第86話 心の中

 マリアは嫌な予感がした。


「アンナ、ごめんね」


 地面の上に彼女を静かに寝かせると、マリアはふたりの元に駆け出した。


 聖女がヴィオラに向かって右手を伸ばしている。


 マリアはふたりの間に割り込もうとした。ヴィオラの後ろから黒い渦が巻き起こり、そこから手が飛び出す。それはヴィオラの胸を貫通した。黒い血が飛び、その手には黒い石。


 マリアと聖女の動きが止まる。


 セラは直ぐに目の前の石に手を伸ばすが、それは黒い渦の中に仕舞われた。気配を追うが、まったく感知出来ず、舌打ちがでる。


「ヴィオラさん!」


 マリアは彼女に駆け寄る。


 セラが魔法陣を解除すると、ヴィオラの体が傾く。マリアは慌てて彼女を支え、地面の上に寝かせた。


 ヴィオラは咳き込むと、口から血が垂れる。


 マリアは直ぐに彼女の胸元に手を伸ばし、回復魔法をかけた。頭では、もう無理だと理解している。しかし、心がそれを認められない。


「マリア、もう無理だから」


 ヴィオラはマリアの手を握る。


「そんなことないです! だから、じっとしていてください。私が助けますから!」


 ヴィオラの体から黒い霧が漏れ出す。


 それを見て、マリアの口元が震える。


「マリア、魔法を止めて」

「何を言っているんですか!」

「私の手を握って、私を見てよ。ねえ、マリア。お願いだから。私の最後を看取ってよ。少しの時間だけでも、私を見て、私のことだけを考えてよ」


 マリアは魔法を止めると、彼女の手を握った。

 歯を食いしばった。それでも、涙が止まらない。止まってくれない。


「魔石がなくなって、少しだけ頭がすっきりしたみたい。マリア、私はね、私が死ぬときには、泣いてほしかった。苦しんで欲しかった。でもね、私はやっぱり、笑っているあなたが好きだった。どんなあなたより、笑っているあなたが好きだった。そのはずなのに、私は何をしようとしていたのかな」


 そう言って、ヴィオラは苦笑した。


「私は私として生きるより、あなたの中で生きたいと――そう、思ってしまった。だから、許されないと分かりながらも私は願ってしまう。私の死を見て、私を忘れないでと。あなたが死ぬその時まで、私をどうかマリアの心の中にいさせて」

「私は絶対に、ヴィオラさんを忘れません」

「特別ではないのに?」

「ヴィオラさんの言う特別ではないのかもしれない――それでも、私にとって大切な人です。私だってずっと会いたかったんですよ」

「……信じられないよ、マリア」

「どうしたら信じてくれるんです?」

「キスしてくれたら、信じられるかもしれない」


 マリアの驚く顔を見て、目線を外す。

 唇の隣に柔らかい感触がし、驚いてマリアの方に視線を戻した。


「ごめんなさい。これが限界です」


 マリアは少し、申し訳なさそうな顔をする。


「ヴィオラさん――私という存在は、いろんなものの積み重ねによって出来てるんです。その中に、ヴィオラさんもいます。ヴィオラさんがいなかったら、今の私はありえません。ヴィオラさんがいるんです。ちゃんと私の中にいます。私の心の中に、ヴィオラさんがいるんですよ。それは永遠にかわらないです。だって、私を形成する大きな柱のひとつなんですから」


 ヴィオラは笑う。嬉しそうに笑う。


「マリア、私は幸せだよ。それは誰にも否定させない。あなたにだって、決して否定させない。だからどうか、私を思い出す時には、笑っていて欲しい」


 マリアは頷く。


 だけど、今は無理だ。


 きっといつか、笑って思い出す時が来る。


 それでも――マリアは笑う。必死なつくり笑顔で。だって、彼女はそれを望んでくれたから。


「マリア、その顔はさすがに変だよ」


 そう言って、でも――嬉しそうに笑ってくれた。


 手を握る力が弱くなっている。


 だから、マリアは必死に手を握った。


「……記憶にないだろうけど、アンナにごめんと伝えておいてね。私はもう、伝えられそうにないから。そして、たくさんのありがとうを、どうか――」


 ――消えていく。


 少しずつ、彼女は消えていく。


 それでも、彼女は最後まで笑顔で――


 黒い霧とともに、空へと還っていった。

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