サンプーマーシン
豊口栄志
サンプーマーシン
ライターの業務の傍ら、SNSで募った依頼をネタに、ほうぼうへ出掛けて身近な疑問について調査するということをかれこれ十年近く続けている。
調査過程や結果報告をまとめてはブログにアップして、スズメの涙ほどの広告収入を得るという――赤字しか出ない趣味である。
今どきならば動画に編集して収益化できる動画投稿サイトに上げてしまったほうが閲覧も評価も収入も数字が出せるのかもしれないが、未だもってこのスタイルを貫いている。
意地になっているとか、こだわっているというわけではない。きっと。初めて触れたネット文化がテキストサイトだった、という原体験が、自身を通じて表現を執着せているのだろう。
不満を覚えるほど見向きもされないような状況ではない、というのが現状維持の一番大きい理由ではあろうが。
おかげさまで、このたびも新しい調査依頼が届いている。
――昔、深夜に放送していた「お料理番付」に出てきた「サンプーマーシン」を食べてみたいです。作り方や、どういう料理なのか、調べていただけませんか。
懐かしい! それが依頼を受けて最初に抱いた感想だった。
そうだ。自分も当時、視聴していた。
『お料理番付』――それはかつて二〇〇〇年代初頭に深夜枠で放送されていたテレビ番組だ。
二〇年近く前の記憶を手繰りながら、パソコンで番組名を検索する。
誰でも編集できるフリーの百科事典サイトで番組概要の情報をつらつらと眺め、思い出を呼び起こす。
『お料理番付』は名前のとおり料理の格付けを行う趣旨の番組だ。
ただしその内容は特異なもので、一言で表すなら料理の異種格闘技戦だった。
番組のキャッチコピーからして『ステーキVSショートケーキ! どちらが美味い!?』という、いかにも深夜に放送する無責任かつ無分別なばかばかしさに溢れた謳い文句である。
料理番組というよりはバラエティ番組に属する内容で、真剣に料理を作るその道の料理人たちと、同じく真剣に優劣をつけようとする審査員たちの手に汗握る戦いが、カルト的な人気を博していた。
『サンプーマーシン』はその番組に登場した名物料理だった。
個人的主観に基づく印象だが――この番組最大の魅力であり、かつ最大の謎だった。
どこの誰とも知れない素姓の分からない謎のおじさんが作る謎の食べ物。
それがサンプーマーシンだ。
卵を使った蒸しパンのような淡い黄色のフカフカした見た目をしていた
審査員は皿の上のそれを一目見るなり「これは美味い!」と太鼓判を押し、審査に際しても甘さについて口にしていたので、料理の中でもお菓子に類するもので間違いない。
番組概要を載せた百科事典サイトにもサンプーマーシンのことは特記されている。
この料理の登場で番組の盛り上がりは決定づけられた。やがて番組内容は、どんな料理ならサンプーマーシンを超えられるのか、という趣旨に移り変わり、挑戦者を降して何週にもわたって王座を守り続けたサンプーマーシンはとうとう殿堂入りを果たす。サンプーマーシンの登場しなくなった番組は当初の路線へと回帰するが、尻すぼみに人気が落ちて番組は終了する。
ここまでは自分の記憶のとおりだ。あったあった、と相槌を打ちながら読み下していた。
だがこの先の記事に私は眉根を寄せて首を傾げた。
――『サンプーマーシンの怪』、そう見出しがつけられていた。
サンプーマーシンがどんな料理なのか、誰も知らない。
果たしてそのような料理は存在せず、審査員たちがサクラとなって持ち上げていただけの架空の料理であるとも言われている。(※誰に?)
サンプーマーシンを記録に残さないために、現在でも『お料理番付』はビデオソフト化も配信も行われていない。(要出典)
ふわふわの内容である。記憶の中に確かに存在していたサンプーマーシンの質感よりよっぽどふわふわである。
私の元に調査依頼がもたらされるのもむべなるかな。もっと信頼できる調査機関に任せたほうがよほどいいんじゃないかとも思う。
サンプーマーシンは何かよく分からない。よく分からないところが不思議で、よく分からないのに審査員が口を揃えて「美味い!」と言うのが、これまたこの食べ物の魅力を一層大きく膨らませていた。
結果、番組が終了し時を経た現在、サンプーマーシンは情報を漂白されて『何だかよく分からない』という属性だけが取り残されてしまった。
私は手掛かりを求めてさらにネット上の情報をあさる。
匿名掲示板の過去ログを掘り返してみる。番組名やサンプーマーシンそのもので検索を掛けて、書き込みを斜め読みしていった。
しばらくブラウザとにらめっこしていると、奇妙な傾向が見えてくる。
まず、番組終了から数年経った二〇〇七年あたりから「そんな番組もあったなぁ」と過去を懐かしむスレッドや書き込みが見え始める。
時間の経過に伴い、番組について語るスレッドが新たに建てられることはなくなっていく。
再放送もしていないのだ。新規視聴者など生まれるはずもないし、ましてや実況スレッドを賑わすこともない。
ところが、二〇一一年頃を境にして『お料理番付』よりも『サンプーマーシン』自体に対してスレッドが建てられるようになってくる。
これは過去を懐かしむような書き込みではない。
掲示板のジャンルがテレビではなく、都市伝説を語るオカルト板に移っている。
そこでは不思議なものを観察し、考察する、純粋な好奇心からの疑問が発せられていた。
すなわち――『サンプーマーシンなどという食べ物は本当に実在したのか?』という問いである。
先だって目を通した百科事典サイトの概要にもあった。
サンプーマーシンなどという料理は実在せず、何か――例えば私が見て思ったようなただの蒸しパン――を『サンプーマーシン』と呼んで、審査員たちに称賛させた、番組上の
そういう考察が急に増えるのだ。
いや――どうもそれだけではない。
スレッドを読み進めていくと、いよいよヤラセの有無などという次元の話ではなくなってくる。
彼らは番組に登場した『サンプーマーシン』自体の実存を疑っていた。
かつて私がテレビ画面の中に見た、黄色い蒸しパン様の食べ物は、実はそもそもその場に存在していなかったというのだ。
そんな無茶な……と呆れるが、当時の映像を確認しようにも、『お料理番付』はビデオソフト化もアーカイブ化もされていない。マスターテープを入手するしか確かめる方法は無い。
存在しないことを証明する悪魔の証明。そのために提示された証拠もまた、同じスレッドに書き込まれてあった。
ドメインで分かる。動画投稿サイトへジャンプするリンクだ。
放送当時に個人で録画した番組を無断でアップロードしたものがネット上に開陳されていたのだ。
なるほど。この頃にはスマートフォンが普及し、ネット人口が拡大、動画サイトの存在が後押しになって、サンプーマーシンそれ自体への疑義へと波及していった。
スレッドの書き込み内容の変遷にはそういった背景があったのかもしれない。
頷きながらリンクを踏むと、リンク先のページは十年以上を経た今も生きていた。
間もなく再生された動画は、間違いなく私の記憶にある『お料理番付』であった。
ビデオテープでの録画を取り込んだであろう、特有のアナログなノイズが見え隠れしており、懐旧の情を温めてくれる。
二十余年ぶりに聞く番組冒頭のジングルに思わず頬がゆるむ。
気を取り直してサンプーマーシンが登場する場面までシークバーを滑らせた。
見覚えのある五十がらみの男が画面に映り、手を止めた。
白髪混じりの頭に、特徴の薄い顔立ち。外国人という風貌ではない。どこにでもいそうな中肉中背の、働き盛りを幾分か過ぎた男。ワイシャツにスラックスをはいて、腰に白い
特徴が無さすぎて正体の分からないこの男こそ、サンプーマーシンを作りだす稀代の料理人だ。
彼はフランス料理のように、クローシュと呼ばれる銀色のドーム状の蓋をかぶせた皿を審査員たちの前に運んで給仕する。
カメラが皿にズームイン。男がクローシュの覆いを取り外す。
もったいぶったスローモーションと、派手な三回パン。
そこから姿を現すのが渦中のサンプーマーシン……のはずだった。
「あれ?」
我知らず声が出ていた。
大写しになった皿の上には何も載っていなかったのだ。
本来そこにあるはずの黄色い蒸しパンらしき物体はビデオに映っていない。
代わりに、検閲でも受けたかのように、黒塗りのシルエットがぺったりと画面に貼り付いていた。
いびつな楕円形の黒い“なにか”が画面に大写しになって、シャララという瀟洒な効果音と共にシルエットの下半分に典雅な字体で『サンプーマーシン』というテロップが入る。
おかしい。サンプーマーシンの部分を後から黒く塗りつぶしたなら、テロップを避けて黒塗りを被せたことになる。
カメラの手ぶれを考えると、一コマ一コマ修正しないとこうはならない。
そのはずなのに、テロップの縁ぴったりに黒塗りの影がくっついている。
映像を取り込んで、わざわざこの部分だけ修正したというのか?
動画の投稿日は十年以上前だ。アップロードした映像を編集したのはそれよりもさらに前。AIの補助もつかない当時のパソコンでここまで綺麗な修正を施そうとすれば、かなりの手間が掛かるんじゃないだろうか。
投稿者と編集者が同一人物とは限らない。
編集した人間がテレビ放送前の未編集の映像素材を持っていて、そこに手を加えた可能性もなくはない。
――が、この映像のノイズはビデオテープに録画したものに見える。他のシーンを見ると、CMをカットした跡が見られる。どう考えてもテレビ放送の録画だ。未編集のテープの存在は考え過ぎだ。
サンプーマーシンが黒塗りになって消えている。
まるで最初からそんなものは存在していなかったのだと誰かが吹聴するために、後から料理だけを黒く塗りつぶしたようだった。
間違いない。これこそがサンプーマーシンの実存をくらませた元凶だ。
ここから都市伝説は発生したのだ。
奇妙な映像を目の当たりにして、しばし放心していたが、自分の記憶の中にはまだ思い出のサンプーマーシンの姿が残っている。
存在しないなどということは決してない。
映像は奇妙だったが、そのことは横に置き、あの黄色い料理の幻影を再び追いかけ始めた。
やがて時間が過ぎ、サンプーマーシンの正体に自分なりに迫った末、私は今回の調べ物の依頼者に連絡を取った。
サンプーマーシンを食べに行きませんか、と。
二つ返事で了承を得た私は、彼と共に実食を伴う取材へと繰り出した。
待ち合わせ場所にいた依頼人は私より少し年下の三十過ぎの青年だった。おそらく『お料理番付』の放送当時は中学生くらいだろうか。鮮烈な印象を残すのにうってつけの多感な時期だ。
ふたりで向かった先は都内の有名ホテル。その一階に入っているレストランである。
和洋中、なんでも揃うし、ランチタイムにはビュッフェ形式で高級料理が食べられるとあって、かなりの人気がある。
私はホテルの広報を通じて料理人と交渉し、ランチの終わった昼下がりに時間を作ってもらっていた。
正直、ランチの残り香のせいでサンプーマーシンよりビュッフェを食べたい気持ちが頭をもたげそうになる。
昼下がりのレストランは閑散として落ち着いていた。客といえば、身なりのいい紳士がコーヒーをすすっているくらいだ。
ホテルマンに用向きを伝え、依頼人とふたりで案内された席について待っていると、ほどなくコックコートを着た男が湯気を立てる皿を持ってやってきた。
「お待たせしました」
彼はテーブルにことりと皿を載せる。白い食器の上には黄色いオムレツに似た料理がぽってりと艶めいてあった。
「こちら、
コックコートの男が一歩下がると、依頼人は私の顔を覗き込む。
「これがサンプーマーシンですか?」
「私はその可能性が高いと考えています」
三不粘――中華料理のひとつで『卵と油と粉の芸術品』と称されるデザートである。
卵黄に砂糖と水、片栗粉やコーンスターチ等のデンプン質を加え、油を熱した鍋で、それをひたすら練り続けて出来上がる。
値の張る材料を使ってもいないのに、作るのに時間と技術を必要とする。
三不粘が芸術品と呼ばわれるのは、ひとえに調理の難易度の高さゆえだ。
この料理を作れる料理人は多くないし、作れる腕のある料理人を長時間鍋に張りつかせておくのも厨房にとっては痛手だ。
そのため三不粘を単品で提供する店はなかなか存在しない。大人数でコース料理を予約してその一品に出てくる、といった具合に、そうそうお目にかかれない料理なのだ。
「皿にも箸にも歯にもつかない。ゆえに三不粘と呼ばれております。どうぞご賞味ください」
私の説明に、配膳してくれた男性が一言付け加えた。
配膳した後にもテーブルのそばにたたずんでいる彼に、依頼人は首を傾げる。
「あの、こちらの方は?」
「私が本日の三不粘を作りました。当ホテルで料理長を務めております」
脱いだコック帽を胸に当て、折り目正しく礼をする。彼こそ、私の趣味にわざわざ付き合ってくれた酔狂な料理人である。
「何を隠そう、私はサンプーマーシンが食べたくて料理の道に進んだんです。今日のお話も、サンプーマーシンを召し上がっていただきたくてお受けしました。まずはそちらをどうぞ」
「そ、それでは……いただきます」
料理長に勧められ、私と依頼人は三不粘に箸を入れる。
柔らかいがしっかりと弾力がある。餅のようだが名前のとおり皿にも箸にもくっついてこない。表面も中身も油を吸って鮮やかな卵の黄色が輝いている。
すくい上げるように箸で持ち上げる。意外にもつまむことはできるようだ。
茶碗蒸しに口を付けるように口先で吸いつくと、それは上下の歯の隙間から口の中につるりと滑り込んできた。
甘い。ふわふわした弾力にもっちりとした歯ごたえ。歯触りは軽く、味はカスタードを思わせる。
「お菓子だ。けど今まで食べてきたものとは別のジャンルですね。同じ卵のお菓子でも、カスタードプリンのようにパクパクと食べられないし、カステラほど口の中に残らない」
依頼人はそう評した。けだしその通りだと頷くほかない。
「謎。我々はまさしく謎を食っている。テレビの中に見たサンプーマーシンと同じく」
私の言葉に依頼人もまた頷き返す。
「そうか。これがサンプーマーシンなんですね」
箸を進めながらそう詠嘆する依頼人に、料理長が言った。
「いいえ。違います。これはあくまで三不粘です」
我々は一瞬言葉を失い、箸を止め、そろって彼のほうへ視線を走らせた。
「サンプーマーシンは三不粘である。その仮定は私も一度辿りました。ですがこの料理をお客さまにお出しできるようになるまで上達しても、私にはこれがサンプーマーシンであるとは納得できませんでした」
「そんな。名前だって見た目の色合いだって、似ているじゃありませんか」
「ですが三不粘には無いのです。“あの”サンプーマーシンのように一目見ただけで「美味い」と断じられる魅力――いえ、魔力と言っていい。それが無い」
熱を帯びた料理長の言葉に、我々は再びテーブルの上の三不粘に視線を落とす。
そうだ。確かにそうだ。彼の言うとおり、私がテレビにかじりついて見ていたサンプーマーシンの不思議な魅力が、この芸術品には足りていない。
三不粘は立派な料理だ。珍しいし、味も申し分ない。食事を楽しむという点に置いて、三不粘を食すという体験は他の料理には肩代わりできない魅力がある。
けれどサンプーマーシンの謎の魅力――料理長の言葉を借りるなら魔力だろうか――それが三不粘には足りない。
異質なのだ。サンプーマーシンという存在が異質すぎて、目の前の三不粘と合致してくれない。
「三不粘がサンプーマーシンだと言われれば納得しますが、違うと言われれば、確かにそちらのほうが輪を掛けて納得してしまいます」
依頼人も私と同じ感想を抱いたらしい。
「これがサンプーマーシンでないとすると、料理長はどんな料理だと想像されているんです?」
こちらが尋ねると、彼は鷹揚に頷いて朗らかに言った。
「よろしければ私が考えたサンプーマーシンをこれから召し上がりませんか」
三不粘=サンプーマーシン説を面と向かって否定された我々に、その誘いを断る手は無かった。
今日の取材のために半休を取っていたそうで、料理長は早々に仕事を切り上げ、私たちをとあるマンションの一室へと招いた。
自宅ではなく、料理の研究のために借りた部屋だという。
充実したキッチンと、それに付随する広々としたダイニングとリビング。他の部屋は物置や仮眠室になっている。
料理長はリビングに我々を置いて、調理へと赴く。
その前にリビングのテレビに『お料理番付』の録画を流して行くのを忘れない。
こちらの映像でもサンプーマーシンは黒抜きのシルエットで映り込んでいた。
私と依頼人は懐かしい映像を眺めながら当時のことを話し合って、瞬く間に時間が過ぎていく。
やがてキッチンから甘く香ばしい匂いが漂ってきて、ほどなく料理長がその匂いの元を携えて帰ってきた。
ビデオの再生を停めて、ダイニングテーブルへと移る。
テーブルの上にはクローシュに覆われた皿が載せられていた。
こんなところまでサンプーマーシンを再現するのか、と思わず口元がゆるんだ。
「これが私のサンプーマーシンです。どうぞご覧ください」
席に着いた私と依頼人を順に見て、料理長はクローシュを取り去る。
現れたのは、白い円錐型のかわいらしいフォルムをした物体。それがころころといくつも皿に載せられていた。
「メレンゲクッキーだ」
その正体を口に出した依頼人の声は感嘆に震えていた。
私は目の前のメレンゲクッキーに視線が吸い寄せられて、声を発するどころか言葉を探すこともできなかった。
一目見ただけで解る。
これは美味い! 間違いなく!
匂いを嗅いで姿を見ただけだ。それだけで味が分かる。
画面越しにサンプーマーシンを見ていた頃と同じ衝撃を網膜に浴びている。
「あの……食べてみても?」
クッキーから視線を外さないまま尋ねていた。
「ええ。どうぞお召し上がりください」
まるでガンマンの早撃ちのように、私と依頼人は瞬時に手を伸ばして即座に口に放り込む。
ザクザクと固い歯応え。甘い味と共に軽く口の中で溶けていく。
普通だ。味は普通のメレンゲクッキーだ。素人の手作り菓子より段違いに美味いが、それでもそのへんの店で買える味だ。
だが……だが、おかしい。美味い。間違いなく美味い!
目に見えて解るのだ。一目見たその瞬間から、美味いことが確定している。
「なんだ。なんなんだ、これは? これは……食べ物?」
「教えてください! なんで――いや、何がこんなにおいしいんですか?」
そうなのだ。味はどうということはない。だが美味い。
謎だ。本当の謎を我々は今しがた噛み砕いて飲み込んだ。
謎の部分だけが胃の腑に落ちずに喉に引っ掛かっている。
「もっとよくご覧になってください」
自信にみなぎる料理長の言葉に従うまでもなく、我々の視線は皿の上のメレンゲクッキーたちに吸着されて逸らせない。
目を離すとこの逸品が泡のように消えて無くなってしまうんじゃないかとさえ思う。
しかしながら、じっとクッキーを見つめていると、次第に迫り来る謎のインパクトにも慣れてくる。
ああこれは美味いものだ。知っている。解っている。と、既知の感覚へと馴染んでいく最中なのだろう。
そう思っていた。
だが凝視しているうちに不思議なことが起こった。
「なにか……くすんでいるような……?」
「ええ。最初に見たときはもっと輝くような白さだったはずです」
メレンゲクッキーを挟んで依頼人と頷き合う。
確かに白かったメレンゲの円錐が、今は灰色に曇っている。
「これは一体どういうことなんです?」
クッキーのもつ視線の引力から脱し、ふたりそろって料理長に顔を向ける。
「聞いたことはありませんか。『料理はまず目で味わう』と」
出し抜けにそう言って、彼は自分のこしらえたクッキーをつまみ上げる。
「人は目で見て、匂いを嗅いで、あらかじめ味を予想してから口に物を運びます。毒物を避けるために備えた動物的な習性ですね。そのために目隠しをして鼻を塞いだ状態で物を食べると、その味は正確には分からなくなります」
「食べ物の味を判断するのに、味覚は半分ほどしか使われていないと聞いたことがあります」
「食べる前に『まず目で味わう』。これを発展させて、視覚に強く訴えかけ、目で味わうことに特化した料理。それがサンプーマーシンの正体です」
「目で味わう……いや、目から食べる料理、か」
「そうです。サンプーマーシンは視覚を通じて食べる。食べるのだから当然、食べた分は減っていく」
料理長の説明を聞いて、私の中で何かが繋がった感覚があった。
依頼人は小首を傾げてクッキーをつまむ。
「つまり誰かが見た時間だけ料理が減っていくってことですか。でも口に含んでもいないのに何が減るんです?」
その問いに私なりの答えを返した。
「カロリー。熱量。つまりエネルギーですよ」
「エネルギー?」
「考えたんです。メレンゲクッキーの色がくすんだのは表面の反射率が下がったからではなく、クッキー自体が光を放っていてそれが弱まったからじゃないか、と」
その光は誰かの目に入ったとき、見られていた時間だけ、カロリーとして奪われる。
「思い出してください。録画されたサンプーマーシンの映像を。あれはビデオに複製したサンプーマーシンのカロリーが視聴者の視線によって奪われた結果、黒塗りのシルエットになってしまったんじゃないでしょうか」
「でも、じゃあ……そんなものどうやって作るっていうんです?」
私は答えられず、料理長を見やった。
「光というのは近い発想です。大事なのは光の正体。光というのはつまり電磁波の一種なんですよ」
「電磁波を材料に使ったということでしょうか?」
「焼き込めるというのが近い言い方ですかね。こちらのクッキーは電気オーブンで焼いたものになります」
「電磁波を発する調理器具が前提にあるのか」
ふむ、と口をつぐんでしばし考える。
すぐにあることに思い至る。
「私の記憶にあるサンプーマーシンは蒸しパンみたいなものでした。あれは本当に蒸しパンだったんじゃないでしょうか」
「どういうことです?」
「覚えはありませんか。ホットケーキの生地を流し込んだ牛乳パックに電極を突き刺して蒸しパンを作る理科の実験を」
あっ! と料理長と依頼人が声を揃えた。
「これなら空気を熱する電気オーブンよりも、直に電磁波を焼き込めそうじゃありませんか」
「さっそく試してみましょう」
目を輝かせる料理長に依頼人が尋ねる。
「電磁波を焼き込むなんて調理法、どうやって成立させているんです?」
「言葉で説明するのは難しいですね。コツのようなものがあるんです。料理人の勘でしょうか。完成品のサンプーマーシンを見た記憶から、調理工程を逆算して想像し、試行錯誤して身につけました」
本物のサンプーマーシンを――その複製された
これもまた料理長の言ったサンプーマーシンの魔力なのかもしれない。
我々はオリジナルのサンプーマーシンの調理工程をめいめい考え、話し合った。
やがて男三人がよってたかって取っ組み合った結果、その日のうちに記憶の中にあったサンプーマーシンに近い黄色い蒸しパンが出来上がった。
日付けが変わろうとしていたが、本物のサンプーマーシンが放つ
メレンゲクッキーを齧った後は何も口にしていないというのに、試行を重ねたおかげで視覚から刺激された満腹中枢は働きっぱなしだった。
今、目の前にあるサンプーマーシンはオリジナルに近い。
だがまだ本物ではないし、これから改良を重ねれば本物を超えることも夢ではない。
私は今回の調査をサンプーマーシンの調理工程を含めて動画に収め、投稿サイトへアップロードすることで、調査報告に変えさせてもらうことにした。
もうブログでの発表にこだわる気持ちも、続ける未練もさっぱり無い。
この動画が人の目に触れ、サンプーマーシンの
そうして人々が目から物を食べることを当たり前に思う世界を作っていくのが、今の私の一番の望みである。
* * *
二十余年前。『お料理番付』制作スタジオにて。
若いADが一般参加者へ配った参加申し込み用紙を回収していた。
特徴のない五十がらみの男が差し出した用紙を見て、アンケートの記載に首をひねる。
「あの、料理名が空欄なんですけど。今日は何を作るんすか?」
ADはボールペンを空欄に向けて構えた。
目の前の男は答えた。
「散布マシーン」
サンプーマーシン 完
サンプーマーシン 豊口栄志 @AC1497
★で称える
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