第70話 温存

 3-0で残りの攻撃は二回。

 帝都一の勝率は相当に下がったと言えるであろう。

 八回の表、白富東は先頭打者が一番の昇馬である。

 ここでジンは勝負を避けさせる。

 それも内角や低めではなく、外角に外した球だ。

 無理に打ちに来て、ミスショットしてくれれば儲けもの。

 さすがにあの規格外のホームランを打たれた後では、逃げるピッチングになっても仕方がない。


 ノーアウトランナー一塁。

 そしてここからヒットの打てるバッターが続いていく。

 だがクラッチヒッター気味のアルトは、ここではもうバッティングに注意がいっていない。

 なにせ白富東のベンチの前では、真琴が投球練習を開始しているのであるから。


 八回の裏から、真琴にピッチャーを交代する。

 帝都一を甘く見ているような采配かもしれないが、鬼塚としては充分な勝算がある。

 それは野球というスポーツが、効率化されてしまったことの弊害。

 真琴は技巧派であるが、変則派のピッチャーでもある。

 こういったピッチャーを打つのが、強豪のチームでも苦手になっているのだ。


 そもそも真琴は遅いなどと言われるが、それでも130km/hのストレートを投げられる。

 これは一般の公立校であれば、エースクラスでもおかしくないスピードだ。

 さらにサウスポーのサイドスロー。

 実際に既にこの大会でも、実績が出せているのだ。


 鬼塚としては昇馬の故障が起こらないようにするか、あるいは体力の温存という以上の意味を持っている。

 それは精神的な余裕である。

 今の白富東は、あまりにも昇馬のピッチングに、チームの戦力の比重が傾いている。

 得点も昇馬の貢献が大きいが、守備はそれ以上なのだ。

 高校野球はピッチャーが命。

 攻撃偏重のチームが勝つのは、現代野球では難しくなっている。


 アルトが凡退して、次は和真の打席である。

 せっかくのチャンスであるが、鬼塚はここはもう凡退してもいいと考えている。

 下手に昇馬を走らせて、故障の可能性を上げたくはない。

 昇馬自身もその嗅覚で、勝負所は去ったと感じている。

 ピッチャーが真琴になれば、おそらく司朗は打ってくるだろう。

 だがそれが逆転の場面であれば、鬼塚はおそらく申告敬遠を使う。

 女だから、勝負を避けてもいい。

 もっとも真琴は、単純に高校レベルであれば、充分に通用すると鬼塚は判断している。


 実際にここまで、関東大会でも甲子園でも、実績を残している。

 点差が少しある状態ならば、充分に使えるというピッチャー。

 下手に正統派のアルトよりも、むしろ打ちにくいのは間違いがない。

 しかしそのあたり、和真にはまだ納得が出来ない。

(もう一点)

 長谷川の変化球に絞って、打った球は内野の頭を抜けるクリーンヒット。

 ワンナウト一二塁と、チャンスを拡大した。




 白富東が帝都一に優るのは、もちろんそのエースの力である。

 昇馬一人で帝都一のピッチャー、エース格で投げられる四人分、それを上回ってしまう。

 全力で投げて3イニングを抑えても、そのピッチングのクオリティは昇馬よりも低い。

 継投が主流の現代高校野球で、一人で投げきってしまう昇馬が異常と言えよう。

 それも連投で投げても、桜印と帝都一を抑えてしまうのだ。


 その白富東も、弱点の得点力を改善出来た。

 元々真琴のバッティング力は、それなりに高いものであった。

 しかし同時に弱点でもあったため、九番に置いて昇馬のチャンス作り要員にしていたのだ。

 三人までならどうにか、抑えることが出来たのが去年まで。

 和真が入って、急成長したのが、本当に大きい。


 初回の攻撃で、いきなり昇馬から始まる長打の打てる打線。

 それが試合が進めば、真琴がランナーとして昇馬の前にいる打線に変わる。

 そこでは昇馬の打力が、返す側として活きることになる。

 また普通のヒットであっても、さらに後ろに打てるバッターがいる。

 得点力の増加によって、昇馬以外のピッチャーを使う余裕が出来た。

 去年の夏のように、ほとんどが一点か二点しか取れていない試合とは違うのだ。


 センバツにしても桜印の上杉将典から、一点も取れずに延長に入ったことが、決勝で帝都一に敗れる原因となった。

 打線の援護があれば、ピッチャーは楽が出来る。

 三点差あれば、まず充分と考えるべきだ。

 それに秋の関東大会で敗北した理由、昇馬の負傷の可能性も、ピッチャーから外したら低くなる。

 問題は真琴が、2イニングを二点以内に抑えられるか。

 帝都一とは練習試合を行って、真琴も少しは投げている。

 そこではほぼ抑えられているのだが、この成功体験をあまり信用してはいけない。

 なぜならそれは、真琴の球筋や球種などを、知られているということでもあるからだ。


 それでも昇馬の後に、真琴という継投。

 チェンジアップでさえ140km/hが出てしまう昇馬の後に、130km/hがMAXの真琴だ。

 バッティングにとって一番重要なのはタイミング。

 スイングスピードを速球に合わせすぎると、遅い球が打てなくなる。

 それがマシンの球ばかりを打つ弊害となるのだ。


 和真が打った後、結局は後続が続かず、点差は変わらず。

 ただ和真のヒットにも、意味がなかったわけではない。

 万一追いつかれた時も、また昇馬の打席が回ってくる。

 そういう先の展開までも、念のために考える鬼塚である。


 そして八回の裏、マウンドには真琴が立つ。

 昇馬はライトへ、ライトの和真はレフトへ。

 キャッチャーは三年の坂田が入った。

 昇馬やアルトではないのは、真琴の持ち球を活かしたリードが出来ないため。

 岡山奨学館戦と、同じ組み合わせのバッテリーである。




 甲子園の準決勝で、マウンドに立っている自分。

 真琴はさほど緊張もしていない。

 坂田も前の試合でマスクを被っているので、そこは問題がないだろう。

 この大舞台であるにもかかわらず、真琴はさほどの緊張は感じていない。

 大舞台と言うだけならば、甲子園ともまた違う、世界大会を経験しているからだ。


 打順は六番から始まる。

(最終回にはシロちゃんに回るなあ)

 そこが真琴としては気になるところだが、他は特に注意するものでもない。

(一番も一応、プロ注ではあるのか)

 出塁してランナーがいる状態で、司朗には回したくない真琴である。


 帝都一としてはここを、白富東の油断というか、どうにか点を取るチャンスと考えるしかない。

 ただジンはピッチャーが、同じサウスポーであっても、全く性質が違うことが攻略を困難にしていると考える。

 先頭の六番には、初球は絶対に振るな、と言っておく。

 また次のバッターにも、100%ヒットに出来ると思えるボール以外は、初球は絶対に振るなと言っておく。


 現代野球はスピード全盛。

 そんなことを言われながらも、それが通用するのはプロに行くような、そういうレベルのバッターだけだと考えているのがジンである。

 強打のチームは踏み込んで、外角のボールを打っていく。

 しかし内角に投げるコントロールがあれば、意外とそれが打てなくなっている。

(サイドスローだとさらに角度がついてくるからなあ)

 左バッターには鬼門だな、とジンは思っているのだ。


 今はもう、バッティングは左が有利、というのが定着しすぎている。

 これに対してサウスポーの、中でもサイドスローやアンダースローは、高校野球の地方大会レベルなら、ジャイアントキリングを起こすのも珍しくはない。

 右バッターならば普通に、懐に入ってくるのを打てるのだ。

 だがサイドスローで、しかも真琴の女性特有の柔らかさから、腕を撓らせて投げるサイドスローは、左バッターは打ちにくい。

 かといって右であればいいのか、というとそれも違う。

 もちろん右の代打は、帝都一にもいる。

 しかし真琴の持っている球種が、その右バッターさえも抑えてしまうのだ。


 スルーを真琴は投げられる。

 シニア時代のシーナは、120km/hにも満たない速球だが、あのボールを使ってそれなりの強豪シニアも抑えてきた。

 豊田と岩崎に続く、三番目のピッチャーであったのだ。

 実際に全国の上に行くまでには、何度も登板の機会があった。

 真琴はシーナよりも、さらに球速が速いピッチャーだ。

 それに投球術は、直史仕込である。

 初球からいきなり、スローカーブでカウントを取ってきた。

 100%振ってこない、という確信があってのものだろう。


 あの昇馬の160km/hオーバーのストレートをキャッチしているのだ。

 男の中では細く見えるが、インナーマッスルは相当に鍛えているのが間違いない。

 そこからはカーブの他に、スライダーとスクリューを投げてくる。

 角度のついたスライダーは、さらに左バッターには鬼門である。

 また右バッターにとってさえも、角度がついていて打ちにくいのは変わらない。




 ストレートをどう使うか、が肝心だと思っていた。

 スルーは決め球として使うが、あとは左の多い打線に、どうスライダーを使っていくか。

 ただ重要なのは緩急差だと鬼塚も言っていた。

 ここまでずっと、昇馬のストレートをどう攻略するか、それだけを考えてきた帝都一打線。

 そこに真琴のスピードであると、簡単にストレートなら打てそうに思うだろう。


 だが違うのだ。

 昇馬のストレートはスピードゆえに、またスピン量がゆえに、ホップしてゾーンに入ってくる。

 しかし真琴の場合は、サイドスローだとリリース位置が違う。

 そのポイントから、ストレートでもストライクが取れるのだ。


 点を取られてしまっても、まだ昇馬と交代したらいい。

 そうも言われたが真琴としては、父親譲りの負けず嫌いの血統が表面化する。

 キャッチャーをやっている時は、常に冷静なリードを心がける。

 だが投げる場合は、キャッチャーとしての慎重さを、また別のものとして頭の隅に寄せるのだ。


 先頭打者はセカンドフライ。

 聖子が問題なくキャッチして、これでワンナウト。

 明後日の決勝のためには、昇馬を完全な状態に持って行きたい。

 将典との投げ合いになるのは、既に必至と考えている。

 だからここで、真琴が投げて終わらせるのだ。


 続く七番に、初めてスルーを使った。

 速いのに手元で沈むボールは、ショートゴロになった。

 守備力だけでスタメンになっている、などとも言われる鵜飼だが、本人は黙々と仕事をするだけだ。

 無事にファーストに送って、これでツーアウト。

 下位打線とはいえ、しっかりと通用している。


 八番打者に対しては、もう代打を送ってきた。

 つまり昇馬のボールに、慣れていないバッターである。

 これが今日の一番の、難しいバッターではなかろうか。

 ここで使った決め球は、高めのストレートである。

 センターへの大きなフライは、アルトが楽に追いかけてスリーアウト。

 かくして3-0のスコアのまま、帝都一の攻撃は残り、1イニングとなったのである。

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