第35話 敗北の糧
正直なところ昇馬自身は、右で投げればいいやと思っていた。
だが鬼塚がそれを許さず、すぐに医者に行かせたのだ。
実際のところ、診断を受けたものの、打撲のようなものと言われたのみ。
もちろん衝撃で、それこそ皮膚下の組織などは、ある程度潰れたであろう。
だが骨や筋などには、全く問題がないという結論。
内出血の腫れが引けば、問題なく投げられるだろう。
やはり投げてしまっていれば、勝てたのではないか。
ただ翌日、どうせ無理だったか、と昇馬は認めた。
膨らんだ左手は、とてもボールを投げられる状態ではない。
またそちらにグラブをはめるのも、難しいほどの腫れ具合だ。
あのまま投げ続けて勝っても、結局は決勝で投げられなかった。
ならば準決勝敗退も、仕方のないことなのか。
キャンプや登山にしても、危険を感じたらすぐに撤退。
鬼塚の判断は、それと似たようなものであったのだろうと、昇馬も納得した。
なお関東大会は、桜印が問題なく優勝した。
これによって神宮大会への出場も決まったわけである。
決勝も7-0と一方的なものになっていた。
しかも将典をある程度、温存しての結果である。
刷新にしても準決勝で、主力投手を使ってしまったという条件ではあった。
だがそれを考えたとしても、選手層は桜印が厚かったという話である。
自分たちが出られなくなった神宮大会は、もう考えなくてもいいだろう。
鬼塚は昇馬が全治二週間と聞いて、練習試合の予定などを立てる。
ただその二週間というのは、サウスポーとしては二週間というもの。
右で投げるなら腫れが引けば、それで問題ないとも言われたのだ。
また骨折などはしていないため、キャッチボール程度ならやっても問題ないと言われた。
対外試合禁止期間に入るまでに、やっておきたいことは多い。
冬に入れば完全に、フィジカルトレーニングに入っていくからだ。
新チームになってからは、まだまだ試合の経験が足りていない。
二遊間が比較的強く、そこからセンターラインまでが磐石なのが、せめてもの救いであろうか。
ただ聖子は小回りこそきくものの、守備範囲はそこまで広くはない。
そこはやはり、女子選手のフィジカルの限界と言ってもいいのだろう。
重要なのは真琴以外に、昇馬のボールを捕れるキャッチャーがいること。
もっともそんなキャッチャーを、すぐに育てるのは難しいが。
来年の新入生にも、さすがにキャッチャーは期待できないであろう。
キャッチングやブロッキングなど、リードまで含めた優秀なキャッチャーは、高校レベルならそれだけで充分とも言える。
もちろんプロに比べれば、バッティングも期待はされる。
それでも高校野球の段階では、むしろピッチャーに打撃力が備わっている場合が多い。
昔に比べれば、一人のエースが投げぬく時代ではない。
鬼塚の現役時代からも既に、それは言われていた。
だが現在は完全に、継投の時代になっている。
一人で投げぬくなどというのは、一つの大会でも一度あるかどうか。
投げぬくこと自体は出来ても、消耗した分の回復が、中一日程度では足りないのだ。
その点でも昇馬の登場は、高校野球にとって衝撃的であった。
球速もコントロールも、確かにとんでもないものだ。
おまけにバッティングでも、傑出したものがある。
だが最大の脅威というか、他に比べて突出したものはスタミナだ。
持久力もであるが、回復力も圧倒的であるのだ。
実際に昇馬はあの決勝の後も、普通に秋の大会までに、体調を戻してきていた。
普通なら夏の甲子園、決勝まで一人で投げぬいたら、しばらくは回復に時間をかけても仕方がないのに。
秋季県大会も、準々決勝からは投げている。
それも準決勝と決勝は完封だ。
このあたりの完封能力と連投能力は、まさに母方の伯父である直史に似ているのかもしれない。
もっとも直史は基礎体力が優れているのではなく、ペース配分が得意なピッチャーなのであるが。
敗北したとはいえ現在、高校野球最強の選手が昇馬であることは、おおよその人間が同意するであろう。
負け方にしてもその格が、落ちるようなものではなかった。
なにしろそこまでは、ヒットとデッドボールを、一つずつに抑えていたのであるから。
ちなみに元プロの鬼塚からすると、内角でしっかりとストライクが取れて、デッドボールを恐れない昇馬というのは、メンタル的にもプロ向きである。
それに160km/hを内角に投げ込まれたら、ほとんどの高校生はもう、外角を打ちに行くことが出来なくなるのだ。
11月の中旬から、神宮大会が始まる。
そろそろ新チームも、形が定まってきた頃であるだろう。
一方で敗退したチームとしては、練習試合を組みまくっている。
県外の強豪とも組めるのだが、その時に向こうが要求するのはただ一つ。
昇馬を試合で投げさせる、というものだ。
鬼塚としても、それは特に問題はない。
さすがにフルイニングは投げさせないからである。
それと昇馬はこの練習試合では、その特性を上手く発揮する。
なにしろ右でも投げられるのであるから。
週に一試合以上は、県外強豪との練習試合を組む。
主に向こうがやってきてくれるのは、やはり夏の優勝チームであり、エースがちゃんと投げるからだ。
しかし鬼塚が約束するのは、長くても六回まで。
もちろん展開によって、また昇馬の体力によっては、完投させることもあるのだが。
鬼塚が確認したいのは、昇馬のことだけではなかった。
左手は確かにすぐに治ったし、それは問題ではない。
重要なのは昇馬の投げないイニングで、アルトと真琴がどう通用するか、というものである。
週に一度は県外強豪と試合をし、もう一試合は県内の中堅と行う。
そういったチームにはアルトや真琴の他に、二年生の筧も使っていく。
ピッチャーは多ければ多いほど、有利になるのが高校野球である。
重要なのは甲子園だけではない。
甲子園に行くまでに、どのように県大会を勝ち抜いていくかだ。
この秋も関東大会は昇馬一人に頼っていたが、県大会では他のピッチャーも投げている。
そして重要なのは、桜印相手に2イニングだけだったとはいえ、真琴は一失点で済ませたのだ。
もちろん桜印も、一点あれば勝てるだろう、という目論見もあったのだろうが。
真琴はスタイル的に、大量失点はそう許さないものの、完封をするのは難しいタイプだと言える。
現在の白富東の戦力では、その一点や二点というのが、致命的になりかねない。
昇馬やアルトが打ってくれて、一度火が点けば話は変わる。
だがそれがなければポテンシャル的には、県内の中堅校相手に互角以下の打撃力なのだ。
スモールベースボールで、点を取ることを考えている。
作戦で勝つということは、偏差値の高い白富東にとっては、それほど難しいことではない。
また守備の練習は、しっかりとやっている。
マジメにやればやるほど、しっかりと成果の出てくるのが、守備なのである。
そしてこの季節に入ると、ようやく本格的に、フィジカルを鍛えられるようになる。
もちろん毎日部分ずつ、フィジカルトレーニングは行っている。
しかしそれが中心になってくるのが、この対外試合禁止期間前からなのである。
さすがに関東大会を制した桜印に、1-0で負けたベスト4の白富東が、センバツに選出されないはずはない。
ただもしも問題があるとしたら、それは昇馬の怪我のことである。
その懸念を払拭するためにも、短いイニングではあっても、鬼塚は県外の強豪との試合に、投げさせることとしたのだ。
左だけではなく、右をも含めて。
もっとも今回の話については、ちょっと別の問題がある。
両利きであるがゆえに、グラブのない方の手で、キャッチしにいってしまった。
あれを完全になくすように、守備をしっかりと意識する。
フィールディング自体はいいものなのに、あんなことをしていては意味がない。
いっそのことサウスポーに固定化した方がいいのでは、とさえ思ったものだ。
昇馬も本来的には、サウスポーの方がコントロールなどもいいのだ。
ただ全ての行動を、両手でしっかりと出来るように、と教育されていただけで。
実際に右でも投げることによって、体軸のバランスが取れているという実感はあるらしい。
そのためさすがに、右を封印するということは、鬼塚も言えなかった。
あの試合に負けたのは、迂闊な守備をした昇馬のせいであろうか。
確かにそうとも言えるのだが、そもそも勝ち残っていたことこそが、昇馬のおかげでもある。
問題はそれよりも、昇馬に任せきりにならない二番手ピッチャー。
アルトは現時点で145km/hを投げているので、相当の名門のピッチャーとしても、二番手なら充分ではある。
だが練習試合をしていると、むしろ真琴の方が安定していたりする。
アルトは力勝負をしにいった時は、それなりに打たれてしまうのだ。
一方の真琴は、強打者相手でもかなり封じられる。
しかし下位打線でも、器用なバッターには打たれたりする。
フィールディングにおいても、左であるという点からか、わずかに遅いような気もする。
二年のピッチャーの筧は、もう公立校のエース、というのが普通のピッチャーである。
ただそれだけに弱小と当たるのであれば、普通に通用するピッチャーではある。
ピッチャーのスタミナ配分という点もそうだが、今は情報戦の時代なのだ。
他のチームに情報を与えないため、出来るだけ多くのピッチャーを揃えておく。
情報を与えたとしても、対応出来るかどうかは別の話だが。
極端な話、昇馬ならば全国の強豪トップ10ぐらい以外には、ほとんど点も取られないだろう。
実際に夏の甲子園では、無失点であったのだから。
ここからまださらに成長するだろうが、同時に研究もされていく。
夏の六試合に加えて、マリスタでやった試合が何試合かテレビで放送されている。
そして関東大会では、相当の数の偵察がやってきたものだ。
地方大会ではなく甲子園で、どの試合もおおよそ20個近くの三振。
これだけの奪三振能力は、上杉や武史以来である。
また無失点と言うならば、やはり上杉以来であろうか。
そんな上杉は一度も、自身では優勝出来なかったのであるが。
昇馬の才能と成長が、どれだけ相手の成長と研究を上回るか。
このあたり鬼塚としては、専門的なピッチングのコーチがほしい。
もちろんこっそり教えてくれる、現役の最強ピッチャーなどはいる。
だが実際に見ながら、修正をしてくれるようなコーチはいないものか。
別に元プロなどの肩書きがなくても、優秀なコーチというのはいる。
そもそもプロよりもアマチュアにこそ、そういうコーチはいるものかもしれない。
プロのコーチというのは、既にある程度完成しているのが、前提に考えていたりする。
また自分が元ピッチャーであるだけに、出来ない人間のことが分からなかったりする。
その意味ではプロ野球関係者であり、元ピッチャーだったというこの人も、ある程度は頼れるのではないか。
「無事に治ったみたいだな」
レックスのスカウトである、大田鉄也。
鬼塚にとっては先輩にあたる、ジンの父親である。
もう定年は過ぎているのだが、そこからフリーでまだ契約をしてスカウトとして活動している。
選手自身と話すのは、さすがに問題はある。
だが指導者と話すのは、ごく普通にあることだ。
二年後のドラフトの目玉になるのは、既に分かっているのが昇馬である。
ただあまりにも本命過ぎて、スカウトの出る幕がなかったりする。
もちろん関東大会のいきさつは知っていて、無事に投げているかを確認する、球団のスカウトは多かった。
鬼塚も全球団のスカウトから、名刺を貰っている。
鬼塚の古巣のマリンズは、やはり取りたいと言っている。
ただ競合必至であろうし、今は逆指名などもない時代だ。
しかし競合しにくくする条件というのは、選手の方からも出せるものだ。
たとえばドラフトの以前に、ポスティングについて条件を出しておくことなど。
ポスティングを容認しない球団には行かないとでも言っておけば、動きが鈍る球団は二つほどある。
レックスはその点、ポスティングについてもかなり寛容だ。
さほどの金満球団でもないため、ある程度の活躍をしてくれたなら、容認している。
直史などは二年しかNPBにおらず、ポスティングで移籍している。
昇馬のスケールから考えると、故障でもしない限りは、MLB移籍が有力と思われる。
ただ当の昇馬は、MLBのあまりに過酷な試合日程に、疑問視するところがあるのだが。
またMLBの場合はピッチャーの、あまりに多いトミージョンなどがよく言及される。
そのあたりは肉体の頑健さに、昇馬は自信があるのだが。
下手に父が野手で有名だっただけに、逆にピッチャーの過酷さが分かっている。
野手は野手で、年間全試合出場というのは、大介でも毎年達成などは出来ないことであったが。
おおよそ一試合か二試合、休んでいるシーズンが多かった。
MLBで成功したいなら、直史のようなピッチングを身につけるべきだろう。
だがあれはもう、技術と言うよりは特殊能力であって、頑張ってどうにかなるようなものでもないと思うが。
鉄也の目から見ても、昇馬は上杉や武史と並ぶ、パワーピッチャーの素質がある。
ここまでの結果を出していながら、まだ素質である。
冬を越えてどこまで、成長するのか分からない。
そう思わせる圧倒的な、ピッチャーとしての才能を感じる。
単純なパワーピッチャーというだけではなく、しっかりと緩急も使えるのだ。
鉄也に少し話してみたものの、やはりコーチなどそう見つかるものではない。
上杉や直史もそうだが、あそこまで規格外すぎると、教える人間が見つからないのだ。
もっとも右投げも今後、続けていくのはいいだろうと言われた。
直史や武史も、練習の中では利き腕の逆で、それなりに投げていたのだ。
ただ昇馬自身に、本当にプロ野球で食っていくのか、という疑問を抱いてしまう時はある。
昇馬としては甲子園で、自分の価値というのをかなり、思い知らされたところはある。
日本の高校野球の報道は、かなり狂乱的なところがある。
分かっていたつもりであるが、アメリカ暮らしが長すぎた。
あちらでも一応、高卒のメジャーリーガーというのはいる。
ただ多いのは大学に奨学金で進学し、アーリーエントリーで中退して入団、という形なのだ。
高校生ぐらいでは、まだ評価しきれない、ということなのだ。
実際に日本でも、高卒の選手よりは、大卒の選手が増えているデータもある。
もっともそれは育成枠などもあるため、確定しているわけではない。
そもそもピッチャーというのは、大事な骨が一本折れれば、それで終わりなポジションだ。
そんな昇馬であるが、練習試合においても、無失点イニング記録は伸びていく。
奪三振率でいうならば、おおよそ20近くというのがずっと続いている。
主に県外の甲子園クラスを相手に、この数字なのである。
白富東は公立なので、こちらからの遠征というのに金は使いづらい。
だが私立が東京や神奈川の強豪に遠征しにきたついでに、ちょっと足を伸ばして千葉まで来てもらうことは出来る。
どんなチームが来ても、昇馬を簡単に打つというバッターはいなかった。
甲子園で対戦した中では、司朗を除けば尚明福岡の蜂谷あたりが、印象に残っているバッターである。
その蜂谷は昇馬に負けたと言ってもいい成績であったが、ドラフトではしっかりと指名されていた。
「ドラフトってのも、面倒な制度だなあ」
アメリカでは他のスポーツでも使っているため、戦力均衡のためには分からないでもない。
ただアメリカでは、MLBなど代理人の力が強くなりすぎて、弱いチームが有望選手を、獲得しにくい状況も生まれている。
現在では日米間のドラフトに、紳士協定が結ばれているため、いきなりアメリカという手段は難しい。
ただ本当にプロスポーツで食っていくなら、MLBを将来的な目標にする必要はある。
昇馬は周囲の言葉から、どうしてもプロを意識しないではいられなかった。
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