第2話 城の運命

「元和堰武」

 という時代を迎えるというのはどういうことなのかというと、

「もう、戦が起こらない」

 ということであり、

「すべての治安を幕府が握る」

 といえるだろう。

 しかし、実際には、日本全国を幕府が見れるはずもなく、その治安を直接治めるのは、藩ということになる。

 それぞれに藩を設けて、そこで藩主である大名が、政治を担う。それまでも、大名が国を治めるという形は、あったのだが、あくまでも、元々は室町幕府の守護大名だったものが、群雄割拠の戦国時代に入り、戦国大名が起こってきた。

 ここにはいくつかのパターンがあり、

「守護大名がそのまま戦国大名になった」

 というもの。

 これがもっともポピュラーであり、他には、

「守護代や国人が、守護大名に成り代わるパターン」

 さらには、

「奉行や、配下のものが、守護を襲う謀反を起こし、守護を倒して、戦国大名にのし上がるもの」

 それらの行為を

「下克上」

 というが、戦国時代には、至るところでそれらが起こり、戦国大名となっていったのだ。

 だから、城の建設が急務だった。

 最初は、山城が中止だった。山であれば、天然の要害でもあるし、相手が攻めてくるのを、上から攻撃もできるのだ。

 もちろん、当時は天守などはなかっただろう。石垣や濠も、山の上の要塞なので、そこまでは必要ではない。

 空濠くらいはあったかも知れないが、水がないといっても、大きめの土手を作っておくだけで、相手の動きを封じることができ、左右の丘の上から、弓矢の集中砲火では、相手もひとたまりもなかったに違いない。

 それを思うと、

「山城が初期の城だったとはいえ、その力は、相当なものだった」

 ということは分かるというものだ。

 それが、信長の勢力拡大などによって、城下町が築かれたりするようになると、平山城と呼ばれるものが出てきた。

 山の上に作るわけではなく、平地の丘のようになったところに築くのだ。平山城は、超過街をつくることもでき、総構えの中に、武家屋敷などの曲輪を作ることができ、巨大な城郭として、近代城郭の基礎となって行ったのだ。

 そして、信長が打たれるという、

「本能寺の変」

 のあと、羽柴秀吉による、

「主君の敵討ち」

 を成し遂げたこと、そして邪魔者である、柴田勝家を破り、さらに、小牧長久手の合戦において、徳川家康を配下にすることに成功したことで、いわゆる天下の統一が、ある程度叶ったといってもいいだろう。

 さらに、秀吉は、大坂城を築城した。

 金箔を張り巡らせた、日本一の城だった。

 ちなみに、今復元されている大坂城は、豊臣時代のものではなく、前述の、

「大坂夏の陣」

 で焼失した後に、徳川が築いたいわゆる、

「徳川大坂城」

 である。

 秀吉の大坂城は、黒塗りだったようで、そこに、金の装飾や、桐の家紋が描かれていたということであった。

 この大坂城の武家屋敷は、かなり大きな曲輪であっただろう。

 何しろ、全国の大名屋敷があったのだ。そこに、それぞれの大名から人質を出させ、大坂城に住まわせたということだから、それも当然であろう。

 そうやって、謀反を起こさせないようにしたのが、秀吉のやり方だった。

 そして、この時代において、確立されたのが、

「分業制」

 ということであった。

「戦をするのは、自分たちの大名が集めた兵であり、農民は、戦には参加せずに、農作業を行い、年貢をキチンと徴収する」

 というものである。

 そのために、農民の年貢の量をキチンと決める必要がある。それを目的で行われたのが、

「太閤検地」

 であった。

 要するに、農地の測量と、戸籍のようなものである。それによって、それぞれの農家の年貢の量が決まってきて、農家も、戦をしている暇はないということであった。

 だからこそ、同時に行われた対策として、

「刀狩」

 というものがあった。

 農民に田を耕す農具以外の槍や刀を持たせておくから、一揆が起こったりする。武器を取り上げることは大切なことで、それは、寺社にも行われた。

 秀吉は、信長を苦しめた、一向宗や、比叡山などの僧兵たちのことを忘れてはいなかった。

「やつらに武器を持たせておくと、ろくなことはない」

 というものだ。

 そもそも、僧兵などというものは、荘園を管理していた寺社が、その荘園を守るために、組織した、

「自営軍」

 のようなものだった。

 石高制を敷いて、領主である大名に年貢を納めるようになったこの時代に、僧兵というものは、もはや必要ないということの現れであろう。

 秀吉のこの改革は、江戸時代になっても、受け継がれていくことになり、大名が藩主になっていく時も、その国の石高で、その勢力を表すようになったというのが、この時代の特徴でもあったのだ。

 そして、この時代になると、城ができても、

「戦のための城」

 というよりも、

「領主の威厳を示す」

 という意味で、いよいよ天守を持つ城が、できてきたのである。

 天守があるといっても、城主がそこで暮らすためではない。城主は、本丸に住んでいて、そこで政務を行っているのが一般的だった。

「では、天守の役割は?」

 ということになるのだが、そのほとんどは、倉庫のような使い方をしていたというのが、一般的ではないだろうか?

 少なくとも、天守のほとんどは床は板張りで、人が住むには狭すぎる。

 特に殿様が住むには、本当に狭すぎて、数人入れば一層では、いっぱいになってしまうというものだ。

 それが、戦国時代から、安土桃山時代、いわゆる、

「織豊時代」

 までの城だった。

 秀吉は、築城が好きだったのか、その後、自分が関白に任じられた時、京都に、

「聚楽第」

 と呼ばれるたいそう豪華な城を築いている。

 この城は、次代の秀次に関白職を譲った際に明け渡しているが、秀次に謀反の罪ありということで処刑し、さらに、家族もろとも全滅させていることもあってか、

「聚楽第の解体」

 を行った。

 そして、秀次が、この世に存在したことを打ち消すかの如く、徹底的に破壊したと言われている。

 そのせいもあってか、聚楽第に関しては、その資料もほとんど残っていない。天守や城郭がどんなものであったのか分からない。

「鳥瞰図」

 のようなものは残っているが、それだけでは、大きさや本当の形は分かるものではないであろう。

 さらに、秀吉は、佐賀県の名護屋というところに巨大な城を築いたと言われている。

 ここは、秀吉が晩年、朝鮮出兵というものを行ったが。朝鮮に渡るための前線基地として、佐賀県の名護屋に城を築いたのだ。

 この城には、全国の大名を集めての大遠征軍であったので、それだけの大きな城が必要だったということだ。

 考えてみれば、秀吉は

「一夜城」

 と呼べれるものを築くのが得意だったと言われる。

 岐阜の稲葉山城攻略のために、信長に言われて建造した、

「墨俣一夜城」

 さらには、関東の大大名であった後北条氏の難攻不落と呼ばれた無敵の小田原城を取り囲んだ時に作ったと言われる、

「石垣山城」

 も一夜城と呼ばれる。

 さすがに城を一夜で築くなどできるわけはないのだが、脅威のスピードで作り上げたのは間違いない。そう考えれば、城というものが、どれほど重要で、戦略上、不可欠なものであったのかということが分かるというものだ。

 そして、最後に秀吉は自分の隠居城として、京都の伏見に、伏見城を築いている。結局そこで、絶命することになるのだが、伏見城などは、何度も地震で崩れ、再建されている。これも、最後は徳川時代のものだったといえるだろう。

 秀吉が、亡くなる前に、遺言として、

「息子の秀頼を頼む」

 といってなくなっている。

 当時秀頼はまだ幼年であり、政治を見ることなどできるはずもなかった。

 秀吉は、徳川家康、前田利家などの有力大名をその任につかせたが、いよいよ家康が、天下を露骨に狙っているのが分かると、利家などがけん制を始めたが、その利家も、亡くなってしまい、徳川を抑えるものはいなくなった。

 そこへもってきて、豊臣恩顧の武将たちが、仲間割れのような形になった。

「政務を見る中心」

 であった、石田三成に対し、朝鮮への出兵から帰国してきた、加藤清正らの、

「武闘派」

 と言われる連中が、不満を募らせていた。

 彼らが、その怒りをついに爆発させ、三成襲撃事件が起こったが、危険を察知した三成は、家康のところに助けを求め、命を助ける代わりに、三成には、所城である佐和山城に蟄居するように言われ、従ったのだ。一種の失脚といってもいいだろう。

 しかし、徳川に不満のある大坂方は、三成を中心に兵を集めていた。

 もちろん、家康もそれくらいのことは分かっている。分かっていて、天下を握るために、三成を戦で倒して、

「わしこそが、天下に号令するもの」

 ということを示そうとしたのだ。

 そこで、上杉からの、上洛を断るという強い文句が書かれた、

「直江状」

 と呼ばれる書状に対し、秀頼に対して、討伐を願い出て、その許可を得て、

「会津征伐」

 にのりだした。

 その隙に、三成は行動を起こしたのだが、そもそも、この、

「直江状」

 と書いた直江兼続と石田三成はお互いに旧知の仲であり、家康を引き付けておくために、わざと、

「会津征伐軍」

 を結成したのだ。

 そもそも、家康軍は、あくまでも、征伐軍として組織されていて、別に家康の家臣というわけではない。

 いわゆる、

「烏合の衆」

 なのだ。

 しかも、三成は、大名たちの家族を人質にして、自分たちの軍に引き入れようと考えたようだが、細川家を襲撃した時、

「人質になるくらいなら」

 ということで、妻のガラシャが自害したことで、三成も途中でこの作戦を辞めたのだが、それを知った大名たちの間では気持ちが揺れ動いていたことだろう。

 そこで、家康は、途中の小山というところで、ついてきた大名に、三成が挙兵したこと、そして、家族を人質に取っていることなどから、

「家族が心配な者は、ここで引き返して、三成方についても、悪くは思わん」

 といって大名に言い切ったが、そこで、

「徳川殿が、豊臣家を立ててくれるのであれば」

 ということで、あくまでも、豊臣家に弓を弾くものではないということを約束し、徳川方につくという、いわゆる、

「小山評定」

 によって、家康軍は結束を深め、今度は、

「三成討伐軍」

 関ヶ原においての、東軍が組織される形になったのだ。

 そして、ここで重要なのは、

「あくまでも、豊臣を敵としない」

 ということが条件であったということである。

 つまりは、あくまでも、

「三成討伐のために一つになった」

 ということで、徳川の軍門に下ったというわけではないということだ。

 だから、関ヶ原で勝利し、朝廷から征夷大将軍に任じられ、幕府を江戸に開いても、まだまだ諸大名の、特に外様大名の動きが怖かったのだ。

 その意味で、関ヶ原の後に、

「城建設ラッシュ」

 があったのは、そういう歴史的背景があったのだ。

 だが、その築かれた城は、あくまでも、

「豊臣恩顧の大名の抑え」

 として築かれたものだった。

 つまり、豊臣家が滅亡した、

「大阪夏の陣」

 以降では、

「元和堰武」

 ということで、戦のない社会が建設されたということを宣言したことで、城というものの存在意義がなくなってきた。

 むしろ幕府にとっては、邪魔者でしかない。そのため、諸大名に対して、

「一国一城令」

 というものを発布した。

 これは、

「一つの藩に、一つの城以外をもってはいけない」

 というもので、

「本城以外は廃城とする」

 ということなのであった。

 だから城によっては、関ヶ原以降に立てられ、

「元和堰武」

 で廃城となった城も少なくなかった。

 その間、15年ほどだったので、建築に5~7年くらいはかかるとして、実際に城として機能したのは、10年にも満たなかったといえるだろう。

 中には、五層五階建ての立派な天守だったものを、本城といえども、幕府に遠慮して、御三階櫓くらいの小規模なものに建て替えたり、実際に破却した城もあるという。

 だから、城が危機にあった時代として、

「元和堰武」

 という時代に起こった、

「一国一城令」

 で、破却を余儀なくされた城だったといえるだろう。

 徳川幕府は、その時同時に、城の改修にも幕府の許可がいると記している。

 だから、支城の破却から、その遺構を、本城の修理や強化として使うことも許されなかった。

 実際に。

「幕府に無断で城の大改修を行った」

 ということで、改易された大名も一定数いたようだ。

 改易というのは、いわゆる。

「お家お取り潰し」

 のことである。

 幕府から、藩主の任を解かれ、家臣たちは、浪人ということになる。実際に、二代将軍、秀忠、三代将軍家光の時代には、かなりの大名が改易になっている。中には、三河時代からの譜代であった、本多正純であったり、何と、家光の兄である、

「駿河大納言」

 と呼ばれた、徳川忠長などもいたというからビックリだ。

 そもそも、忠長の場合は、その素行が悪かったともいわれているので、それは仕方のないことだったのかも知れない。

 ただ、あまりにも改易がすごかったので、それ以降の時代には、大きな問題が出てきた。

「浪人が急激に増えた」

 ということである。

 城主が改易になってしまうと、その藩の役人たちは、路頭に迷うわけである。

「これ以上浪人が溢れては困る」

 ということで、それ以降、改易は極端に少なくなってきた。

 実際にそれ以降の江戸幕府の財政も危機に陥ってきて、

「○○の改革」

 などというものが幾度も繰り返され、次第に幕末にむかっていくのだった。

 幕末という時代は、

「国内の情勢に関係なく襲ってくるもの」

 であった。

 家光の時代に、キリスト教というものを恐れ、鎖国政策を取ったのだが、それによって、キリスト教弾圧問題から起こった島原の乱などもあったが、余計に幕府は、キリスト教に脅威を感じるようになっていた。

 それは、それで間違ってなかったといえるだろう。

 そもそも、キリスト教の布教は、スペイン、ポルトガルなどが中心に、東南アジア諸国に、植民地を結成し、そこで植民地経営を行うというものが、やり方だった。

 そのため、ますキリスト教を布教させて、その国が内乱などを起こすことで、社会を不穏な空気にさせ、そこで内乱などが起こると、武力介入し、完全に占領することで、その国を植民地化するというものだった。

 植民地になってしまうと、原住民は、ほぼ奴隷と同じだった。完全に本国の属国とされ、そこでできた作物などを、本国で安く仕入れるということをしていたのだ。

 特に中国などには、

「貿易の際に、損になるから」

 という理由で、アヘンという麻薬を流行させることで、資金をえようという、

「やくざ顔負け」

 の方法を、堂々と国家間で行い、怒った中国が戦争を仕掛けるが、結果負けてしまい、さらに不平等な条約を結ばされることで、完全に欧米列強に虫食い状態にされるようになった。

 もっとも、それは、江戸時代後期のことなので、鎖国政策をしたずっと後だった。

 そういう意味で、日本がいち早く鎖国に踏み切ったというのも、

「あながち、間違いではなかった」

 といえるだろう。

 それが、江戸時代における時代背景であり、いよいよ、

「黒船来航から始まる、近代日本というものがやってくる」

 といってもいいだろう。

 それが、今後の日本を決定づけることになる、

「歴史のターニングポイント」

 となるのだ。

 そんな歴史のターニングポイントとしての、

「城の運命」

 として、明治初期に発令された、

「廃城令」

 というものだった。

 時代は、鉄砲や機関銃などの時代に入り、近代戦というものが起こってくると、日本古来の、

「城郭」

 というものが、

「無用の長物」

 となってきたのだ。

 確かに、文化財としての価値はあるのかも知れないが、当時の明治の日本には、それどころではない、のっぴきならない事情があったのだ。

 というのは、それまで鎖国をしていた日本が、開国するにあたって、行われた、

「砲艦外交」

 によって、半ば強引に、

「不平等条約」

 の締結を余儀なくされたが、それも。しょうがないことで、他のアジアの国のように、植民地化されなかっただけでもよかったといえよう。

 最初は、

「攘夷」

 ということで、外国の打ち払いが中心の志士たちであったが、そのうちに、薩長戦争や、下関四国艦隊襲撃事件などで、海外の力を思い知った薩摩や長州では、弱腰の幕府では、

「いずれ、日本も植民地化されてしまう」

 という憂いから、尊王倒幕に動くことになった。

 幕府を倒して、新政府を樹立したが、そもそも、薩長や土佐などと言った藩だけでの派閥政治だった。

 だが、

「外国と平等に渡り合うには、日本という国を、海外のレベルにまで近代化させる必要がある」

 ということだったのだ。

 明治政府は、そのために、数々の政策を打ち出し、武士の世界を排除しようと考えるのだ。

 そうなると、特に城などは邪魔でしかなく、

「軍の施設として登用できる」

 というところはそのまま残して、他の城は取り潰すという、

「廃城令」

 を出したのだった。

 廃城令で、残っていた城もほとんどが壊されたのは言うまでもないが、残った城も、それから、70年後の、大東亜戦争での、空爆によって、焼失することになったのだ。

 元々、国際法である、

「陸戦協定」

 では、空爆に対して、

「軍事施設のみを標的として、民間の施設などは標的にしない」

 ということだったはずだ。

 しかし、それをやっていると、

「味方の被害がひどくなる割には、成果が出ない」

 ということで、アメリカ内部で批判が起こった。

 しかも、強固に抵抗を続ける日本軍には、少々の空襲では、役に立たない。そこで、カーチスルメイという男が、

「無差別爆撃」

 を提唱したのだ。

「これならば、味方の被害も抑えられ、戦争を早く終結させることができる」

 という理屈だった。

 しかも、使われたのが、

「日本家屋を焼き尽くすために開発されたという、ナパームM69という特殊な焼夷弾で、投下後、空中で中の子爆弾がクラスタ状態に入っていたものが、散発され、落下していく。日本家屋の屋根や壁をぶち破り、火を放つ」

 というもので、

「いったん火がつくと、水などでは消せない」

 というものだった。

 これによって、日本は焦土となった。

 毎日のように、日本の大都市や地方都市の2,3に対して、大空襲をもたらしていた。アメリカ軍のB29では、日本の高射砲が届かない高度を飛ぶのだ。

 アリアナ諸島を占領された時点で、日本の運命は決まったといってもいい。なぜなら、

「グアム、サイパン、さらにテニアン島からは、日本の主要都市のほとんどが、航続距離の範囲内なので、空爆が可能なのだ」

 ということであった。

 大都市に無差別に焼夷弾が落とされるのだから、木造の城などひとたまりもない。

「名古屋城、大垣城、岡山城」

 などと、都市の空爆で一気に廃墟となるのだった。

 さらに、広島城などは、原爆一発で、吹き飛んでしまった。何しろ爆心地から広島城などは、数百メートルも離れていないのだ。

「ほぼ、爆心地」

 といってもいいだろう。

 米軍が、

「広島を、第一目標とした」

 という理由にはいくつかある。

 一つは、

「大都市のわりに、ほぼ空襲に遭っていない」

 ということであるが、これは元々原爆の標的として見ていたからだという話もあるのだが、それは、

「広島という土地が、原爆の実害実験には、ちょうどいい」

 と科学者が思ったからだろう。

 そして、もう一つの理由は、軍事的というか、心理的なものであり、

「広島という土地に、日本最初の大本営が置かれた」

 ということからであった。

 日清戦争の時に、戦争遂行のための拠点ということで、呉に近い広島に大本営を置き、さらに、大元帥である天皇陛下が、戦争期間中、広島に詰めていたということで、いわゆる、

「日本の軍国主義の発祥地」

 ということで、標的となったのである。

 ある意味、最後の大本営という含みが、軍としては大きかったのかも知れない。

 大本営というのは、そもそもが、戦国の戦でいえば、

「本陣」

 というようなものであろうか?

 司令官がそこにいて、そこから作戦の指示を出したりする。ただ、それぞれの作戦であれば、その場の近くであったり、拠点となる基地からであろう。大本営というのは、陸ぐであれば、参謀本部、海軍であれば、軍令部というものが、一緒になり、大元帥である、それらの軍を統帥する天皇が、詰めている場所ということであろう。

 日清戦争以降、大本営は東京だったので、明治以降、東京に遷都してから、天皇が、

「首都を離れた」

 というのは、後にも先にもこの時だけだったのだ。

 そういう意味で、広島というところは、重要な土地だといってもいいだろう。

 それを思うと、米軍が原爆を落とした理由も分からなくもない。

 結局日本は、2発の原爆投下と、

「不可侵条約」

 を一方的に破って攻め込んできたソ連を見て、戦争継続は不可能と天皇自らの判断で、終戦となったのだ。

 何といっても、日本は、国民には、

「一億総火の玉だ」

「一億玉砕」

 などとうたって、鼓舞しておきながら、水面下では、ソ連に対して、

「和平交渉をお願いしていた」

 というのだ。

 ソ連は最初から、日本に攻め込むつもりだったのだろうが、ヤルタ会談で、米ソが密かに協定を結んだことで、

「ソ連の介入は、決まったも同然」

 だったのだ。

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