合わせ鏡のようなマトリョシカ
森本 晃次
第1話 時代小説
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年12月時点のものです。途中、SF的な発想を行った時、「性教育的」な表現がありますことをご了承ください。ただこれはあくまでも、生物学的観点からの描写であることをご了承くださいますようお願いいたします。また、歴史のお話ですが、史実と言われていることを書いているだけで、今は違う意見が出ているかも知れませんが、そのあたりは、柔軟にお考え下さい。
「時代小説」
というものがあるが、時代劇であったり、歴史の話を書くという意味では、歴史小説と同じだが、時代小説というのは、
「基本的には、エンターテイメントの要素が深く、読んでいる人間を自分で考えた世界に引き釣り混む」
というものだ。
「だから、時代小説はフィクションであり、その題材に、歴史という時代背景、さらに、その先にある時間軸によって繰り広げられ、あるいは、繰り返される物語を、時代小説と呼ぶ」
と、最近プロデビューした、安藤信光は、インタビューでそのように答えていた。
時代背景は、やはり戦国時代。デビュー作は、一番パターンとして多い、関ヶ原前夜の物語であった。
確かに、時代としては、関ヶ原というのは一つのターニングポイントであり、
「もし、西軍が勝っていたら?」
ということは、以前からずっと言われている、大いなる仮設であった。
もちろん、
「歴史に、もしもというのはありえないことなのだが、それを承知で楽しく可笑しく想像するのが、時代小説の醍醐味だ」
と言われる。
何といっても、関ヶ原には大きな転機がたくさんあった。
「東軍の主力である、秀忠軍は遅参することなく、関ヶ原に間に合っていれば」
というのがまず一つ。
そもそも、徳川軍は、
「父親の家康が東海道を進み、息子の秀忠軍が、中山道を進んでくる」
というものであった。
東海道を進んできた家康軍には、それほど立ち向かってくるところはなかったが、中山道の途中には、
「上田の真田軍」
が控えていた。
そもそも、真田の長男である信之は、
「徳川四天王の一人」
である、本多忠勝の娘の小松姫を嫁としてもらっていた。
だから、順当に言って、徳川軍に与するのは当たり前のことであった。
だが、次男の信繁の嫁というのは、西軍の有力武将である、大谷吉継の娘を正室として迎えていたのだ。
父親の、昌幸は、
「家康が嫌いだ」
ということで、信繁と一緒に西軍に与した。だから、真田の上田城のそばを通る中山道の秀忠としては、
「行き掛けの駄賃」
ということで、真田の上田城を攻めることを選択した。
これが家康であれば、以前の、
「第一次上田合戦」
で大敗したことを覚えているので、上田城にかまうということはしないのだろうが、秀忠は違った。
しかし、その時、一緒にいた兵に、重鎮であったり、かつての上田合戦を知っている人もいるはずなので、当然反対があっただろうに、それでも強行したのは、それだけ、
「秀忠を一人前の武将にしたい」
という気持ちが強かったのだろう。
実際に攻めてみると、相手の作戦にことごとく引っかかる。
秀忠にも、
「籠城の人数に対して、攻城側の人数の圧倒的な多さ」
に自信過剰なところがあり、特に相手に、
「城を明け渡し要求」
をした時など、それに応じたその時から、油断があったに違いない。
城明け渡し要求に対して、真田側からは、
「了解した」
という返事はあった。
しかし、
「準備に時間が掛かる」
などといって、引き延ばし、相手が焦れるのを待っていたのだ。
なかなか城を明け渡さない真田に対し秀忠は、散々、明け渡し要求を繰り返したが、否定をせずにただ、言い訳をして引き延ばすだけだった。
さすがに秀忠も切れて、攻城戦に持ち込むことにした。それこそが、真田昌幸が仕掛けた、
「罠」
だったのだ。
相手を怒らせて、冷静な判断力を削ぐという目的と、そもそも、焦らしたのは、
「秀忠軍が、東軍の主力である」
ということが分かっていたからではないだろうか?
それを考えると、秀忠だって、
「自分が、東軍の主力を率いているから、合戦に遅れてはいけない」
ということくらい、分かっているはずだったのだ。
それが分かっていても、一度手を出してしまっては、引くわけにはいかない。
「逃げた」
と思われるからだ。
しかも、相手は一度、
「明け渡す」
と言ったのだから、それを無視して先に行くわけにもいかない。
さぞやジレンマがあったことだろう。
その気持ちの隙を狙って、籠城戦に持ち込んだのだ。
城攻めというのは、当たり前のことだが、攻城側と、籠城側が存在する。
基本的に。
「攻城軍は籠城軍の3倍の兵力がいる」
と言われている。
攻めている方が有利に見えるのだろうが、何と言っても、地の利というのは、城の持ち主側にあるのだ。
しかも、攻められた時のことを考えて、いろいろな仕掛けをしてあるのは当たり前のこと、しかも、相手に想像はできても、どこに何があるのかなどということが分かるはずもない。
ただし、城の装備というのは、そんなにたくさんのパターンはないだろう。枡形虎口にしても、多門櫓にしても、設計に、そんなにたくさんのパターンはないだろう。どれだけそこに到達するまでに、どのような仕掛けを挟んでおくかということが大切になるというものだ。
「足元を確認しながら前からの攻撃に備えれなければいけない」
ということで、わざと石段と歩きにくくしていたり、侵入経路をややこしくして、時には、ダミーの門などを作って、そこから侵入すると、相手の思うつぼに嵌ってしまうなどというものもある。
さらに、いくつもあるターニングポイントを死ぬ思いで突破したとしても、
「まるで、天守から遠ざかっていくように見える」
という、錯覚を利用した仕掛けというのもあったりする。
もっと言えば、かなり進んだ後で、大きな橋があって、そこを進むと壊れるような仕掛けがしてあり、橋を崩すことで、敵をせん滅するというのもあったりする。
似たようなもので、石垣を昇ってこようとすると、一つを外すことで、すべてが壊れ、敵兵が意思の下敷きになるという、
「千人殺しの石垣」
と言われるものもあったりするのだ。
これは、延岡城にあるらしいが、他にも、侵入するのに、実に困難な仕掛けとして、石落としや、熊本城の武者返しのように、反り建った石垣というのもあったりするのだ。
実に厄介な攻城であるが、守る方にも、デメリットはある。
何と言っても、攻城軍は、まわりを取り囲んでいるので、
「兵糧攻め」
「水攻め」
などということは、実際に可能である。
「相手が降参してくるのを待つ」
というやり方は、皆殺しにするわけではないので、優しい攻撃に見えるが、実際には、城の中で餓死者の山ができていたりと実に悲惨であるだろう。
何しろ、籠城するには、武器弾薬、食料の補給がいる。
城によっては、城内に、田んぼがあったりするところもあったりするが、なかなかよほど大きな城でもなければ、そんな簡単には、いかないだろう。
さらに、戦国時代城郭が築かれるようになった頃というのは、
「農民を兵士として徴兵する」
というようなことは少なくなってきたので、城内に食料のために田んぼがあるとすれば、その管理は、武士がすることになるだろう。
特に、関ヶ原の時代ともなると、すでに戦国時代は過去のことであり、
「織豊時代」
と呼ばれた時代に、羽柴秀吉が、天下を統一した時点で、
「農民は、田を耕すだけの仕事」
となったのだ。
そのために行ったのが、
「太閤検地」
だったのだ。
そもそも、惣無事令というものが、秀吉によって出されたのは、天下統一によってのことであって、要するに、
「大名間での、私闘を禁じたもの」
ということになっている。
つまり、
「勝手に隣の国に、侵略を目的としたりして、攻め込んではいけない」
ということを基本としているといってもいいだろう。
これは、弱い者を守るというよりも、
「大名の軍隊も、すべては、秀吉の軍隊なので、自分が許可をしない戦闘は許さない」
ということになるのであろう。
関ヶ原の戦いというのは、そんな秀吉が亡くなった後に起きた、
「天下分け目」
と言われる合戦である。
主戦場の関ヶ原というのは、滋賀県と岐阜県の県境に近いところにあり、そこに、いわゆる
「西軍」
と言われる、旧豊臣家臣団で、
「太閤殿下のご意向を守ろう」
という武士団と、
「三成憎し」
であったり、
「これからの世は、徳川の時代だ」
と思っている人が、中心になっていた。
もちろん、三河以来の徳川の譜代であったり、
「三成は憎いが、家康が、豊臣家を立ててくれるというのであれば」
という条件付きで、東軍に入った武将もいる。
豊臣恩顧の大名が東西に分かれて合戦をしたというのが、関ヶ原だった。
決戦は関ヶ原で行われたが、実際には、九州では、黒田官兵衛が、会津では、上杉景勝が、それぞれ挙兵して、関ヶ原以外のところでも、合戦が行われていたりした。
戦は、半日で決着がついた。
「小早川秀秋の裏切りから、日和見だった武将たちが、一気に寝返り、大谷吉継勢に襲い掛かり、横から三成軍を急襲するということになったのだ」
それまでは、一進一退の攻防で、どちらが優勢か分からないくらいだったが、1万もの軍が裏切るのだから、その勢いを止めることができないのも当然だっただろう。
何しろ、
「家康軍には、本隊ともいえる、秀忠軍がおらず、数的優位に立てなかったのは、かなりの誤算だったに違いない」
ということであった。
秀忠軍は、完全に上田で時間を食ってしまった。
何しろ真田昌幸の作戦としては、
「勝つことよりも、相手を足止めする」
ということに、意義があったのだ。
ただ、秀忠からすれば、負けたという気持ちになって、やっと我に返り、本戦への遅延を自覚したのではないだろうか?
城というのは、いろいろ調べてみると結構楽しかったりする。それは、現代に残っている、いわゆる、
「城」
と呼ばれるものと、元々の目的として建てられた城というものの違いを考えると、そのギャップが結構面白かったりする。
実際に、
「今までに作られた城の数が、全国でどれくらいあるか?」
ということを知るだけでも、その数に仰天させられるといってもいいだろう。
「いくつなんですか?」
と聞かれて答える数としては、
「30,000くらいの城がかつて築かれた」
ということである。
この数は、都道府県の数からしても、その比ではない。何しろ、この数というのは、
「全国のコンビニの数の3倍くらいに当たる」
と言われるのだ。
それを聞いただけで、もう、
「都道府県の比ではない」
といってもいいだろう。
だが、この話を聴いてビックリとするというのは、
「城というものの何たるか?」
ということを知らないからだ。
というのも、城というものが築かれた時代を考えれば、少しは想像がつくかも知れない。
「一般的な城」
と呼ばれるものが、
「天守を持った城」
だと思っている人がほとんどではないだろうか?
「いや、城というのは、そもそも天守を必要としない」
と言われている。
城が、闘いのためのものであるということを考えれば、別に天守がある必要はない。店主が築かれるようになったのは、戦国時代が終わりがかった、信長、秀吉などが出てきた時代だったのだ。
「立派な天守を領民に見せることで、その権威を表す」
という意味と、もちろん、籠城のためというのもあったであろう。
しかし、そんな時代になっても、天守のなかった城は少なくない。武田家の躑躅崎館などがその代表例で、前述の上田城にも天守はなかったではないか。
時代によっては、
「天守は、敗軍の将が、腹を切るところ」
とまで言われたところで、実際には、どこまで実用的だったのか分からないだろう。
三の丸、二の丸、本丸と敵兵に攻め込まれれば、もう、ほとんど負け戦は決定的だ。
確かに天守の守りがしっかりしていたりするだろうが、それは落城寸前の、いわゆる、
「風前の灯」
といってもいいだろう。
それを考えると。
「やはり、城主が、そこで腹を切る場所」
ということになるだろう。
どうせ、降伏したとしても、斬首され、晒し首となるのが、オチである。
「首を晒されるという恥を考えれば、武士らしく、切腹をする」
というのが、当時の美学だったに違いない。
中には、
「自分の命と引き換えに、城内の人々の命を保証してほしい」
といって、投降する城主もいただろう。
ほとんどの場合は、
「切腹を命じられる
ということになり、
「領民の命を守った」
ということで、
「武士の鏡」
と言われてしかるべきなのだろうが、なかなかそういう武将がいたと言われないのは、本当に切腹というわけにはいかず、斬首され、晒し首になったのか、単純にその記録が残っていないだけなのか。
想像としては、
「記録が残っていないだけ」
あるいは、
「わざと残さなかった」
ということではないだろうか?
天守は、攻められると、ほとんどの場合は、焼失することが多い。それは、
「城が落ちる」
ということだ。
しかし、天守がなくなるということは、城が落ちた場合よりも、他の可能性の方が結構多い。
というのも、時代的に、
「江戸初期、明治初期、そして、昭和時代」
という時に、それぞれ、そのターニングポイントがあったのだ。
まず江戸初期というと、当時は、関ヶ原の戦いで、勝利した徳川家康は、大名にそれぞれ転封をさせ、自分たちの都合のいい配置にした。
というのも、江戸の近くであったり、主要な土地は、徳川の譜代が務める。
譜代というのは、三河時代から、徳川家に仕えてきた武将たちで、
「徳川四天王」
などの主要武将が勤めていた。
そして、関ヶ原の時になって、徳川側として、東軍に与した大名は、
「外様大名」
と言われ、領地はそれなりの石高ではあるが、江戸から遠い、四国や九州、東北地方へと追いやられた。
そんな中で、主要都市の城の普請事業をいうものを、徳川は奨励した。
というのも、
「豊臣恩顧の外様大名が、いつ、反旗を翻すか分からない」
つまりは、
「それぞれの外様大名の抑えということで、城を強化することを許した」
ということである。
姫路城であったり、名古屋城などもその一つで、外様の中でも、熊本城、福岡城など、九州地区でも、関ヶ原の後に、大改修が行われたり、新たに城を建設したりしたのだった。
だから、
「天守を持った城」
というのが、関ヶ原後に、たくさん作られた。
いわゆる、
「城建設ラッシュ」
というところであろう。
しかし、豊臣家に野心があると見抜いた徳川家は、大坂城に入っている豊臣秀頼、淀君などをけん制していた。
そんな時、家康は、京都の二条城の本丸御殿で秀頼と面会し、
「このままでは、徳川家が危ない」
と踏むと、今度は、大坂方を揺さぶって、因縁を吹っ掛けてきたりした。
それに応じないと踏むと、20万の兵を率いて、大坂城を包囲する。
豊臣方も、
「一戦交える」
という覚悟で、関ヶ原において、西軍として味方した武将は皆、打ち首になるか、島流しに逢い、駆けつけることはできない。
そうなると、浪人となった武将たちに、声をかけるしかなく、幾多の猛者が集まってきた。
その中には、高野山の九度山に流されていた、真田信繁も含まれていた。
後は、明石全登であったり、後藤基次、さらには、毛利勝永などの名のある戦国武将が集まってきた。
そこで、大坂の方では、作戦会議の中で、
「大坂城から打って出て、川を氾濫させ、挟み撃ちにする」
などと、いろいろな作戦が練られたが、淀君は、強行に、
「籠城戦」
を主張したのだ。
「大坂城は難攻不落」
ということを言い張って、頑として譲らない。
淀君の側用人のような形の大野治長も、淀君の作戦を押すのだ。
そうなってしまうと、浪人たちの作戦は受け入れられない。そこで、真田丸の登場になるわけだが、
「大坂城は、ほとんどが難攻不落であるが、唯一手薄と言われるのは、南の方向だ」
ということを見抜いた真田信繁は、南に、出城ともいえる曲輪を築いた。
徳川方の攻撃を引き受ける形で、引きつけておいて、一網打尽という、本来の城のような形であった。
そんな真田丸の活躍などもあり、一進一退を続ける徳川方は、
「高齢の家康には、戦が長引くのは不利」
ということで、大砲で、大阪城の天守を狙うように指示した。
それと同時に、夜になると、城の外から、
「時の声」
を上げさせ、城内を眠れないようにし、さらに、いつ攻めてくるか分からない状況にしておけば、精神的にお追い詰められるというものだ。
そこに持ってきての大砲攻撃である。
大砲の球は、ほとんど届かなかったようだが、運よく天守の一部を貫通し、数名の従者が巻き込まれたことで、淀君が怖気づいたのだった。
そこで、かねてより、和議の申し込みがあったので、それに乗じて、和議を結ぶことにした。
そもそも、淀君というのは、
「浅井三姉妹」
と言われていて、浅井長政の長女:茶々であった。
彼女は、自分の父親、さらには再婚した柴田勝家、とともに、母のお市の方までも、城で自害をして、城が落とされるという現場を見ているので、よほど大砲の威力が恐ろしかったのだろう。
それで、淀君は、
「急いで和議を」
ということになったのだが、これが徳川方の計略であった。
和議の条件として、
「雇い入れた浪人たちを追放すること」
あるいは、
「城の外濠を埋めること」
などという条項があった。
浪人を追放したのはいいのだが、今度は約束の濠埋めであったが、徳川方が、約束をっ破って、内濠まで埋め始めたのだ。
これには、さすがに大坂城の方でも抗議をしたが、実際に埋め始めてしまうとあっという間のことで、難攻不落と言われた大坂城は、
「裸城」
となってしまったのだ。
これでは勝てるはずがない。
一度追放した浪人を呼び戻して、急いで戦支度をしたが、とてもではないが、勝てるはずがない。
さすがの大坂方も覚悟はしたことだろう。
真田信繁も決死の突入で、家康に、
「自害を覚悟させた」
と言われるほどに奮戦したが、最後は力尽きて、討ち死にをした。
後藤基次らも相次いで、まるで死に場所を求めるかのように討ち死にをしてしまい、
「さすがにこれまで」
ということで、大阪城の曲輪で、淀君と秀頼は自害して果てたのだった。
大坂城には火がかけられ、そのまま天守は燃えつきてしまった。
秀吉が、天下一の城ということで築いた大坂城も、これまでだったのだ。
そんな大坂城が最後に燃えつきると、今度は、
「豊臣という最大勢力がなくなったことで、応仁の乱あたりから続く、戦国の世に終わりがきた」
ということを家康は、宣言したのだった。
この宣言として、元号を、
「元和」
と改め、
「武器を倉庫にしまい、決して使わない」
という意味の言葉として、
「元和堰武」
という言葉で、諸大名に宣言したのだった。
この戦のことを、
「大阪の陣」
といい、和議が結ばれるまでを、
「冬の陣」
そして、豊臣家が滅亡した戦を、
「夏の陣」
と言ったのだ。
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