第61話 開幕から
今年の白富東は、四日目の第二試合が初陣となる。
それまでは充分に体を休ませるべきであるが、同時に調整もしておかなければいけない。
基本的には早ね早起きを心がける。
起きてから一時間半は、人間の体はちゃんと目覚めていないと言われる。
本格的に性能を発揮するには、四時間が必要という説もある。
ともあれ第二試合は、10時35分から試合開始となっている。
ここまで来たからには、もう今から上手くなるというのは、試合の中だけでしかありえない。
高校生というのは本当に、甲子園のブーストをかけられて、一気にステージが上がってしまうことがある。
だから練習においては、今までにやってきたことだけを、しっかりと繰り返すのみ。
暑さに慣れる程度には、適度に調整の練習をする。
もっとも初日の開会式、お偉方の挨拶の間に、熱中症で倒れる選手が数名いた。
昇馬は完全にアルトと一緒に、襟などを開けて風を送り、周囲からの視線を浴びていたが。
高校球児らしくないのだ。
そして二人とも、高校球児であるという意識などない。
単に高校の全国大会の、決勝をする会場にやってきたということのみ。
もっともその熱量が、アメリカやブラジルのハイスクールのスポーツでは、ちょっとありえないものなのである。
一日目がとにかく始まった。
第一試合の勝利者は、近畿の中で唯一、まだ全国制覇をしていない滋賀県代表の琵琶学園。
かなりの打撃力があったが、やはり近畿の近隣出身だと、有利なところはあるのか。
もっとも滋賀県から兵庫県までは、相当の距離があるが。
どこの代表でも宿に泊まっているため、選手たちにはあまり関係がない。
重要なのは応援が、どれだけやってこれるかということなのだ。
この日は他に、近畿の中では奈良県の代表も試合をしている。
これまた勝っているのは、同じ近畿だからという理由で、地元の高校野球ファンが応援しているからだろうか。
実際に近畿のチームは、勝つことが多い。
特に大阪はいつの時代も、優勝候補に入れられることが多い。
もっとも県内一強や、県内二強という場合もあるのだが。
甲子園らしい、緻密な野球ばかりではない。
最新は緻密でありつつも、フィジカルを重視している。
ただ日本の場合、技術に関しては既に、高校野球の段階で、ほぼ全てが身についている場合もある。
ともあれ一日目は終わった。
近畿のチームの打撃力が目立ったが、もし対戦するとしたら準々決勝以降になるはずだ。
四日目が初陣となる白富東は、それまでもぼちぼち体を動かす。
ここで無茶な練習をする理由はないが、暑さには体を慣らしておかないといけない。
試合の時間だけではなく、待機している時間も考える。
まったく、夏の甲子園は地獄である。
だが昔は一回戦から、毎日四試合を消化していたのだ。
昨今は三試合ずつであることが多いため、試合日程は楽になっている。
ピッチャーは最低でも、中一日は休めるようになったこともある。
もっとも昇馬にとっては、そんなことは関係ないが。
野球はなんだかんだ言いながら、安全なスポーツである。
昇馬の経験からすると、もっと極限状態に陥ったことは何度もある。
暑いということは、寒いということよりはマシ。
さらにベンチに戻れば、ちゃんと補給も出来るのだ。
そして大会四日目。
愛知代表の名徳が、二回戦進出を果たしていた。
野球強豪校の多い、甲子園制覇の回数も多い、愛知の代表。
隙のない堅実な試合運びで、ピッチャーも継投してわずかに一失点に抑える。
得点はこれまたチャンスを見逃さず、地方大会ならコールドの、9-1というスコアで勝利。
優勝候補の一角であるのは確かだ。
もっとも今日のマスコミや高校野球ファンは、第二試合にこそ注目している。
フルスイングの桜島実業を、昇馬がどう抑えるか。
160km/hのマシーンで、単純な球速なら問題なく打ち返せる。
ただ昇馬の球速は、既に165km/hに達している。
しかも人間の投げる球は、マシンのボールとは比べ物にならない。
この試合、鬼塚にはためらいがあった。
桜島実業の長打率は、大会の出場チームの中で、最も高いものである。
またホームランの確率も、大会では一番。
狂戦士薩摩の血を引く鹿児島県民は、けっこう色々と勘違いされるところがある。
鬼塚も勘違いはしているが。
意外とここは最初、真琴あたりを先発させたらどうか、という考えもあったのだ。
技巧派と軟投派、そして変則派が重なったような真琴。
ならば意外と打たれないのでは、という考えである。
しかし打たれてしまえば、試合の勢いが一気に傾きかねない。
昇馬をまず試してみて、通用しなければそれこそ終りだ。
まずは昇馬が通用するか、根本的に試さなければいけない。
先発にはエースを持ってきたのだ。
打撃のいいチームというのは、それなりに多い。
また打撃とは別に、得点力の高いチームというのも存在する。
だが桜島実業のモットーは、プロで四番が打てるバッターを輩出する、というところにある。
ほとんどのバッターは、四番のスイングをしていくのだ。
ピッチャーでさえ長打が打てるというか、エースナンバーを背負っている人間は、ピッチングが出来るスラッガーである。
高校野球までは二刀流の、エースで四番など珍しくない。
大学野球でさえ、四番ではなくてもクリーンナップを打つ選手はいるのだ。
そもそも昇馬がそういう存在であろう。
打順こそ四番ではないが。
一回の表、桜島実業の攻撃。
メットを外して礼をしてバッターボックスに入ったトップバッターが、分かりやすく吼えた。
「キエエエエエェッ!」
猿叫というものである。
獣の威嚇だな、と狩人である昇馬は意識を変えた。
普段は本気でやってはいるが、この瞬間にさらに尖らせる。
バッターに向けた意識には、殺気が乗っていたのだ。
160km/hオーバーを見てみたい。
一回戦から既に、甲子園は満員であった。
だがこの日のバックネット裏の争奪戦は、いつにも増して激しいものである。
そして昇馬も容赦がなかった。
初球から162km/hという数字が出て、真琴のミットを揺らした。
よくもあのボールが捕れるものだな、とはよく言われていることである。
左利きのキャッチャーというものには、色々と制限がある。
内野もファースト以外は、基本的に左利きはいない。
体を捻って投げる分、わずかに右よりも不利であるからだ。
だが一番左利きのキャッチャーがいない理由というのは、しごく単純なものである。
一度絶滅してしまったため、教えられる人間がいなくなったのだ。
奇人変人ランキングでは、直史も上位と認める坂本は、左利きのままメジャーにおいて、キャッチャーをやっていた。
メジャーの舞台で通用していたのであるから、出来ないわけではないはずなのだ。
左利きの内野手というのも、いないわけではない。
コンマの時間のロスと、純粋な技量によるプラス、どちらを取るかという話だ。
いくら真琴でも、本来の利き腕である右でなければ、昇馬のストレートやムービングは捕れないだろう。
わざわざ変えた左投げで、ピッチャーをこそしているが。
160km/hオーバーを相手に、ちゃんとフルスイングしようとしただけ、桜島の一番は立派であった。
もっとも完全にタイミングが遅れていて、バットとボールの間も離れている。
(コースを指定した方が、逆に打たれるかな)
真ん中あたりのストレートと、ムービング系。
あとはスラーブにチェンジアップで、相手のタイミングを外していく。
いくらスピードボールに強くても、昇馬はそれだけではないのだ。
緩急でタイミングを一定にさえしなければ、打たれることはないだろう。
そう思っていたのだが、続く二番と三番も、完全にフルスイングしてきた。
(馬鹿?)
真琴がそう思っても仕方がない。
完全に振り遅れているのだから、工夫をしないといけないだろうに。
フルスイングをするにしても、ちゃんとタイミングに対応できなければいけないのだ。
止まったボールを打つスポーツではないのだから。
三者連続三振で、まずは順調な滑り出し。
だがフルスイングを相手にしていては、むしろキャッチャーの真琴の方が、気力を削られる気がした。
バッテリーに必要なのはなんであるか。
信頼関係、と言う人間は多いであろう。
仲が悪くても認められれば、そのサインに従うことは出来る。
ただ鬼塚からすると、バランス感覚が重要なのだと思う。
鬼塚はプロにおいては、外野を守ってきた。
どこも出来るがライトというのは比較的少なかった。
昨今ではレフトというのは、かなり外野の中では楽なポジションになっている。
言い方が悪ければ、ファーストやライトなどの右方向が、やることが多いポジションになっていると言うべきか。
その鬼塚は中学シニア時代、ピッチャーもやっていたが外野だけではなく、キャッチャーや内野もやっていた。
高校ではあまりピッチャーとキャッチャーはやらなくなったが、内野はそこそこ守っている。
そういった経験からキャッチャーと、ピッチャーの関係にも気付きがある。
他のポジションはそんなことはないのに、なぜピッチャーとキャッチャーは、バッテリーというのか。
これはピッチャーの投げるボールを、大砲にたとえてラテン語の「打つ」という意味から来ているというのが正しいらしい。
だが鬼塚はピッチャーとキャッチャーの、それぞれのプラスとマイナスを、上手く使うところに意味があると思っている。
なるほどそちらのバッテリーか、と納得する人間もいるだろう。
ピッチャーが強気である時に、キャッチャーは弱気。
ピッチャーが弱気になった時に、キャッチャーは強気のリードをする。
そうやってバランスが取れていることが、いいバッテリーの条件だと思うのだ。
ただ昇馬と真琴がいいバッテリーかというと、ちょっと疑問が残る。
基本的には真琴が決めるが、昇馬は重要な相手と野生の直感で、色々と判断してくるのだ。
今のところは問題がない。
しかし桜島のフルスイングを、もっとも近くで見るのは真琴である。
「当たらなければどうということはないからなあ」
気の抜けた声で、そう言葉をかける鬼塚である。
実際にそうであり、そして当たったとしても、得点にさえならなければいい。
さらに言うなら、点を失ったとしても、それ以上に点を取ればいいのだ。
本日も一番バッターは昇馬である。
さすがにこの相手には、打順を変えようかとも思ったのだが、データによる理由などはない。
とりあえずは先制点を、そのバットで奪ってもらおう。
そう思っていたところ、初球を完全に叩いていた。
(あ~、なんか思い出してきたな~)
鬼塚が思い出す、桜島との一戦。
昇馬はやはり、大介の息子で間違いないのである。
殺す気でバッターボックスに入ってきている。
だがそれに殺意で応じたりはしない昇馬だ。
獣の殺気というものを、昇馬は知っている。
それは警戒心か、そうでなければ捕食のための行動。
縄張りを侵犯された獣は、攻撃的になるのが一般的だ。
日本には熊がいるし、アメリカにもいた。
アメリカにはむしろ、危険な動物がたくさんいたのだ。
水辺にはワニがいて、普通に食われて死ぬ人間がいる。
日本にやってきて、住宅地の熊の駆除に反対する運動を知り、日本人って馬鹿だったのかな、と思ったこともある。
190cmオーバーで、殴れば普通に成人男性を殺せるパンチ力がある昇馬だが、それでも熊は怖い。
立ち上がって180cmほどしかなくても、熊には絶対に敵わない。
そもそも筋肉の絶対値が、人と他の獣では違いすぎるのだ。
ニホンザルと戦ったら、人間は勝てるだろうか。
勝てる人間もいるかもしれないが、おおよそは負ける。
もっとも向こうの方が素早いので、ほとんどの場合は逃げてくれるだろう。
ただ昇馬は銃でもあるならともかく、それ以外では中型犬までがせいぜい、素手で相手出来るものだ。
それぐらい本物の、野生というものを知っている。
人間の殺意というのは、この場合は単なる気迫だ。
いくら殺す気でやっていても、それは気合を入れるためのものでしかない。
アドレナリンを分泌させ、限界を超えたプレイはしてくるのかもしれない。
だが昇馬は問題なく、三振を奪った。
「右で投げても良さそうだな」
昇馬は桜島打線の本質を、そう見破っていた。
一回の裏、ストレートをそのままライトスタンド上段にまで運ぶ。
自身の一発で、まずは先制点。
ここは殺し合いの場所ではない。
そこに意図的に殺気を持ち込むことで、相手を萎縮させようという作戦であるのだろう。
実際のところ桜島は、そんな難しいことは考えていない。
だが昇馬には、そういうものは通用しないのだ。
本物の銃口を向けられた経験が、どれだけあるだろうか。
あれに比べればバッティングの打球など、致命傷になる可能性は極めて低い。
そう考えているのは、二番のアルトも同じである。
さすがにスタンドには運べなかったが、センターにフェンス直撃弾。
二発連続の長打である。
桜島は確かにコールド勝ちが多いが、それは相手が諦めてしまうからだ。
そして諦めてしまう必要など、どこにもないのだと先輩二人が教えてくれた。
三番の和真もまた、相手のストレートを振りぬく。
一応は140km/h出ているのだが、それは問題ではなかった。
気迫のこもったいいストレートなのかもしれないが、本物のストレートというのは、単純に気合だけで投げるものではない。
イニング二本目のホームランで、早くも3-0となる。
ただ白富東も長打力が高いのは、この三番までなのだ。
いつまでこれを続ける気なのか。
もっと作戦というか、他の方法を持っていないのか。
鬼塚はそう考えるが、昇馬のストレートを捉えられないのに、フルスイングを続ける桜島。
もっとも昇馬でなければ、確かに途中で萎縮してしまうかもしれない。
「ボール球でも振ってくれるから、けっこう楽だな」
ストレート一本槍ではなく、チェンジアップも使っていく。
変化球は時折、スラーブを混ぜていくぐらい。
それにまったく対応できていない。
ストレートだけを狙ってきている。
そのストレートにさえ、わずかにかすることがほんの数度。
最終的には三振するか、内野フライが少し出るだけ。
二桁安打が当たり前の桜島実業を、昇馬は普通に抑え続ける。
ただ他のピッチャーに変わってもいいかな、とは言わなかった。
こういう野球の仕方もあるのか、と思っただけである。
頭の悪い攻撃のように思えるが、これは精神戦だ。
ストレートに自信のあるピッチャーであっても、これだけフルスイングが続けば、変化球を多くしたくなるだろう。
ただその弱気で投げる変化球は、おそらくコントロールがつかないのだ。
だから昇馬は、コントロールが少しアバウトな、右でも桜島に投げていった。
試合展開は、スコア自体を見れば一方的なものである。
昇馬が二打席連続でホームランを打って、バックネット裏のスカウトを動揺させても、昇馬自体は何も動じない。
そして点差が広がっても、桜島は変わらない。
愚直なまでにフルスイングを続け、ピッチャーはどんどんと継投して行く。
実際に白富東は、下位打線はそのスイングを警戒しているのだ。
自分たちとあまりにも違うので、普段の攻撃が出来ていない。
高校野球は気迫で決まる、などというのは昭和の話であろう。
だがメンタルでの攻防と考えるなら、桜島のやり方も分かる。
しかし今回は致命的に、相手のピッチャーとの相性が悪かった。
三打席目の昇馬は、もうこれ以上は点はいらないな、と見逃し三振。
甲子園はコールドがないので、バッティングにあまり力を入れる必要もない。
対してアルトは、好き放題に打っていた。
なにせこの試合、外野にボールが飛んでこないのだ。
三打席目にはセンターの深いところに放り込み、白富東の白い三連星とでも言うべき、長打力を見せ付ける。
なお九番に入っている真琴は、昇馬の球種にストレートが多いので、バッティングは自重していた。
しかし白富東のバッターも、終盤には桜島のピッチャーを攻略する。
継投はしてくるが、さほどピッチャーに変化はない。
サウスポーが一人はいたが、それを活かしてはいないのだ。
桜島は愚直であった。
ここまで貫けば、それはそれで凄いのだろう。
しかし現代野球は、頭脳野球でもあったはずだ。
確かに鋭いフルスイングは、フィジカルも鍛えているということに間違いはないのだろう。
だがここまで一方的になった時、何か手を打ってくることもない。
作戦の幅がなさすぎる。
九回の表、桜島は七番からの攻撃。
代打が出てくるが、ランナーは出ない。
さすがにここまで試合が進むと、向こうも気力が切れてきたか。
ただ試合時間自体は、それほど長くもならない。
なにせ桜島が、全て三者凡退してくれているのだから。
ちょっとコントロールミスをして、当ててしまったボールにさえ、スイングをしてきた。
おかげでデッドボールにならなかったが、もう少し考えて野球をするべきではないのか。
フィジカル野球というのは、どうフィジカルを鍛えるかを、考えてする野球のことである。
そして27人目のバッターが、内野ゴロで倒れる。
ヘッドスライディングをやったが、完全に間に合っていない。
ピッチャーの昇馬が右手で投げたので、少しだけファーストへの送球に不安があったが。
23奪三振、内野フライ三つ、内野ゴロ一つ。
センバツの一回戦で記録した、己の甲子園自己最多タイの奪三振記録である。
同時にパーフェクトをしていることも同じで、球数も92球。
ある程度バットに当てられたのが、むしろ不本意であったか。
ファールにはなったが、外野に飛ばされたボールもあったのだ。
もっともその後には、165km/hを投げて三振に打ち取ったが。
怪物は健在である。
それを全国が知る、一回戦の試合であった。
なお9-0の圧勝であったが、昇馬としては確かに、油断の出来ない相手ではあった。
最後まで戦意を散らさなかったのは、さすがに見事であったと言えよう。
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