第76話 一つの時代

 おそらくこの三年間は、一つの時代であったと後に語られるのだろう。

 上杉の時よりも鮮明に、それが予測出来る。

 高校野球史上屈指のバッターがいても、それすら打ち取る怪物の存在。

 負けた試合がないわけではないが、昇馬が投げれば負けていない。

 引き分けや試合中の怪我が原因であるが、そのあたりは監督の采配も問題視されるだろう。

 だが何をしたかよりも、何もしなかった方が、良かった場合はあるのだ。


 大介も二年の春に甲子園でデビューしてから、いきなりホームラン記録を作っていった。

 二年の夏の桜島との対戦は、いまだに伝説となっている。

 親子二人で、それぞれバッティングとピッチングの極致に立つ。

 もっとも昇馬の場合は、バッティングも歴代屈指レベルであるのだが。


 アスリートとして純粋に、怪物的な身体能力を持っている昇馬。

 それを二塁に置いて、アルトの打席。

 ここが今日の正念場か、と将典は覚悟を決める。

 対するアルトとしても、勝負所だとは気付いている。


 ラテンの血が騒ぐのか、スタンドの盛り上がりに対して、口角が釣り上がっていく。

(プロに行ったらこのレベルのピッチャーがそれなりにいる)

 そう思うと将典は確かに優れたピッチャーだが、ここで打っておきたい。

(ここで一点を取れれば、決まる可能性が高い)

 アルトはそう考えていたのだが、桜印の選択は冷静であった。

 いや、冷徹であったと言うべきであろうか。


 ベンチから出たのは、なんと申告敬遠である。

 拍子抜けしてしまったが、確かにこの場面はそれでいいのだ。

 塁を埋めることによって、フォースアウトが取れるようにする。

 そもそも得点圏にランナーがいるのだから、これを全力でホームに帰らないようにするのだ。

 四番以降の打力であれば、将典なら絶対に封じてくれる。

 そこまでの信頼があるから、危険度の高いアルトは敬遠してしまうのだ。


 鬼塚はわずかだが、苦い表情をしてしまった。

 こういうことを恐れていたのだ。

(二人にもう15球を投げてたからなあ)

 ピッチャーが1イニングに投げる目安は、15球までと言われている。

 それでも9イニング換算であれば、135球も投げることになるのだ。

 スピードボールを投げれば投げるほど、試合の終盤ではコントロールが怪しくなる。

 指先の毛細血管が切れて、触覚もおかしくなるからであるが、ここで厄介なアルトを敬遠してしまうのか。


 確かに一塁が空いているのだから、歩かせてしまってもいいのだ。

 昇馬が司朗と対決した場面とは、意味が違うのである。

 もちろん四番以降に、長打が出れば一挙二点が入りかねない。

 だがそれはないと、桜印は判断したというわけだ。




 この判断は正しかった。

 続くバッター二人を、三振と内野ゴロで打ち取る。

 せめて送りバントでもさせようか、と鬼塚は考えた。

 だがツーアウト二三塁にしても、向こうは完全にバッター勝負をするだけである。

 あるいはダブルスチールなどということも考えた。

 しかしそれもまた、可能性としては否定したい。

 桜印のバッテリーは、しっかりと盗塁を刺してくる。

 これがせめて、ピッチャーをまた交代していたのなら、盗塁も選択肢に入れていたのだが。


 ランナー二者残塁で、白富東のスタンドからは、ため息が洩れた。

 やはり三番まででどうにかしなければ、将典クラスのピッチャーから点を取るのは難しい。

 考えてみれば桜印は、イニング途中での交代はさせていない。

 そこはピッチャーにしっかり、切り替える時間を与えているわけである。

(まあここは桜印も下位打線か)

 ランナーがまだ一人も出ておらず、パーフェクトの達成さえ考えられる。

 早めに一人でもヒットを打っていてくれれば、変なプレッシャーもかからなかったろうに。


 もっとも昇馬は既に、甲子園で三度のパーフェクトを達成している。

 仁政学院に紀伊高校に、そして今年の桜島。

 決勝だからといって、もう一つパーフェクトがほしいなどと思ってはいない。

 選手たちも守備で、変に固くなってはいない。

 去年の夏と同じように、普通にやればいい。


 六回の裏も三人で終り、いよいよ試合は終盤に入っていく。

 七回の表、また桜印はピッチャーを代えてきた。

 イニングの頭からであるが、本当にここまでやるべきであるのか。

 だが確かに将典の球数は、既に83球に達していた。

 フルイニング投げてきている昇馬は、65球なのにだ。


 八回の表には、昇馬の四打席目が回ってくる。

 それを考えれば、出来るだけ休むことは、確かに重要だと言えるだろう。

 おそらく100球に達するが、投げているイニングは少ない。

 もっともその分、強いバッターは任されているのだが。

(監督の作戦は、正しかったな)

 桜印の監督早乙女も若手であり、その分色々と考えることが新しい。

 元ピッチャーであったので、コロコロとマウンドを代えることを、難しいと分かっている。

 だがそれでも、白富東を相手として、この作戦を導き出した。


 一年生の時から、既にある程度の実績を、去年までに出していた監督である。

 強豪ひしめく神奈川県で、ベスト16には確実に残るようになっていたのだ。

 古豪というと変な伝統や、OB会がうるさかったりする。

 そういったものを黙らせて、しっかりと改革をした。

 だからこそ上杉も、息子をここに任せるべきだと判断したのだ。

 実際に一年目の、夏どころか春の時点で結果は出ていた。

 神宮大会では優勝したし、そしてついに甲子園の決勝までたどり着いている。

 しかし大きな壁が、桜印の優勝を阻んでいる。


 去年の関東大会にしても、昇馬が怪我をしなければ、勝てていたとは思わない。

 センバツは一番苦しめたと言えるが、勝利にまでは結びついていない。

(延長に入ったら……)

 父親の代はまだ、延長再試合というものがあった。

 だが今では決勝でさえ、タイブレークになってしまっている。


 皮肉な話と言えるだろう。

 上杉の時代に延長からのタイブレークがあれば、おそらく春日山はもっと早く、甲子園で優勝できていた。

 そして今はそのタイブレークが延長からに変更されたため、桜印は苦しくなっている。

 センバツでは事実、そのタイブレークが大きな敗因となった。

 球数が増えてしまったため、帝都一が優勝することの援護をしてしまった形になった。

 だがこの試合は決勝戦なのだ。




 七回の表、白富東は三者凡退。

 ただ桜印のピッチャーも投げてる球数の割には、消耗が激しい。

 下手にランナーを出してしまうと、恐怖の一番打者につながる可能性があるからだ。

 八回の表は、九番の真琴からの打順となる。

 意外と侮れないというのは、散々に粘られて分かっている将典だ。


 ただ桜印も、七回の裏にようやく、試合を揺らすことが出来た。

 動かす、というところまではいけていない。

 初めてのヒットが出て、パーフェクトを阻止。

 もっともその後が続かず、結局はチャンスらしいチャンスにもならない。

 サウスポーで剛速球投手なのに、普段からかなりのクイックで投げている。

 なので盗塁も仕掛けにくいというわけだ。


 そして勝負の八回の表である。

 タイブレークはピッチャーにとって、苦しいシステムであることは間違いない。

 だが昇馬から点を取ることを考えれば、タイブレークも一つの手段だろう。

 センバツでは結局、タイブレークに持ち込んでも得点は出来なかったが。

(ダブルプレイにするピッチングだけは、俺の方が得意かもな)

 そう考えて投げた、将典の初球を真琴は狙っていた。

 ある程度は注意していたのだが、まだそれでも注意が足りない場面であった。


 内野の頭を越えるクリーンヒットで、ノーアウトランナー一塁。

 そしてバッターボックスには昇馬を迎える。

 スタンドの白富東の応援団は、それほど大きな規模ではない。

 だがあの栄光の時代を知っている人間は、かなりが応援に来てくれている。

 それは地元千葉の人間だけではなく、大介のファンや当時からの高校野球ファン。

 もちろん上杉の息子である将典にも、ある程度のオールドファンはついている。

 しかし将典は、父親に比べれば、という評価をされてしまうのだ。


 昇馬のような一年生ピッチャーが、パーフェクトなどをまじえながらも全試合を投げきる。

 一年の夏のピッチングは、本人が無自覚であるが、充分にスーパースターの誕生となっていたのだ。

 だがスターは一人だけでは、面白くもないものとなる。

 将典はその点では、一つ上の司朗と共に、ライバルとして考えられていた。

 それだけにこの場面、安易な申告敬遠などは出来ない。

 そもそもノーアウト一二塁にして、和真とアルトを迎えるのは、間違いのない悪手になる。


 勝負の場面だ。

 桜印側はそう認識していたし、白富東側もその雰囲気を感じていた。

 ここで勝負を避けるというのは、空気を読まないにもほどがある。

 桜印としてもここで昇馬を封じて、どうにか完璧に近いピッチングに、穴を空ける必要がある。

 あるいはタイブレークに持ち込むか、という考えもあるだろう。

 だがそれもまた、厳しいことは確かだ。

 後攻が有利になるタイブレークだが、センバツで桜印はそのタイブレークで、白富東に負けているのだ。

 昇馬の奪三振能力を突破できなければ、有利な後攻めでもその優位性を実感出来ない。


 試合の勝敗にこだわるだけなら、ここで敬遠という選択もある。

 だがアルトを敬遠しても、昇馬を敬遠してはいけないのだ。

 既に一度、カウントが悪くなったところから、歩かせてはいるのだから。

 何より昇馬は、全く勝負を避けることがない。

 司朗とも勝負して、そしてヒットを打たれただけなのであった。




 昇馬は狩人である。

 狩猟免許などを持ってはいないが、その本性が獲物を狩る精神性をしている。

 現代社会に生きながらも、その本能を鋭く磨いている。

 嗅覚によって、将典が勝負してくるのは分かった。


 基本的にはストレート狙い、でいいのだろうか。

 だが昇馬は既に、一塁が埋まっているという状況を考える。

 ノーアウトでこのチャンスというのは、もう二度とないのではないか。

 延長戦にまでもつれ込んでも、昇馬としては構わない。

 球数を考えても、将典は限界が近い。

 相当に鍛えられてはいるだろうが、将典が投げている相手は、かなり厳しい相手が多いのだ。

 楽なバッターに投げている、もう一人のピッチャーとは違う。


 基本的にはストレートを狙う。

 だがストレートを投げるかは、怪しいところである。

 昇馬にとっても充分、将典のストレートは速いボールだ。

 マシンでは160km/hまでを打ってはいるが、あの機械の球よりもずっと、打ちにくいものなのだ。

(スライダーは打ってもファールになるだろうし、あとは……)

 チェンジアップ、と昇馬は判断した。


 ピッチトンネルを通って投げられる、将典のチェンジアップ。

 ストレートが速いからこそ、その脅威度も高くなる。

 このチェンジアップを叩いておけば、後ろの二人も打ちやすくなるだろう。

 主力の三番まで左バッターが続くので、スライダーの脅威度はそこまででもない。


 落ちる球があれば良かったのだろうが、それはチェンジアップである。

 速くて落ちる球を持っていれば、対応は一気に難しくなったろう。

 しかし実際にはないのだから、このチェンジアップを狙う。

 あとのムービング系や、カーブはどうにか対応出来る。

 あるいはムービング系なら、パワーだけである程度は飛ばしてしまえる。


 ボール球から入ってきたのは、こちらの狙いを探ってきたのだろうか。

 アウトローのストレートだが、しっかりと外してきた。

 キャッチャーはフレーミングを使ったのかもしれないが、さすがに外した幅が大きかった。

 この勝負において、審判は少なくともそこは、ストライクに取らないと分かった。

(あそこから少しだけ入ってくる変化なら、ストライクになるかもな)

 追い込まれたときにそのコースであったら、昇馬はバットを出してカットして行こうと考える。


 桜印バッテリーは、探りながら投げてくる。

 高めに少し外れたストレートも、昇馬はあえて振っていった。

 ちょっとわざとらしかったかな、と自分でも思ったが。

 このあたりは駆け引きが存在する。

 相手の狙いがどこにあるのか、それを考えるのだ。

(ストレートや速球系は難しい)

(けれどスライダーは当ててくるだろ)

(カーブでカウントを稼げるか?)

(こいつはカーブでも、普通に打つやつだろう)

 チェンジアップで様子を見る、という選択が出てくる。


 昇馬の準決勝、チェンジアップをホームランにしていた。

 だがここではチェンジアップを、内角の低めに落とす。

 ボール球であるが、むしろワンバンはしないほどのコース。

 ここを打つのは難しい、というコースである。




 チェンジアップだ。

 投げられたボールを瞬時に、昇馬の脳は判断する。

 そしてコースが、内角になっている。

 これは打っても飛ばすのが難しいか、と考える思考は0.1秒もかからない。


 バットが始動していた。

 だが踏み込みや腰の回転が始まっても、バットはまだ残っている。

 やや姿勢を崩しながらも、この内角低めのボールを打つ。

 上手く左手で、打球を最後には押し込むように打ったのだ。


 低い弾道で、ボールは飛んだ。

 内角であったのに、レフト方向へのボールである。

 そしてラインギリギリに落ちたボールは、外野の奥へと転がっていく。

 早めにスタートを切っていた真琴だが、それでも三塁コーチャーはここで止めさせる。

 桜印の外野は、どれもこれもが強肩。

 レフトは比較的普通といっても、それでもショートからの中継が一級品なのだ。


 ツーベースヒットで、スタートも上手く切れたのに、ホームにまでは届かない。

 あるいは男子の足であれば、ホームにまで届いたのかもしれない。

 だが真琴は真琴で、走塁の練習自体はしっかりとしている。

 キャッチャーをやっていながらも、女子としては別格の速さなのだ。


 得点には結びつかなかった。

 だがノーアウトのまま、ランナーは二三塁となる。

 大量点も狙えるが、それよりも一点を確実に取れるうような状況。

 この状況でもって、しっかりとケースバッティングが出来る和真の打順である。


 ここで一本出れば、それで勝負は決まる。

 単打であってもおそらく、真琴は帰って来られるだろう。

 その一点があれば、あとは2イニングを抑えるのみ。

 球数も充分に余裕のある昇馬なら、一点で充分に勝てる。


 この状況で、一年生が甲子園の、優勝を決める打席に立つ。

 さすがの和真としても、ここは緊張してしまう。

 ただ一塁が空いているので、どんなミスをしてもまず、ダブルプレイにはならないだろう。

 もしなったとしても、まだ後ろにはアルトがいる。

 おそらくはこれが、この試合最大の正念場であろう。

 両陣営のベンチも、色々と考える余地がある状況が訪れていた。

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