第77話 代償
ノーアウト二三塁で、二番打者を迎える。
この状況で点が入らなかったら、それはほぼ監督の無能を意味するだろう。
鬼塚としてはこういったシビアな状況を、何度も経験している。
そしてこのチャンスに関して言うなら、それほど絶対的なチャンスとも言えないと考える。
ゴロゴーでボールが転がったら、三塁ランナーを突進させるべきか。
真琴の走力は女子ならトップクラスで、男子選手の中でも充分に平均以上ではある。
特に野球における走塁は、足の速さだけが問題となるわけではない。
リードをどれだけ取っているか、またどのタイミングでスタートするべきか。
ピッチャーだけではなくキャッチャーの動きまで見て、そのあたりを判断しなければいけない。
「ここで決めたいなあ」
三塁のベースコーチは、聖子が立っている。
真琴のダッシュ力などを考えて、桜印の外野の肩も考えて、この人選になっている。
ゴロで突っ込むかどうかもだが、フライになった場合の判断も難しい。
もちろんこの場合は、タッチアップをどうするかという問題である。
センターが強肩であること、ライトも強肩であること、これは明らかである。
レフトはそれに比べると、やや肩の力は劣る。
しかしショートへの中継をして、そこからどれだけスムーズにホームに返球するか。
(カズがフライで遠くに飛ばせたら)
かなり深めに、追いかけながらキャッチしたら、さすがにバックホームは間に合わないと思う。
(せやけど外野が上手く連携出来たら)
内野でも飛びついてキャッチしたボールを、セカンドからショート、あるいはショートからセカンドへとトスして、送球してもらう場合がある。
無理に上半身だけで投げるより、一連の動作となってアウトにしやすい。
だが基本的に、追いかける体勢でキャッチしたなら、それはタッチアップすべきだろう。
あとは二塁ランナーの動きだが、フライになったらもう動かない方がいい。
三塁へのタッチアップというのも、ライトがキャッチしたならば、充分に選択の内に入るだろうが。
(けどマコはキャッチャーやから、クロスプレイになるようなタイミングは避けたい)
高校野球ではコリジョンルールを別にしても、ラフプレイは避けられる。
しかし偶発的な事故は起こりうるのだ。
送球が乱れて、キャッチャーがライン上に移動してしまったら。
そこは走塁妨害で、テイクワンベースと審判が判断する可能性は高いだろう。
だが一点を取られても、そこで真琴が怪我でもすれば、昇馬はもう全力を出せなくなる。
なので相当に安全な状況でないと、真琴を突っ込ませるわけにはいかない。
白富東は昇馬を中心としたチーム、というのは間違った見方ではない。
攻撃においても守備においても、昇馬の貢献度は最大であるのだ。
しかし一応はアルトがキャッチ出来るように練習はしているが、リードをしても拙いであろう。
それこそ盗塁阻止の牽制などは、かなり無理がある。
アルトは自分の価値である足を活かすために、下手にキャッチャーの姿勢にならないようにしている。
あの太ももを地面と平行にするという姿勢は、かなり無理があるものなのだ。
足に無駄な筋肉がついてしまい、走力が落ちてしまう。
樋口の場合はそんなキャッチャーをやりながら、走力を落とさなかったし、真琴も上手くやっている。
単純に片膝をついて、それでキャッチングをしていたり、あるいは体を動かしながらキャッチングをしているのだ。
小刻みに動くことによって、筋肉を固めない。
また片膝を立てていても、ツーストライクからの暴投以外は特に問題もない。
わずか一瞬の動作において、ほんのわずかに時間を短縮する。
これはほんのわずかではあるが、その一瞬で勝負が決まってしまえば、悔やんでも悔やみきれることではないだろう。
ただこの楽な体勢の捕球というのは、直史が真琴に教えた部分が大きい。
真琴の走力が試合を決めるかもしれない。
ここはサードランナーだけは、絶対にアウトになってはいけない場面。
そもそも右ピッチャーの将典からは、大きなリードも取れない三塁ランナーだ。
和真のバッティングに、大きな期待がかかる。
ただベンチの鬼塚としては、スクイズなども頭の隅にあったりした。
スクイズは駄目だと、すぐに選択肢からは外したのだ。
真琴の怪我があっては、昇馬を万全に使えなくなってしまう。
タッチアップもかなり、安全マージンを多めに取らなければいけない。
とにかく本塁で、クロスプレイになってはいけないのだ。
そう考えると取れる手段も減ってくる。
もちろん一番いいのは、普通に和真がクリーンヒットを打って、真琴がノースライで帰ってくることだ。
しかし将典は将典で、超高校級のピッチャーであることは確かなのだ。
鬼塚のサインは、意外なものではなかった。
三塁の真琴と、バッターの和真が確認しあう。
二塁の昇馬は自分が出来ることは、万一の時のためにチャンスを維持することと考えている。
ここで一番白富東が嫌なのは、和真のバッティングによる打球で、内野ライナーからのダブルプレイになることだ。
ただ三塁の真琴は、ある程度のリードを取っておく必要がある。
対して昇馬は、完全にベースの端に片足を触れさせていた。
最悪のことが起こってツーアウトになっても、なんとか三塁までは進みたい。
だがライナーからのダブルプレイなら、それも難しいであろう。
あるいは盗塁を仕掛けてみるか。
将典は制球もいいが、このギリギリの場面であったら、さすがにコントロールミスもしそうだ。
熊に襲われた時に比べれば、別に命がけの場面でもない。
そんなように考えられるのは、昇馬ぐらいであるのだ。
そして初球、足を上げた将典に対して、和真はバットを寝かせた。
スクイズ、という判断をして、将典はボールをワンバンに外した。
それをキャッチャーが止めるのだが、和真はバットを引いていて、真琴はダッシュした次の瞬間に三塁ベースに戻っていた。
バッターとランナー、そしてベンチからのピッチャーの揺さぶりである。
桜印側としては、これは厳しい対応だ。
カウントをバッター有利にするために、小さな作戦を取ってきている。
これは神経戦である。
スクイズの可能性もあるぞ、と桜印側は思ったかどうか。
(それはブラフだ)
押印の早乙女は、しっかりと見破っている。
もしも実際にバントをしてきても、内野とピッチャーがチャージして、ホームベースでアウトにする。
もっともタッチの必要があるので、確かにそこは難しいのだが。
せめてフォースプレイになれば、と考えなくもない。
昇馬からは一点を取られただけでも、充分に決定的となりかねない。
残りの2イニングで桜印は、次が五番からの打順。
ここまでの内容を見ていると、おそらく九回までにはチャンスは巡ってこない。
桜印が勝つとしたら、10回のタイブレークに賭けるのみ。
白富東の下位打線を0で封じて、その裏でどうにか一点を取ってサヨナラにする。
だがたとえそれで勝っても、昇馬の自責点にはならないのか。
タイブレークのルールは当然、頭の中に入れている。
だがその場合の自責点はどうだったかな、と考える。
もっとも勝てたなら、どうでもいいことだ。
甲子園の頂点に立つのだ。
ボール先行のカウントにすることが出来た。
この場合バッテリーは、三振を念頭に組み立ててくるだろう。
(ゴロを打たせたら、バウンドの具合によって充分、三塁ランナーが帰ってくる)
和真としてはこの場面、ダウンスイング気味にゴロを打っても構わない。
(けれどファーストストライクを取るために、この二球目は絶対にストレートになってくる)
コースの指定までは分からないが、アウトロー一杯か高めの、どちらかに間違いないだろう。
チェンジアップはどうであろうか。
その可能性も全くないわけではないが、それは素直に空振りしてしまおう。
このカウントからならば、空振りしてストライクを取られても、まだ仕方がないと考えられる。
(こちらがストレート狙いだと考えれば、次をどうするかって話にはなるだろうけど)
あの剛速球があるならば、それを活かす配球にしてくるはずなのだ。
和真の対応力をここまでに研究していれば、チェンジアップも打てると判断するだろう。
分かっていてもおそらく打てないのは、ストレートと判断するだろう。
そして初球がボールであったので、次はどうにかストライクを取りたいはずだ。
カウントが悪くなっても、次がアルトということを考えれば、歩かせるということは難しいはずだ。
ストレートと狙い球を絞って、それでも打てるかどうか。
(変化球への対応なら、色々とやってきたんだ)
その和真に向けて、投げられたのは高めのストレートであった。
アッパースイングにはしない。
ダウンスイングに入るようにしながらも、実際にはレベルスイングで振りぬく。
ボールはバットに当たったが、完全なミートというわけではない。
(振りぬく!)
バットは押されたが、それでも全力で腰を回転させた。
レフト方向へのフライ。
距離はかなり、上手く出ているか。
前進して守っていたレフトは、最初は必死で追いかける。
だが途中からはそれを弱めて、キャッチ出来る場所を見定める。
かなり深めではあるが、おそらくボールはそこまで飛んでいかない。
キャッチしてから投げるための助走を稼ぐため、そこまで奥に引っ込んだのだ。
判断が難しくなる。
普通にレフトがキャッチして、そこから投げるボール。
それは普段はショートが中継することが多いが、この場合は中継なしでホームにまで返ってくるのか。
距離的には充分に思えるが、万全の体勢から投げたボールであるなら、そのスピードは当然上がる。
(これは……)
滞空時間が長いため、どちらも準備はしっかりと出来る。
あとはもう、肩と足の勝負になる。
あるいは返球のコースが、どれだけキャッチャーにストライクとなるか。
ここでフライアウトになっても、次はアルトである。
勝負強いアルトが、ワンナウトで勝負する。
充分にそれは、期待出来る場面ではないのか。
「聖子、多分一塁が空いてたら」
真琴の言葉に聖子は気付く。
アルトを敬遠してしまって、満塁にすればいいのだ。
ここはタッチアップするべきだろう。
点を取ることを諦めるなら、何もしなくてもいいだろうが。
事実桜印の早乙女は、ここで和真を凡退に抑えたら、次はアルトを敬遠するつもりであった。
満塁にしてしまうのは危険だが、四番以降はそれほどの打力もない。
フォースアウトで守備も楽になるので、立派な作戦である。
やるべきかやらざるべきか。
もしもホームアウトでダブルプレイになったら、むしろアルトとも勝負してくるかもしれない。
「合図はするからな」
聖子にそう言われて、真琴は完全なタッチアップの体勢となる。
三塁ベースを使って、クラウチングスタートのような構えを取ったのだ。
真琴の足は100m走であると、12秒台の前半だ。
もちろん野球の場合は、それよりも塁間の距離は短い。
いかにダッシュ力があるか、それが重要である。
また同時に重要なのは、キャッチャーのミットを避ける技術。
外野からの送球が、完全なストライク送球である可能性は低い。
キャッチしてからタッチするまで、そのわずかな時間さえもが貴重。
「レディ」
聖子が完全に、合図をする役となっている。
「GO!」
前に走りながらレフトがキャッチし、そしてバックホーム。
実はここは冷静にやっていれば、簡単にアウトが取れるタイミングであった。
外野から投げるボールというのは、どうしてもピッチャーのボールなどより、コントロールはいい加減になる。
レフトからのバックホーム返球は、本当に難しいのだ。
ストライク送球でショートに送り、ショートが全力でキャッチャーに、という選択も充分にありうる。
だが桜印側は真琴の足のタイムなど、女子としては規格外だし、男子に混じってもそれほど遅くはないと、判断してしまっていた。
ただそういったことも全て、和真がしっかりと距離のある、外野フライを打ったからである。
キャッチャーから見ると、わずかに右に逸れていた。
そのボールをキャッチしてから、タッチしに行くまでの距離が長い。
真琴はスライディングするように見せながら、低い姿勢でタッチしに来た、キャッチャーの上を飛び越えた。
そして転びながらも、ホームベースの上に着地。
かくして白富東はようやく先制点を取ったのであった。
ひっそりと自分も、三塁まで進んでいた昇馬である。
だがアルトの打球はセンターの浅いフライで、これはさすがにタッチアップは出来ない。
そのはずであったのだが、昇馬は走った。
意識の空白ではあったろうが、ボールはストライク返球でホームタッチアウト。
だがこれは選択的には、間違っていなかったのだ。
ツーアウト三塁から、白富東の四番以降が、ヒットを打てる可能性は低い。
また後逸などの可能性も、ほぼないであろう。
ならば意外なタッチアップをして、返球のコントロールミスを狙う。
結果としてはアウトであったが、確率的には悪くなかったのだ。
残り2イニング、抑えたなら勝てる。
ただ白富東は実は、ちょっとしたアクシデントを抱えていた。
変な体勢で着地した真琴は、足首を挫いていた。
もっともひどいものではなく、普通に歩ける程度のものだが。
指導者としては鬼塚は、ここで交代させるべきかも考える。
だが真琴以外のキャッチャーであると、アルトにキャッチャーをさせるべきか。
そのアルトにしてもキャッチングだけならともかく、リードは出来ない。
「こっちの足、膝立ちにしてキャッチしますよ」
真琴はそう言うのだが、普通に痛いことは痛いらしい。
歩いてみろと言われれば、ちゃんと歩ける。
痛みを我慢しているのかもしれないが、逆に言えば我慢出来る程度の痛み。
本当に致命的なものであれば、そもそも足を引きずって歩いてしまう。
それをしていないだけ、経度の捻挫といったところなのだろう。
選手の未来に関わるほどではないか。
もちろん真琴が無理をして、我慢しているだけの可能性もある。
「でもこいつじゃないと捕れないし、もし交代して負けたら一生悔やむことになるぞ」
昇馬としては別に、選手生命が終わる程度なら、問題はないだろうと考えている。
真琴は別に、プロを目指しているわけではない。
女子のプロ選手など、広告塔ぐらいでしか存在しえないのだ。
少なくとも歩けるということは、まだやれるということ。
「ただし足を引きずるような動作をしたら、そこで交代させるからな」
アマチュア指導者としては失格かな、と鬼塚は思う。
だが自分のせいで負けたなら、それはそれで一生物の後悔になるだろう。
鬼塚はジンが、いまだに高校一年生の夏、県大会の決勝の悪夢を見ると聞いている。
この場合は事情が違うが、そもそも取ってくれた一点が、真琴の走塁によるものなのだ。
足を見たところ、明らかに分かる腫れなどはない。
ただ痛いことは痛くて、だからこそ素直に報告したのだろう。
「残り六人、全員三振に取るつもりで投げろ」
鬼塚の無茶な言葉にも、昇馬は頷く。
「つーかランナー出ても、盗塁阻止する必要ないしな」
昇馬も昇馬でまた、無茶なことを言っているのであった。
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