第105話 生贄
気を失ったマリアの前にソフィーを入れた球体が近づく。オーランドはその中に手を入れた。
取り出したのは、黄金の盃。それを傾けると、赤い液体が垂れ、床に溢れる。液体は泡立ち始めると、スライム状に膨れ上がった。それは蠢き――マリアの体に纏わりつく。徐々に黒く変色していくと、激しく震え始める。
オーランドがスライムに触れると、急に大人しくなった。それは黒い心臓の形となり、オーランドの両手におさまったあと、激しく脈動する。
彼は笑った。大声で笑う。涙が出るぐらい、彼は笑った。
それも仕方がない。だって彼は――この時のために、たくさんの人間を犠牲にし、長い歳月をかけたのだから。
聖女の狙いは、マリアに血の契約を施し、マリアの中にいる魔を完全に封印すること――オーランドはそう認識している。
器と依り代との道が塞がったままでは、器から瘴気が漏れ続けることになる。その量は人の行い次第だが、緩やかに世界は崩壊していく。現時点でも、魔物が増え、異常な行動も増えた。自然の流れも変わり、既に作物の取れる量は減っているし、辺境の地では自然災害も頻発している。大きな変化はないが、徐々に兆しは見えている。それでも、マリアが死ぬまでは世界の均衡を保つかもしれない。聖女が行っていることはただの時間稼ぎ。今の所、何かしらの打開策が見つかっているわけでもない。
だから、感謝してほしいと――オーランドは思う。
自分は今、マリアから依り代としての力を奪った。彼女ではできないことをしてあげたのだ。
その代わりに、人の世が滅ぼうとも――それは、仕方のない話だ。
笑う。
彼は笑う。
笑ったあと、異変に気づいた。
自分の手には何もない。
目の前にいるはずのマリアもいない。
床にこぼれた血の跡もほとんどなく、遺体の姿もない。
「ご苦労様、オーランド」
声がした。
いるはずのない人間の声。
階段を下りた先に――聖女がいる。
その両手には、気を失ったマリアの姿。
彼女の前に、ソフィーを閉じ込めた黒い球体が浮いており――結界に閉じ込められている。
聖女の結界の仕組み、構造はとうに把握している。そのはずなのに――目の前にあるそれを――理解できない。
それは、進化などではない。全く違う。次元が――違う。
オーランドの思考が停止し、いつもの笑みが消えた。
聖女はマリアを下ろし、近くの柱に寄りかからせる。
彼女の思考が読めない。そんなこと――あり得ない。
聖女は笑みを浮かべながら、階段を上り始めた。
オーランドは後ずさる。
階段を上り終え、聖女は口を開く。
「がっかりさせないでね。これでも君のこと、感謝しているし――それなりには、認めているのだから」
「何故――」
それ以上、言葉がでない。
「何故? そんなことを聞いてどうするの? だってこの後、君は死ぬのだから」
――口元が、歪む。
「ふ、ふざけるなぁ!」
オーランドの周りに風が巻き起こるが、すぐに収束し、首から下が動かなくなる。
「君は本当に優秀だったわ。人の思考を読む異能を持ち、しかも複数の心を同時に聞き分け、把握していた。人心を掌握し、寝る間も惜しんで知識を得、それを有効に活用した。神代文字を研究し、理解した唯一の天才であり――とんだ偏屈爺に認められ、知識を盗みさったのは――見事としか言えない。しかも、老衰と見せかけ殺害し、その知識を自分だけのものにした。本当に、たかが数十年生きた人間とはとても思えない。凄く、頑張ったわね」
その上からの発言に、オーランドは歯ぎしりする。
「俺が思考を読むと――お前が何故をそれを知っている。いつ知ったんだ。どうやって、知った!」
聖女はほほ笑む。
「言葉が粗野になっているわよ。でも、その方が君らしいわね」
「質問に答えろ!」
声を上げて笑う。
「馬鹿ね。初めから知ってたわよ」
オーランドは言葉を失う。
――そんな訳がない。何年も聖女の思考を読んできた。自分の能力を――自分がしてきた行為を知っていたそぶり何て、少しもなかったはずだ。
「知っていれば、対策何ていくらでもできるわ。君のように優秀で、自分の力を疑わない人間は――ある意味、分かりやすくて助かるわ。だって君は、私が垂れ流してきた思考が偽物だと一度も疑うことがなかったのだから」
――そんなの、とても信じられない。
「だから私は何も理解していない振りをしてきたし、結界も――君にだけ分かるように、わざと不完全にしていた。確かに君の能力は特殊かもしれないけど、自分だけだとは思わない方がいいわ。この数千年の歴史の中では、君は特殊でも何でもない。だから、どうすればいいかの答えを私はすでに知っている」
「お前は一体――なんだ?」
「聖女は背中に聖痕を引き継ぐだけじゃない、それと同時に、記憶を受け継いでいく。だから、私は私でありながら、私ではない。そんな私が、数千年の道を歩いてきた。世界の声を聞き、世界の喜びを知り、世界の悲しみを知った。世界とともに私たちは歩み、世界とともに人の世を見届ける観測者でもある。世界が崩壊するとき――私たちは世界の願いを届ける調停者となる」
「これは――その役目から逸脱しているんじゃないのか!」
「そうね、その通りよ。しかし、感謝して欲しいわね。本当はもっと始めの方で君を殺そうと思っていたのだから」
「知っていて見逃したのか? たくさんの人間を殺してきた。不幸にしてきた。それを知っておきながら、お前は見逃してきたと言うのか?」
「そうよ。そして、それだけじゃない。君のために手助けもしてきたし、君を誘導もした」
「何のために――」
「初めはただの気まぐれだった。私は他の聖女とは違い不真面目で、どこか投げやりだった。正直、役目などどうでもよかった。俗世と距離を取り、自分たちの意思を介入させるものではないと――皆は考えていた。しかし、私は近づいた。精霊の子と、依り代には必要以上に関わるものではないことも知っていた。私たちは観測し、器が溢れるとき――始めて役目があたえられる。でもね、会ってみたかった。彼女らの不幸など私には他人事で、まったく興味もなかった。本当に気まぐれで、私はマリアへ会いに行った。少し話をして終わるつもりだった。なのに、気づいたら師の真似事をして、いつの間にか、私は――」
そう言って、セラは鼻で笑う。
「――その時の私は、自分の役目に興味などなく、人の情勢に全く興味がなかった。だから、君がマリアの里を滅ぼすまで、私は何ひとつ気づかなかったし――まさか、私を利用するとは思わなかった」
一瞬、セラに睨まれ――オーランドは身震いした。
「すぐに君を殺そうと思ったんだけれど、考えが変わったの。君には、マリアのために働いて貰おうとね。だって、そのときにはもう、君はとても面白い計画を立てていた。それを少し、私好みになるように手を加えさせて貰っただけ」
「そのために、俺のしてきたことを見逃し、利用してきたと言うつもりか?」
「そうよ。さっきも言ったけど、私、特別人に興味がないのよ。――だから、人が何人死のうが、大して心が動かされないの」
「それで、良く聖女と言えたものだな」
「本当、馬鹿みたいな称号よね。聖なる女なんて、いる訳ないのに」
そう言って、馬鹿にしたように笑った。
「だけど、そんなことはどうでもいい話ね。それより、私は本当に君に感謝しているの。マリアの代わりに、依り代となってくれるのだから」
オーランドは依り代となるつもりなどない。ただ、魔の力が欲しいだけだ。
「あぁ、後言っておくけど、魔の力を使おうとも、ソフィー様の中にある世界の知識は手に入らないわよ。あれは人に理解できるものではないのだから」
オーランドの目が大きく見開く。
「君はこの世界を滅ぼした後、その知識でフィーネさんを生き返らせ、エルフの世界へ行くつもりだったみたいだけど、とんだ無駄骨だったわね。そもそも、人が生き返ることなどありえない。それなのに、醜い男と女の欲望に身を預け、君に忠誠を誓っていたメアさん達を今日のためにと――犠牲にしたのにね」
口元が震える。
「少し意外だったわ。メアさん達を生贄にしたとき、君は意外にも――人間らしい感情を見せたんだもの」
オーランドは叫ぶ。罵詈雑言を聖女に浴びせた。すぐに口が塞がり、何も言葉にできなくなる。
「本当に、聞くに堪えないわ」
聖女の手に、黒い心臓が現れる。
「あとひとつだけ、いいことを教えてあげるわ。国王と王妃もちゃんと生きているわよ。彼らは生き証人となるでしょうね」
――――は?
「君とマリアは、きっと夢を見ていたのよ」
そんな訳がない。――しかし、確かに、王妃が国王へと縋り付いたとき、微かな違和感はあった。
まさかと思う。まさか――そんなことなどあり得ない。
ソフィーを閉じ込めたはずの黒い球体が蠢くと、聖女は結界を解除した。
球体が割れ、中からソフィーが出て来る。
「もう、大丈夫なのでしょうか?」
聖女は、ソフィーに尋ねる。
「私のことなど構いません。そんなことより、マリアは大丈夫なのですか?」
万全な状態ではなさそうだが、傷はほとんど修復しているようだ。
球体の中で、聖女は回復魔法をかけ続けていたわけだが――それにしても、やはり異常だ。流石は、精霊の子と呼ぶべきなのかもしれないが。
「気を失っているだけですので、大丈夫です。それにしても、まさか自分の心臓に剣を突き刺すとは思いませんでしたよ。正直、そこまでする必要はなかったんですよ?」
「いくら演技とは言え、マリアに剣を向けたのです。あれぐらいでは全然足りません」
オーランドは驚愕の目で、ソフィーの姿を見る。
「ソフィー様には、事情を教えて協力してもらうことにしたの。君の計画はある程度把握していたからね」
確かに、城で二人が話していたのをオーランドは知っている。その情報はちゃんと聞いていた。
「ちょっと特殊な結界をはらして貰ったのよ。君が盗み聞きしているのは分かっていたしね。それに、ソフィー様相手に、思考を読むことはできない。協力者としては申し分ない逸材よ」
オーランドは笑いたくなる。笑ってしまいたくなった。
セラは、ゆっくりとオーランドに近づく。
「そろそろ、兵士たちが君を捕まえに来る。だから君は、全ての悪として――そして、依り代として、死んで頂戴」
聖女は黒い心臓をオーランドに近づける。
地獄に落ちろ!
オーランドの思いは言葉とはならない。
しかし、セラは理解した。
「そんなの、当然の話よ」
オーランドの体に黒い心臓を押し付けると、それは彼の中に入り込む。
その瞬間、彼の体は膨張し、別の何かへと変質した。
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