第69話 判断と選択
野球は九回のツーアウトからでも、逆転があるスポーツだと言われる。
それは確かにそうなのだが、優れた指揮官ほどそれは、方便と分かっている。
(あんなボールをホームランにするやつなんて……)
スラッガーとしての才能は、司朗以上であろう。
(父親と同じか)
ピッチャーとしての才能は別として、ホームランバッターとしての能力も持っている。
それは去年の夏から、ずっと分かっていたことのはずだ。
今年の夏の試合も、一回戦で二本、その後の試合も一本ずつは打っている。
父親に比べると数字では下かもしれないが、高校野球史上を見ても、屈指のスラッガーであることは間違いないのだ。
(勝負を避けるべきだったか……)
結果だけを見るならば、確かにそうなのだろう。
しかし結果というのは、出てみないと分からないものだ。
今やるべきことは、追加点を取らせないこと。
もう遅いとは分かっているが、選手たちにそれを感じさせれば、本当に終わってしまう。
まずは打たれたことのないような、ホームランを打たれてショックを受けている長谷川を交代。
センターの司朗とそのまま入れ替えて、また次の回から投げられるようにしておく。
この状況でしっかりと投げられるピッチャーは、帝都一には司朗しかいない。
昇馬の規格外加減を、最も知っているのだから。
アルトはレフト前にヒットを打ったが、次の和真がフライを打ってチェンジ。
追加点を取られることはなく、白富東の攻撃は終わった。
(さて、あとはどう負けるか)
勝てるとしたらそれは、昇馬が故障でマウンドを降りた時に限る。
それ以外は残り、5イニングの攻撃があっても追いつけない。
偶然の負傷に期待するのか。
まさかそんな訳にはいかないだろう。
「センター返しだけを心がける」
ジンの指示には、戸惑うところもある帝都一のナインである。
「タイミングが合わなければバットを余して持ってでも、まずは当てていくんだ」
帝都一もバッティングは、基本的にフルスイング出来るバッターを必要とする。
だが四番だけを集めても、勝てないのが野球というものだ。
それは分かっているが、ジンは中軸に対してさえも、長打を禁じた。
「普通に内野フライにしかならないから、なんならピッチャーのマウンドを狙うぐらいで打っていけ」
それはピッチャー返しで、つまりピッチャーの負傷を狙うぐらいの作戦ではないのか。
ジンは相手の裏を書くような野球は、積極的に行っていく。
ただやってはいけない姑息さなどが、存在するのも高校野球である。
しかしその中に、ピッチャー返しは入っていない。
バッティングの基本はセンター返し、ピッチャー返し、そして振り切る、といったあたりを最初に学ぶだろう。
白富東の守備陣を見るに、ピッチャー返しはかなり有効なのだ。
二遊間であるが、確かにセカンドの聖子は上手い。
だがさすがに全国レベルの男子選手と比べると、守備範囲はやや狭いだろう。
ショートの鵜飼はこれまた全国レベルだが、その隙間を埋めるほどの実力ではない。
またジンはしっかりと、昇馬が投げていながら、負けた試合のことを研究している。
かつて関東大会で、桜印相手に負けている。
その理由は単純で、昇馬が負傷したからだ。
両利きであることの、弊害とも言えるであろう。
グラブがないほうの手で、ボールを捕りにいってしまった。
またサウスポーであると、キャッチしてから一塁への走塁に、やや時間がかかるということも確かだ。
それを考えるとピッチャー返しは、当然の作戦ではあるのだ。
もっともそのピッチャーに、まともにミートする球を打つ、というのが難しい。
ジンとしては昇馬が、グラブをはめていない手でキャッチするという、そんなことにさえ期待せざるをえない。
三点差という点差は、それだけ昇馬相手には、絶望的なものであるのだ。
三点は微妙な点差である。
そして鬼塚はここから、白富東が負けるパターンを、ジンと同じように考えていた。
昇馬の負傷は、過去の経験から学んでいる。
咄嗟に反応するものであるので、もうどうしようもないのかもしれない。
「大丈夫でしょ」
そう昇馬が言うのは、意識の差である。
喧嘩をする時には、ナイフを持った相手に対し、こちらもなんらかの武器を必要とする。
武器には武器で対抗するのではなく、ナイフという殺傷力の高い武器への、盾として使うことが大きいのだ。
グラブは盾である。
その意識を持っていれば、あんなミスはもうないだろう。
(三点差を維持しながら終盤に入れば、ピッチャー交代も選択肢に入れておくか)
鬼塚はその点を、ちゃんと考えている。
別にピッチャーのボール処理ならず、ピッチングには故障の要素がそれなりにあるのだ。
だから終盤までリードをキープできれば、アルトか真琴を使ってもいい。
そしてその場合、使うのは真琴になるだろう。
どのタイミングでそれを話しておくべきか。
少なくともあと一打席、司朗の打席は昇馬で勝負したい。
(普通のチームなら、逆なんだろうけどな)
真琴の左のサイドスローから、投げるボールの軌道は、相当に捉えにくい。
その軟投派の後に、本格派の昇馬が投げる。
こちらの方が基本的には、継投としては王道であろう。
県大会などでは、そういうこともやっていたのだ。
だが帝都一のとの対戦となると、一点を争う勝負になる。
序盤に真琴が打たれて、二点ほども取られてしまえば、それで勝負が決まるかもしれない。
なのでここは温存の意味も含めて、昇馬を終盤に下ろせばいいのだ。
もちろんライトに置いて、いざという時には再び、マウンドに呼び戻すのだ。
決勝の相手が桜印となった場合、また将典との投げ合いになるのは容易に想像がつく。
体力お化けの昇馬であるが、それでも少しでも体力を節約するのにこしたことはない。
単純に昇馬自身の問題ではなく、桜印に与えるプレッシャーにもなるのだ。
準決勝でさほどの消耗もなく、決勝に出てこられる。
昇馬の体力お化けっぷりは、延長で戦った将典が一番良く分かっているだろう。
球数によって途中降板、という可能性は低い。
タイブレークになれば奪三振能力の高い、昇馬の方が有利になる。
それ以前に白富東の攻撃力が上がっていることは、関東大会でも分かっているはずだ。
和真は元々、名門の強豪に行くぐらいの力はある。
加えて白富東の環境にいれば、ものすごい勢いで上達してもおかしくはない。
上達に最適の環境とは、まずは体を作れる環境。
そして周囲に学ぶべき、怪物がいるというものである。
試合の展開はそこから、少し単調なものになってきた。
帝都一はエース長谷川が、すぐにメンタルを立て直してきた。
六回の裏、帝都一はまた一番打者で攻撃が終わる。
次は司朗の第三打席からである。
七回の表、白富東の攻撃は、下位打線が三者凡退。
三点差になった今、真琴はもう無理にチャンスを作ろうと思わない。
そして七回の裏、帝都一の攻撃である。
先頭打者として出てくる、二番の司朗。
第一打席はセンターフライ、第二打席はセンター前ヒットと、バッターとしての数字で考えるならば、やや勝っていると言ってもいいだろう。
昇馬はこの大会、37イニングを投げて無失点。
そしてその間に打たれたヒットは、司朗のものを合わせて四本だけであるのだ。
昇馬からヒットを打っただけですごい。
それは確かに絶対評価で見ればそうなのだ。
しかしこれは試合である。
甲子園を制するためには、ヒットで喜んでいてはいけない。
点を取らなければ、意味がないとさえ言えるのだ。
そして昇馬は、得点を完全に封じている。
昇馬が途中までしか投げなかった岡山奨学館戦も、結局真琴が5イニング投げたが、一点も取られていない。
真琴のピッチングもそれなりに良かったが、そこまでの間に岡山奨学館の打線の、心が折れていたのが大きな理由だろう。
12連続三振という数字で、完全に封じられていたのだ。
メンタルで屈服したチームが、パワーや技術だけで逆転するのを、司朗は見たことがない。
(しょーちゃんはやっぱり、考え方というかメンタルの持ちようが、高校球児とは違うんだ)
そのあたりは本当に、父よりも伯父に似ている。
司朗も直史や昇馬と共に、山歩きをしたことはある。
だが山の近くで育った直史や、自然の中を歩く昇馬とは、どうも勝手が違ったものだ。
登山道ではなく、獣道が多い佐藤家の山。
そこを歩くというのは、足首にかなりの負担がかかる。
ただ直史も昇馬も、ひょいひょいと登っていったのだ。
足首の柔軟さや、膝や腰のサスペンション。
そういった部分こそが、故障しなかったりコントロールが安定する、二人の力になるのだろう。
また数時間をかけても、平然と呼吸が乱れない。
体力を単純に、長距離走や連続ダッシュで測るなら、司朗も負けないであろう。
だが登山というのはどうしても、一定の動き以外が必要になるのだ。
昇馬は確かに、フィジカルに優れている。
だがそのフィジカルは、今の科学的なトレーニングが作り出した、分かりやすいフィジカルではない。
実際に昇馬は、高校に入学した時点で、既に上半身まで筋肉がしっかりとしていた。
成長を妨げず、それでいてちゃんと筋肉がついている。
それが昇馬の肉体であったのだ。
ナチュラルな動きの中で、作られた肉体。
必要に迫られて、身についた筋肉。
ピッチングの動作の最適化は、確かにされているだろう。
だがその前段階で、昇馬は肉体の芯の部分が、ものすごく強靭なのだ。
(それとあとは精神性か)
メンタルの強さ、というのは違うであろう。
昇馬のメンタルは、異質なのである。
アメリカ育ちが自分よりも長かったことも、無関係ではないだろう。
甲子園というものに対する、緊張感などを感じさせない。
こうやって対峙して、帝都一の大応援団を相手にしても、全く気にした様子がない。
(ヒットを打っても、動揺しないんだよな)
ならばホームランを打ってやろうか。
ただそれも難しいと、司朗は分かっている。
昇馬のスピードボールに対する対応。
それは一応最新のマシンで、165km/hに目を慣らしている。
だが実際の昇馬のボールは、もちろん軌道が違うのだ。
さらにマシンと違って、ちゃんとコースを投げ分けてくる。
フルスイングでは、間に合わないのだ。
なのでジャストミートによって、パワーの伝達を最大にしたい。
しかし第二打席では、それに失敗して単打になってしまった。
昇馬は絶対無敵のピッチャーであるが、本当に絶対無敵であるはずもないのだ。
なぜならばMLBでは、ほぼ165km/hを投げる先発ピッチャーがいる。
それを別にしても、上杉や武史は、NPBで170km/hを投げながらも、負けた試合がちゃんとある。
そう、プロのレベルに達しているなら、少しぐらいは点が取れてもおかしくない。
ただし帝都一でさえ、プロに行って一軍で通用するようなバッターは、一学年に二人いればいい方だ。
一番の三浦はリードオフマンで、昇馬のボールに当てることは出来ている。
だが確実にヒットにするのは難しいというか、全く出来ていない。
三浦が出て、司朗が返すというのが、現実的なところであったはずだ。
しかしその現実的な機会が、ここまで一度も訪れていなかった。
このままなら九回の裏に、もう一度三浦の打席が回ってくる。
そこで塁に出られるか、出られたとしても司朗が返せるか。
ほぼこれは無理だ、と考えていいだろう。
昇馬がワンバンのボールなどを、ホームランにするからだ。
一点差ならばまだしも、同点は現実的であった。
しかし三点差になった時点で、逆転などはほぼ不可能。
期待するのはまさに、昇馬の負傷ぐらいであるのだ。
従兄として、それを期待するのは不謹慎すぎるし、普通に勝負するつもりしかない。
ここで狙うのは一発である。
もしもホームランが出れば、もう一度確実に司朗に打席が回ってくる。
それでも三点差は追いつかないだろうが、可能性は0ではない。
また昇馬の無失点神話も、そろそろ終わらせてやろう。
司朗としてはそう考えていたのだ。
鬼塚はこういった帝都一側の考えを、バッテリーと共有している。
そもそも、そう考えるしかないだろう、という話でもあるのだが。
するとバッテリーとしては、司朗を出来れば単打までに抑えたい。
そして続くバッターを抑えて、得点さえ防げばいいのだ。
普通のピッチャーであるならば、ヒットすら打たれたくない、と強烈に思うだろう。
だが昇馬はそのあたり、本当にドライなところがある。
別に力比べなどが、嫌いなわけではないのだ。
ただ試合の勝敗を最優先にした場合、冷徹に判断をすることが出来るのだ。
(まあせっかく千葉から応援に来てる人もいるわけだしな)
しかし司朗との勝負自体を、避けるわけではない。
甲子園というこの場所では、ピッチャーに強打者との勝負を、強制する圧力がある。
もちろん昇馬であれば、そういったプレッシャーなどを、完全に無視することも出来る。
だが一度敵になった球場は、決勝も桜印の応援をするだろう。
あくまで勝負した上で、単打にまで抑えてしまう。
そもそもヒットすら打たせないことも、昇馬ならば可能なのだが。
司朗の集中力と、得点圏での長打力。
昇馬を打てるとすれば、それは確かに司朗だけなのだろう。
昇馬の配球は、ストレートから始まる。
司朗はそれに合わせていったが、ボールはまたもバックネットに突き刺さった。
当たることは当たったが、ファールにしかなっていない。
(しかもボール球か)
高めのストレートは想定していたし、昇馬の気配も強いものであった。
しかしその中身はボール球であった。
これでは司朗も打てないというものだ。
二球目からは変化球を使ってきたが、司朗でも昇馬の意識が読みきれない。
真琴がリードしているのは間違いないが、それが昇馬のところで止まってしまっている。
(くそ、こんな形で)
結局はバットを合わせてしまった。
スラーブを左方向に打って、レフト前のヒットにはなる。
だが求められていた長打には、届いていないのだ。
ノーアウトのランナーである。
この試合で一番、帝都一のチャンスとも言えるところ。
ジンはここでバッターに求めるのは、粘っていくということ。
キレイな形でなくてもいいから、とにかく出塁するのだ。
帝都一の中軸が、グリップを余して持っている。
だがその程度では、対応は不可能なのだ。
昇馬の視界に入る中で、ランナーの司朗は少し動く。
下手にリードを取りすぎると、昇馬のスナップで牽制をされる。
そして昇馬はランナーを出さないのに、ちゃんとクイックでも投げられるのだ。
昇馬のピッチングは、少なくとも左に限れば、かなり洗練された連結から投げられている。
タメを無理に作ることもなく、スムーズに投げているのだ。
司朗が一応は、盗塁のチャンスを伺う。
しかしサウスポーキャッチャーの真琴も、ちょっと盗塁する隙がない。
サイドスローで130km/hを投げるのだから、充分にスピードはあるのだ。
そして投げるまでの早さは、他の試合でわずかながら、映像としても残っていた。
相手がさほど走塁が上手くなかったということを差し引いても、しっかりと二塁でアウトにしている。
わずかなチャンスを、盗塁失敗で潰すわけにはいかない。
結局のところは、戦力が足りないのだ。
どうにか昇馬を打てるかもしれないバッターを、あと二人ほど揃えるべきであった。
しかし帝都一の中軸は、間違いなく大学でも野球を続けるような、そういうレベルの選手である。
ちょっと成長すれば、プロに行くかもしれない。
そういったバッターが、あっさりと内野フライで抑えられてしまうのだ。
これはもう、ピッチャー返しとかいうレベルではない。
とにかくコンパクトなスイングで、どうにか当てていく。
しかし緩急を付けられては、それもまた役に立たない。
(ランナーのいる状況では、申告敬遠で歩かせるべきだった)
その判断をしなかった、自分のミスだとジンは思う。
もちろん一点を先制された時点で、かなり勝率は下がっていたのだ。
それでも一点ならば、相手にもプレッシャーがあったhずだ。
司朗は第二打席と同じく、二塁に進塁も出来ない。
そのまま三振を奪われて、帝都一の攻撃が終わる。
バッターとしては、三打数の二安打。
しかし全く勝った気がしない、今日の司朗であった。
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