼ってしまうしかない。

 もっとも昇馬は昇馬で、真琴がちゃんとリードするなら、普通に投げ切れるだろうと思っていたが。


 ここまでヒット一本に抑えているのだ。

 あと2イニングを抑えるのは、不可能なことでもないはずだ。

(球数も使っていいし、もう全力を出してもいい)

 準決勝まではとにかく、過去の失敗を繰り返さないことを意識していた。

 怪我をしたことも間抜けではあったが、それよりも致命的であったのは球数制限だ。

 

 今日はもちろんまだまだ投げられるし、準決勝では念のために真琴が投げた。

 あそこはちょっと、アルトの方が良かったのでは、と昇馬は思っている。

 なぜならピッチャーライナーなどで真琴が負傷したら、今日のキャッチャーが出来なかったかもしれないからだ。

 もっともそれを言えば、充分に余裕のあった状況は、昇馬が完投してもよかった。

 今日は球数も充分余裕があり、体力にも問題はない。

 この先の試合もないので、全力で抑えていけばいい。


 五番から始まる打順、昇馬は相変わらず160km/hオーバーを投げる。

 そしてここでまた、165km/hを決め球に持ってくるのだ。

 八回に至ってもまだ、スタミナには何も不安がない。

 むしろここからが集中して行く場面だ。

 先頭打者を三振で打ち取り、真琴は普通にボールを返球してくる。

 ランナーさえ出さなければ、キャッチャーの負担は最小限で済む。


 真琴としても足首は、ズキズキと痛いだけでなんとか動く。

 これが踏ん張れなかったりしたら、さすがに交代をしたであろう。

 秋季大会までに治ってくれればそれでいい。

 これまでの怪我などから比べても、おそらく長くて二週間あれば、充分に治癒すると思う。

(それにしても)

 六番に入っていた将典に対しても、三振で打ち取る。

(ここまで来てまた、球威が上がってるような)

 165km/hのMAX自体は上がっていないが、ミットを揺るがす力は強い。

 スピンか何かが、上がっている部分はあるのだろう。


 七番打者に対して、代打を出してくるだろうか。

 ベンチの鬼塚もキャッチャーの真琴も、可能性は低いだろうと考えていた。

 桜印には確かに、バッティングだけに能力を振ったような選手が、二人ほどいる。

 またスタメンと比べても遜色のない、守備力の持ち主もいる。

 だがそれを使うとしたら、九回の裏だ。

 ツーアウトから使ってしまっても、得点に結びつく可能性は低い。




 たったの一点である。

 ほんの一点の差であるが、これが縮められない。

 三者三振で終わった桜印は、九回の守備へ。

 比較的相手をするのに楽な打順であるのだが、将典はそのままマウンドに立った。

 ここで完全に白富東を三人で終わらせて、最後の攻撃への勢いをつける。

 その狙いは上手くいって、三者凡退で白富東の九回の表は終り。

 結局ここまで、休み休み5イニングしか投げていないのに、将典の球数は100球を超えていた。


 最終回、桜印は八番からの攻撃。

 当然ながら代打攻勢を仕掛けてくる。

 三年間、あるいはそれよりもずっと前から、甲子園を夢見てバットを振ってきた者たち。

 総合力でスタメンにはなれなかったものの、この一年以上は将典のピッチングを見てきた者たちだ。

 掌の豆が、何度も破れるほど、バットを振り続けてきた。

 全てはこの一打席のために。


 もちろん思い出代打などではない。

 最後まで試合は諦めていないし、諦めるにはまだ戦力が残っている。

 だがマシンの球とも、将典の球とも、昇馬の球は違う。

 加えてボール球になる変化球を混ぜたら、それで見事にくるくると回る。

 カウントを整えてから、また最後にストレート。

 バットに当てることは出来たが、内野フライでワンナウトである。


 九番に対しても、また代打が送られる。

 こういう時のために残しておいた、右打者がバッターボックスに入る。

 完全に一発に特化しているが、重要なのは出塁率もだ。

 しっかりとボール球を見極めたら、一塁に進塁出来る。

 だが真琴は足首の痛みを忘れるように、相手の心理を想像する。


 おそらくこれが高校野球における最後の打席。

 もしくは人生最後の打席になるかもしれない。

(いや、この人たちは国体に出るかな)

 それでも甲子園での、最後の打席にはなるだろう。

 すると考えるのは、とにかく振っていかなくてはいけないか、安易に初球から打ってはいけないということ。

 どちらにしても高めのストレートで、ボール球を投げてもらう。


 ストレートの、バットが届くコース。

 だが全く動けなかったのは、見極めたからであろうか。

(手が出なかったと考える)

 では次は内角の、際どいところに投げてもらう。

 ストレートについていけるなら、当てることは出来るコースだ。

 上手いバッターであれば、これを普通に打ててしまうだろう。

 だがゾーン内であったにもかかわらず、これも見送ってしまった。


 カウントはワンワンなので、次は振ってくる可能性が高い。

 そんな右バッターに対して、サウスポーのツーシーム。

 外角のその球に、どうにか当てることは成功しだ。

 だが右方向のゴロで、明らかなファールになる。


 ツーストライクに追い込んだ。

 そして最後に投げたのは、インハイのストレート。

 165km/hをまだ記録するボールに、かろうじてスイングすることには成功。

 しかしバットには当たらず、三振でツーアウトとなった。




 あと一人である。

 最後の打者となるのか、今日四打席目の一番打者。

 打率と出塁率の高い一番打者が、さすがに目も慣れてきたであろう四打席目に入る。

 しかし初球から165km/hと、球威だけでストライクを取ってしまった。

(この人はまだ二年生だから、少しは余裕があるかな?)

 そう考えると打撃にステータスを振った三年生の代打より、やはり厄介な存在なのかもしれない。

 だがこのあと一人で優勝ということに、昇馬は特に高揚してはいない。

 それでも良く知る真琴から見ると、気配が鋭いものになっているのを感じる。


 普段はあの巨体でありながら、威圧感も気配も隠していることが多い。

 だがマウンドに立っていると、明らかに対決のための、威嚇の気配を発してくる。

 その戦闘的な気配から、遅いカーブなどを投げるのだが。

 気配のコントロールというものは、直史などもよくやっていることだが、真琴はそこまでは知らない。

(ストライク先行で、最後の打者になるかもしれない二年生)

 どうにかして後ろにつなぐ、ということだけは考えているだろう。

(バントの可能性もあるかな)

 キャッチャーとして内野にもサインを出すが、昇馬のボールはバントで打つことすら難しい。


 バットのグリップを、少し余して持っている。

 トップの位置も最初から、決めてしまって当てることに特化している。

(カットしてくるのか、それとも内野安打狙いか)

 しかし内野の守備にしても、白富東には隙がない。

 どうにかして最後のバッターにはなるまいと、色々と考えているのだろうが。


 こちらのことも考える。

 キャッチャーの打撃妨害などがあれば、無駄に俊足のランナーを出すこととなる。

 そしてもし、サウスポーの昇馬から走られても、真琴はセカンドに送球することは出来ない。

 タイミング的に間に合わないかもしれないが、それ以上に足を踏ん張って投げることが出来ないのだから。

(まあここは一球、遅いボール球をはさんでちょうだい)

 昇馬の投げたカーブは、外にもしっかり外したものであった。


 これでカウントはやや、バッターの方に打ちやすくなっている。

 だがボール球をまだ投げられるピッチャー有利には変わらない。

 何よりピッチャーは、ここでランナーとして出してしまっても、まだ失点するわけではないのだ。

(これで決まりかな)

 インハイへのストレート。

 ぶつけても構わないぞ、というぐらいのコースに投げてもらう。

 昇馬は本当に、遠慮せずに投げてくるのだ。

 練習試合まで含めても、フォアボールよりデッドボールの方が、はるかに多いというのが洒落にならない。


 もしもこれをかろうじてカットしたり、あるいは少し外れてボール球になったとする。

 だがもう次のアウトコースには、絶対に手が出ないだろう。

 勇気を持って振っていくなら、インハイストレートは当てやすいところではある。

 それでも圧倒的なスピードに、ついていけないのが大半であろうが。

(これで、終わらせる)

 サウスポーの左バッターへのインハイストレート。

 これは相当に投げるのが難しいのだが、当ててもいいし外れてもいいなら、それほど難しいものではない。


 そして投げられたストレートに、ちゃんとバットは当たった。

 セカンド正面のゴロは、エラーをするような余地もない。

 聖子がキャッチして、そのままファーストに送球。

 エラーの余地もなく、簡単な内野ゴロで試合は終わった。

 白富東の連覇で、今年の甲子園も終わったのである。




 安堵感が身を包む。

 それと共に足首の痛みが、はっきりとしてきた。

 よく優勝したバッテリーが抱き合う光景が見られるが、この場合はそれが不可能である。

 内野も外野も、マウンドではなくホームベース付近に集まってきた。

「立てるか?」

「もう無理」

 両膝をついて、完全に体重が足首にかからないようにする。

 それでも痛みはどんどん増してきて、集中時の脳内物質で遮断してきた感覚を、はっきりと感じるようになってきた。


 痛いが動ける、というのは逆に言えばしっかりと痛みは感じる、というものなのだ。

 極限の集中力の中で、それをどうにか思考の奥に閉じ込めておいた。

 だが脳内麻薬が分泌されるのが止まると、血流に合わせて激痛が走ってくる。

「痛い、いだだだだだだ」

 昇馬は肩を貸して、真琴を吊り上げる。

 反対の肩は、ちょっと身長差はあるが、聖子が肩を貸していた。


 敗北によって打ちのめされた桜印であるが、カメラが撮影するのはこちらの方が多い気がする。

 だいたいにおいて甲子園というのは、勝った方より負けた方に、焦点が当てられるものなのだが。

 桜印も来年がある二年生などは、この様子を見ていた。

 整列して礼をし、お互いを讃える。

 ただ桜印側は悔しさよりも、何かもっと重たいものを抱えているような、そんな表情をしている人間が多かった。


 昇馬には分からない。

 だが白富東の側も、三年生はおろか二年生も、なんとなく分かっている。

 とにかくこの試合は、昇馬がほとんど一人で終わらせてしまった。

 確かに点を取ったのは、和真の犠牲フライである。

 しかしその状況を生み出したのは、間違いなく昇馬であったのだ。

 またピッチングはそれ以上の働きで、結局はヒット一本を打たれたのみ。

 甲子園の決勝でこんな試合をされれば、どうやったら勝てるというのであろうか。


 三年生たちはおそらく、自分たちの実力に自信をなくしているのかもしれない。

 ただ鬼塚などの指導者目線で立てば、本当に昇馬が規格外なだけである。

 桜印はこれまで、何度となく昇馬に負けてきた。

 最後の夏までこれで、今の三年生は絶望しているのだろう。

 そして二年生は、まだ一年残っている。

 この一年に何をするかで、最後の夏の結果が決まる。

 しかし一年後の夏、昇馬のボールが打てるようになっているかは、かなり怪しいものなのだ。


 既にパーフェクトを達成していたが、この大会でも一回戦はパーフェクトピッチングであった。

 また他の試合も、自分の投げているイニングでは、失点を許していない。

 公式戦においては、完全に無敵のピッチャーである。

 残りの一年、昇馬を果たしてどうやって攻略するのか、全国のチームが考えることになるだろう。




 勝った側ではあるが、白富東も三年生は、甲子園の土を持って帰る。

 二年生はまだ、そんなことはしない。

 どうせ来年も来るだろうな、とは確信しているのだ。

 それこそ昇馬がまた、怪我でもしない限りは。


 長いようで短いような、今年の甲子園も終わった。

 だが実際は夏は、まだ終わっていないのだ。

 ちなみに甲子園で優勝した白富東だが、国体には参加を辞退する。

 他の私立であったりすると、三年生だけで参加したりする。

 しかし二年生以下の新チームは、もう秋季大会の期間であるからだ。


 白富東は三年生だけでは、国体に出るような戦力ではない。

 そもそも一学年だけで勝てるような、そんな戦力ではないからだ。

 もっともここから始まるのが、国際大会であったりする。

 さすがに去年は一年生であったので、声がかからなかった。

 だが今年のワールドカップは、アジア大会ではなく世界大会。

 三年生のピッチャーの選手層を考えれば、昇馬も召集される可能性が高い。

 本人がそれを受けるかどうかは、また別の問題であるが。


 直史があれを引き受けたのは、日本代表にこだわりがあったからだ。

 しかし昇馬は直史以上に、独立した存在である。

 いまだにそれなりの秩序がある日本と、自由と引き換えに混沌があるアメリカ。

 どちらがいいかと考える昇馬だが、別にアメリカ人になりたいというわけでもない。


 また昇馬には関係ないが、司朗などはドラフトがある。

 そしてワールドカップには、司朗も間違いなく招集されるだろう。

 なおこの後に行われた国体では、帝都一が無事に勝利する。

 ただそれはもう、蛇足のような話なのだ。

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