第5話 ノンフィクション最強説

 この話の中で、安藤は、

「ドッペルゲンガーのような存在」

 をほのめかしていた。

 ドッペルゲンガーというのは、

「もう一人の自分」

 という意味で、

「世の中には自分に似た人が3人はいる」

 と言われている、似た人というものとは違うものであった。

 つまり、もう一人の自分というものが、存在するとすれば、同一次元では考えられないということで、

「異次元世界、あるいは、違う時間軸からやってきた」

 と普通なら考えるだろう。

 しかし、ここで、安藤は、

「平行世界」

 という発想を取ったのだ。

 同一次元でありながら、別の宇宙が存在していて、そこに生きている自分の存在を描いてみた。

 しかし、ここで同一次元の自分であり、並行宇宙と呼ばれる、

「パラレルワールドのような世界」

 であったとすれば、致命的なこととして、

「距離の問題をいかに解決するか?」

 ということになるのだった。

 ただ、距離というものと、時間の関係が、切っても切り離せないもので、時間を飛び越える発想が距離を詰めるものだとすれば、

「ワームホールというのは、タイムマシンではなく、どこでもドアのようなものではないか?」

 といえるような仮説を立てていた。

 どこかのアニメで聞いたようなアイテムであるが、もし、ワームホールの存在を肯定し、それをタイムマシンと考えるのであれば、

「どこでもドア」

 のようなものだと考えたとしても、そこに大差はないといえるのではないだろうか?

 それを考えると、同一次元の方が、時間が経っているわけではないので、より、

「今の自分と見分けがつかない」

 ということで、考えることもできる。

 いや、

「逆に時間というものを横軸にして、縦軸に、距離を考えた時のグラフが、本当に直線になるのかどうか?」

 ということを考えれば、

「どこかで、もう一度、ゼロのとこる、いや、限りなくゼロに近いところに戻ってくるのではないか?」

 と思うようになった。

 安藤は、数学的にはありえるゼロという概念であるが、そのほとんどは、

「限りなくゼロに近いものだ」

 と言え、逆にいえば、

「絶対にゼロにもならなければ、限りなくゼロに近いということは、存在しているにも関わらず、見ることのできないものとしての不気味さを醸し出している」

 と考えるのだった。

「整数から整数を割る場合、どんなに小さくなっても、ゼロにはならない」

 という考えだったのだ。

 世の中においても、信じられる存在感というのは、

「限りなくゼロに近いもの」

 というように、解がないということを否定するような、このような曖昧な回答でしかないものが存在していると思うのだった。

 数学的な発想であったが、本当にそうなのであろうか?

 例えば、

「無限というものは、何であっても、無限である」

 この発想が、限りなくゼロに近いというような曖昧な発想と類似しているのではないかということである。

 安藤が、フィクションに憧れたのは、学生時代に読んだオカルト小説からだった。

 その小説は、若干SFチックなところが混じっていて、テーマとしては。ドッペルゲンガーだったのだ。

 その作家のモットーというのが、

「フィクションを、まるでノンフィクションのように描く」

 ということであった。

 それまでの安藤は、

「フィクションというのは、あくまでもノンフィクションではないというイメージから、創作していくものだ」

 と思っていた。

 だから、

「俺は、小説を書くんだったら、フィクションを書きたいんだ」

 と考えていた。

 最初の頃は、時代小説など、面白くもないし、愚の骨頂だと思っていた。そういう意味で、SFであったり、ミステリーなどという小説を書きたいと思い、時間があれば、SFやミステリーばかり読んでいたのだ。

 家では、祖母が、よく時代劇を見ていた。今のように、ゴールデンタイムに、まだ時代劇をやっていた時代であり、今でこそ、まったく見なくなった時代劇だったが、話を聴くと、

「ずっと昔から、水戸黄門や遠山の金さんなどという時代劇が、シリーズとしてずっと放送されてきた」

 というからビックリであった。

 そんな時代など知るはずもなく、時代劇というと、今は、スカパーや、配信放送などの、有料放送でしか見ることができなくなった。

 それでも、ある程度の年齢の人たちには今でも愛されているようで、有料放送と契約をしてでも見たいものだということだ。

 安藤の記憶としては、

「とにかく、毎回同じような内容で、前半は、いろいろなパターンから物語性を作っていたのだろうけど、最後の10分くらいは、どの番組もすべてがワンパターンだった記憶がある」

 というものであった。

 それはそうだろう。

「水戸黄門であれば、葵の御門の印籠を差し出して、助さん格さんに、自分が、水戸光圀であることを宣言させる」

「遠山の金さんであれば、町人の姿をした金さんが、殺陣の最中に、桜吹雪の入れ墨をわざと見せて、お白洲でもろ肌を脱ぐことで、悪党が言い訳できないようにする」

 という、それぞれお定まりのパターンがあった。

「勧善懲悪」

 と、日本人が好きな。

「判官びいき」

 というものを組み合わせたものが、それら時代劇の特徴であった。

 だから、時代劇は、年配以上の人が好んで見るものだったのだ。

 完全に、

「娯楽」

 であり、娯楽というもの自体が今までのようにいろいろなかった時代から続いてきたものだったのだ。

 いまさら、若い人がこんな時代劇を見て、何を面白いとみるのだろうか? 

「時代劇の醍醐味というのは、殺陣であったり、勧善懲悪のスカッとした気持ちであったりというところに眼が行きがちだが、実際には、自分たちがまったく知らない江戸時代という、本当は存在していた時代なのに、まるで見てきたものであるかのように、想像して作れたセットであったり、街並みの小道具であったりというものに思いをいかに馳せさせるかという醍醐味なのではないだろうか?」

 と感じるのだった。

「これこそが、架空の世界へいざなってくれるものであり、フィクションと言われる舞台の原点なのではないか?」

 と感じるのだった。

 確かに江戸時代というと、

「時代劇で見た光景」

 ということである。

 時代劇において出てくる光景というと、武家屋敷であったり、人が住んでいたとされる。長屋であったり、街中のそば屋や飲み屋の風景など、時代劇をずっと見ていた人には馴染みの風景である。

 京都にある、時代劇を撮影するためのセットが作られている撮影所が、有名であるが、そこで、映画であったり、ドラマの時代劇は、まずそのほとんどが、そこで撮影されているものであろう。

 だから、ほとんど、毎回出てくる光景でありながら、その景色を見ていて、飽きることがないのは、

「自分たちが実際に見ることのない想像の世界だ」

 というイメージと、

「勧善懲悪ということで、いつもワンパターンでも、許される」

 というようなことから、

「毎回この光景だ」

 と視聴者が思ったとしても、それを納得できるだけの土壌が出来上がっているということなのであろう。

 そういう意味で、時代劇というのは、

「毎回同じセットなのに、違和感のないもの」

 という一種異様な感覚になるのだった。

 これは、

「毎回同じ光景なのだから、同じ場所ではないか?」

 ということに気づいたとしても、

「よくもまぁ、毎回同じところで。似たような事件が起こるよな」

 という、ことに気づいてもいいだろうに、気付いたかも知れないが、それをおかしなことだと思わないようにできる何かのテクニックがあるのかも知れない。

 現代劇でも似たようなことが言えるかも知れない。

 その一つとして言えることは、いわゆる、

「二時間サスペンス」

 などの場合である。

 こちらは、以前まで、午後9時くらいから11時までの約2時間という間に、ミステリーを題材にしたサスペンスものがドラマとして放送されていた。

 今でこそ珍しくもないが、

「安楽椅子探偵」

 と呼ばれるようなキャラクターパターンが出来上がっていた。

 安楽椅子探偵と呼ばれるのは、一種の総称であり、いわゆる、初期のものでは、

「赤カブ検事」

 であったり、

「新聞記者やルポライターが、趣味で事件を解決する」

 などと言った、本来の仕事ではない人が、

「いつも事件に巻き込まれる」

 あるいは、

「自分から事件に首を突っ込む」

 などということで、事件を解決に導くというものだった。

 そんな人たちが事件の真相に気づき、謎解きとして、犯人を連れ出す場所というのが、いつからなのか分からないが、いつも、

「どこかの断崖絶壁だ」

 という。

 普通であれば、

「毎回毎回、どうしてここなんだ?」

 と思うはずだ。

 しかし、当初は誰もが何の疑いもなく見ていたことだろう。それはきっと、時代劇のワンパターンに思考回路が慣れてきていて、おかしいと思わないのかも知れない。

 だから、逆にそのことを指摘する人がいれば、それを一種のギャグとして、いじるということになるのだろう。その時一緒に、水戸黄門や遠山の金さんのラスト手前のワンパターンも一緒にいじるようになるのだ。

 それが、どうしても、セットや予算の関係で、いろいろな撮影ができないというリアルが理由を感じさせないようにするための、感情を操作した発想だったのではないかと思うのであった。

 そういう意味で、それらの発想、例えば時代劇のワンパターンの演出、2時間サスペンスの断崖絶壁での謎解きシーン。考えた人は、本当にすごいといえるだろう。

 ただ、やはり人間の心理に潜むものとして、毎回のワンパターンを、

「実は、さりげなく意識させない心理がある」

 ということであったのかも知れない。

 その発想が、パラレルワールドのような、

「平行世界」

 という感覚ではないかと感じるのであった。

 そんなパラレルワールドであるが、安藤は、最初勘違いをしていたようだ。

 というのも、時間軸という者に対しての発想が違うものだったようで、その一つが、

「過去から、現在、未来へと続く」

 ということへの考え方であった。

 つまり、過去があって、現在というものがあって、未来がある。現在というものだけが、時間としては、不動のものであるのは、誰もが思うことであろう。なぜなら、時間というものがまっすぐ、規則正しく流れているものであり、だからこそ、時刻という形に、刻まれていくものなのだ。

「時間というのは、時の間であり、時刻は時を刻むもの。時間が静的なものであれば、時刻というのが動的なものだ」

 といえるであろう。

 現在というものは、未来であったものが、ある瞬間に、現在となり、そして次の瞬間には過去になる。これは誰もが無意識に理解しているものであり、説明するまでもないことではないだろうか?

 だから、現在というものの長さが時間の感覚であり、未来から現在、過去と繋がっていくものが、時刻だといえるだろう。

 一つ言えることとして、

「現在だけが、漠然と時間の感覚が分かっている」

 ということである。

 未来も過去も、ハッキリいえば、無限なものである。理屈で考えれば、未来はどんどん減っていくもので、過去はどんどん増えていく。

「赤ん坊の時の記憶や意識がないのは、その無限であるはずの過去が、最初は有限であったからではないか?」

 という考えは突飛すぎるのではないだろうか?

 この発想は、受賞作品の中で、突飛すぎる発想であるが、信長が死を迎えるに際して考えているというのを、さりげなく表現していたのだ。

 この時間と時刻の話は、どんなにさりげなく話しても、難しくしかならないということなのであろう。

 つまりは、前述のであれば、

「無限から何を割っても無限にしかならないように、無限に何を足しても、何を引いたとしても、あるいは、何を掛けたとしても、結果は、無限でしかない」

 ということなのだ。

 未来も過去もそういう意味では、

「無限」

 ということで同じなのだ。

 現在というのも不変だとすれば、

「すべてが無限の世界でしかないものであっても、一つ言えることは、過去、現在、未来と続くすべての時間をつなぎ合わせたものは、完全なる不変ということになる」

 といえるのではないだろうか。

 これが、安藤の小説の中での、

「隠れた主題の一つ」

 であり、彼の小説の中には、そういう隠れた主題のようなものが、いくつか含まれているものだったのだ。

 そのことに、なかなか読者は気づかないだろうことは、作者である安藤も考えてはいない。

 そもそも、小説の中にいくつかの主題があるということを意識しながら、小説を書いているわけではない。

 無意識に書いているとそうなっただけで、作者の思いとは裏腹ではあるが、だからこそ、面白いという小説もあるのだろう。

 それを、

「編集のプロ」

 と言われる、出版社の人たちが分かるかどうか?

 コンテストなどの原稿の中には、

「本当に素晴らしい作品」

 と言われるような作品が、実は、

「一次審査で落選していた」

 などということが、往々にしてあったりするのではないだろうか?

 それが、小説の難しいところでもあり、楽しいところでもあるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「プロになって、自分の書きたいことが書けなくなるというが、人によっては、それができる人もいて、まさに天職だといえる人がいるのだろう」

 と感じるのだった。

 小説というものを、

「簡単、難しい」

 という括りで考えると、ノンフィクションというのは、難しい部類なのかも知れない。

 特に、歴史小説などでは、時代考証であったり、自分の書きたい内容は、史実と言われるものに近くなければ、受け入れられないものであろう。

 何が事実なのかは、時代が違うので、分かるはずもない。

 何しろ、歴史というものは、言い伝えられてきたりしたものを、事実として言われることが多く、最近になってから、いろいろ発見され、

「かつて言われてきたことが、信憑性がなくなってきた」

 ということで論争が起こり、最終的に科学的な調査を絡めたところで、その信憑性の高さで、正しいこととすることが増えてきただろう。

 だから、数十年前に、

「歴史小説」

 として、

「これは正しいことなんだ」

 ということで、書かれていることだったとしても、時代が流れて、発掘調査が進み、さらに、科学的な調査が行われたことで、正確な年代が分かってくるようになると、

「かつて言われていたことに対して、発見されたことへの説明がつかなかったり、矛盾が起こってくると、昔言っていたことが、間違いだったと言われるようになることが多くなってきた」

 と言われるようになってきたのだろう。

 となると、昔、

「これが正しい」

 と言われてきたことに対しての話が、実は違っていた。

 つまり。

「ノンフィクションが実はフィクションだった」

 ということになり、その本の評価が下がってくるということになりえるかも知れない。

 もし、それがベストセラーとなったものだったとすれば、この評価は、作者にとっては屈辱的なものであり、

「たまったものではない」

 となるに違いない。

 しかし、これは本人だけの問題ではなく、むしろ、歴史小説界では大きな問題である。

「史実に基づいて、時代考証であったり、そのまわりの歴史にも忠実に書くのが、歴史小説だ」

 と言われているのに、後になってとは言っても、

「実は、かつての定説はウソだった」

 などと言われると、ノンフィクションとフィクションの立場が、歴史小説界では逆になるのだ。

「かつてのベストセラー」

 と言われてきた小説を、いくら歴史解釈が変わったからといって、

「あれは駄作だったんだ」

 ということにはできないだろう。

 そうなると、今までの、

「ノンフィクション最強説」

 のようなものが覆り、

「ノンフィクションだって、時代の流れで、どうなるものでもない」

 ということになったとすれば、歴史小説の何たるかという基本部分が、そもそも狂ってくるといってもいいだろう。

 それを考えると、

「歴史小説」

 というものの限界というものが見えてくるような気がするのだ。

 ということは、

「歴史小説というものが衰退していき、本当の史実として書かれるだけの、教科書やテキストのような、新書的な本しか、ノンフィクションでは見てはいけなくなるのではないか?」

 と考える。

 つまりは、

「歴史小説が、時代小説に飲み込まれる」

 といっても過言ではないだろう。

 そうなると、

「ノンフィクション最強説が崩れてくるということが、矛盾となり。人々が歴史小説から離れる」

 と考えられるのではないだろうか?

 歴史小説がなくとも、学説の本であったり、教養のある学者先生がまとめた論文に近い本であればいいということになる。

 もっとも、それが難しいということで、もし、一般読者が、歴史小説を読んでいたのだとすれば、そこは、

「入門編」

 としては、許容範囲だったのではないだろうか?

 そんな小説の世界を、限界として考えていない人が多かったのではないだろうか?

 歴史がどんどん解明されていくのを、

「素晴らしいことだ」

 とまるで、他人事のように思っていた人が歴史小説のプロ作家にいるとすれば、何とも、いわゆる、

「お花畑状態だったのではないか?」

 と言われても仕方のないことだったのかも知れない。

 歴史というものが、

「生き物である」

 とまでは、さすがにそこまでは考えないかも知れないが、自分にかかわりのある小説を取り巻く環境が変わってきていることに危機感を抱かなかったとすれば、本当に、

「お花畑の中にいたのではないか?」

 と思われても無理もないことだったのかも知れない。

 それを思うと、

「歴史小説の限界は、作家から来ているものかも知れない」

 ということで、

「システム開発に携わっている人間が、自分の開発していることに直接関係ないから」

 ということで、まったく無視しているのと同じである。

 小説家にしてもそうなのだが、

「同じような内容の話を書いていたらどうしよう?」

 ということで、少なくとも、自分で、著作権や盗作などの疑いを受けないようにということで気を付けるはずである。

 そこは時代考証の問題と一緒で、かなり気を遣うだろう。

 そもそも、著作権の問題や盗作まがいのものは、ノンフィクションに限らず、フィクション作家はかなり神経をとがらせていることだろう。

 ただ、そちらの意識は、フィクション作家の方が大きいだろう。

「なぜなら、発想力ということが求められ、創作ということを前面に出さないといけないフィクションは、そのオリジナリティということもあり、余計に、他人と作品がかぶるなど、

「プロとしては、一番気を付けなければいけないところだ」

 と考えていることだろう。

 中には、編集者の方がそれを調べる役目の時のあるだろうが、そもそも、他の前作品に目を通すなどということは実質不可能なので、万が一かぶっていたとすうれば、それは、

「運が悪かった」

 といって、ある程度、諦めるしかないのだろうか?

 とはいえ、まったく何もしないというのは、アウトなので、自分なりに調べたりするのは最低限の作家としてのモラルというべきであろうか。

 作家としてのプライドからも、決して盗作などしたわけでもないのに、

「パクった」

 などと言われると、ショックであり。許せない気分にもなるだろう。

 しかし、それでも、それを言おうとすると、自分の方としても、根拠のあることを言わないといけないので、必死になってその作品を読み込み、違いを探そうとする。

 時として、その内容が次作のヒントになったりするのだから、

「作家というのは、実に面白いものだ」

 と、考えるかも知れない。

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