第7話
たまたま通りかかった店の前で立ち止まり、何気なくショ-ウィンドウの中を覗き込んだ。顔のないマネキンが、今年流行の服を着てポ-ズを取っている。
ここは、何処?
過去の出来事と今が重なり、少しだけ錯覚を起こした。
いやだ、もうあの頃とは違う筈なのに。
襲ってくる眩暈によろけ、綺麗に磨かれたガラスに片手を付く。胸が苦しい。
夕日を反射したガラスには、幻のような街の風景と、あたしの青ざめた顔が半分映っていた。
角度を少し変えただけで、消えてしまうガラスの街並み。自分の冷たい瞳を覗き、全身に悪寒が走った。
あたしは、まだ狂ったままなのかしら?
その疑問が、言い知れない恐怖をかきたてる。
・・・・・・大丈夫よ、まだ大丈夫、怖いのは、狂ってないからだわ。
狂えば、恐怖もなくなる。
苦しめばいい、死ぬ程の苦痛を味わえば。そうしている内は、まだ安心出来るから。
そうよ、楽に死のうなんて冗談じゃない。あたしが死ぬ時は、苦痛にのたうち回り、恐怖に我を忘れて、叫びながら死んでいくのよ。
天国で平穏に死後を楽しむくらいなら、地獄でひたすら苦痛に耐える方がいい。それなら、死んでも尚あたしに、自分の存在を感じさせてくれるだろうから。
ここに、こうして居るんだと・・・・・。
額から、一雫の汗が流れた。頬を伝い、やがて口許へ。それを舌先で嘗めて、薄く笑った。微かな鉄の味が、口の中に広がっていく。
薄い色の瞳に、広がる闇。ガラスに映る自分は、ゾッとする程冷酷な表情を浮かべていた。
テレパストが陥る、重度の心身症。あたしは、その中でも最悪の病魔に侵されていた。
感覚が麻痺し、心が凍りついていく病気。それは、他意識との接触をしすぎたのが原因らしい。
時々発作的に起こる恐怖や動悸息切れは、僅かに残った正常な意識による抵抗だ。もしこれが完全に無くなれば、もう終わりは近い。
だが、それがどうしたと言う?
震える心を、自分であざ笑う。
そんな事を恐れてどうする、遅かれ早かれ、何時かは廃人になるのだ。
しばらくすると、恐怖から起こる激しい動機、それから吐き気も次第に収まった。
ほっとして、凭れていたガラスから離れる。
他人には、見せられない姿だ。誰も、あたしのこういう所を知らない。あたしが、狂気に蝕まれていく自分に、酷く脅えているなんて・・・・・。
『人間でなくなっていくのは、とても怖い事だ』
誰かがそんな事を言っていたのを、ふと思い出した。
・・・・・人間でなくなる。本当にそうだろうか?
心から色を無くし、人間で有りながら、人間とは思えない残虐を望む。冷酷に、平然と人が苦しむ様を楽しむ。
確かに、それは恐ろしい事だ。しかし、寧ろこの狂気は、誰にでもあり得る狂気なのではないだろうか・・・・・・。
人の心の奥に住む物を、あたしは良く知っていた。
知っていたから、平気でいられたのかもしれない。
竜二が不安を感じるのも、分かるような気がする。彼は、あたしが狂いかけているのを知っているから。
そう、だから、今のあたしには由沙が必要だった。
彼女の波動、彼女の精神、全てがあたしとは違う。傷付けたくない、力を使いたくない普通の人間でありたい。
痛烈に願うその気持ちが、あたしを狂気から引き戻してくれる。
こんなあたしと同調出来るのに、誰よりも純粋な心を持っている由沙。
もし由沙と出会わなかったら、あたしの病状はもっと悪化していただろう。
ふらふらと歩き出し、広い通りから脇道に入る。ここから二本目の道を左に折れた先に目指す場所があった。
ワンル-ムマンションの三階、307号室。そこに住む少女に、早く会いたかった。野本清次郎と同じくらい、今のあたしには必要な人だ。
もしかしたら、それ以上かもしれない。
まさか本人は、それほどまでにあたしが彼女を必要としているとは、夢にも思っていないだろうけど。
苦い笑みが浮かぶ。
家族に対する愛でも、親友に対する愛でも、当然恋人に対する愛でもない。由沙は、あたしにとって何よりも特別であり、大切な人だった。
・・・・そう、まるで自分自身を思うように。
あたしが、全身全霊をかけて愛する事の出来る人。
社長とは違う意味で、あたしにとって必要な存在だった。
誰よりもあたしを理解してくれ、誰よりもあたしを思ってくれる。
それは、他とは全く違う次元にある愛だった。
そうだ、社長への愛とも違う。
あたしにとって社長は、絶対的な主。あたしは、彼の忠実な僕。
例え社長があたしを見ていなくても、それでもいい。
彼の目が、常に香織にのみ向けられていたとしても・・・・・。
社長が見ているのは、今でも香織だけだ。香織が裏切ったから、あたしを側に置いているだけ。
あたしは、香織の身代わりなのだ。
生まれて初めて、人の為にこの力を使ったと言うのに・・・・・。
あたしにとって、野本清次郎は全てだった。彼に認められる事のみが、唯一の望み。認められ誉められれば、心から嬉しく思った。
PKを持った連中から、その力を見せつけられた時は、愕然としたものだ。訓練を受けた彼らに、あたしの力は通用しなかった。
自信は崩れ、自尊心は傷つきぼろぼろとなった。
それまでのあたしは、力が全てだった。全てを憎悪し、跪かせる事しか考えていなかった。それが出来ないのなら、生きていても価値などないと信じていた。
人の心が読めるテレパストは、苦しむ事しか出来ない。屈辱に塗れ、他人の意識に振り回されても、何一つ報復する手立てはないのだ。
ましてやあの力が通用しないとなると、もう手の施し用がない。
絶望にうちひしがれた後、その癖自分の表情を持たないあたしは、ただ茫然とするしか出来なかった。
怒りや喜びや悲しみ、そんな色のある感情はあたしの物ではない。全て、他人の物だった。あたしはただ、それを入れる箱でしかないのだ。
「訓練を積んだ能力者から見れば、君の能力は赤子にも等しい。私のように、さほど強くない能力者でさえ、あっさりと念波を遮断出来るんだからね。心にノイズをかけ、単純な思考で表面の意識を覆えば、君のように素人の能力者は、簡単に力が使えなくなってしまう」
そうなのだ、彼らスペシャリストは、様々な方法を知っている。彼らとやり合った短い時間に、あたしはそれを悟ってしまった。
こっちは、傷一つ負わせられない。向こうは、直接あたしに怪我を負わす事が出来る。あたしには、それを防ぐ術もない。
怪我を負えば、能力は極度に低下した。あたしの五感を操る能力だって、例外ではない。
あたしが一人を相手にしている間に、違う奴が仕掛けてくる。そっちに意識を向けると、また別の所から攻撃を受ける。
正直言って、ショックだった。
集団になって襲って来る能力者達を、どうやって対処すればいいのか、あたしは全くと言っていい程知らなかったのだ。
自分の力が通用しない世界を、生まれて初めて目の当たりにした。
悔しい、なんて気持ちさえ起こらない。悔しいと思うには、余りにもあたしは非力だった。
負けたのだ。この世界が力なら、あたしは完全に叩きのめされた。弱い人間など、生き残る価値はない。
ボロボロに破れたジ-ンズを、無表情で眺める。傷だらけの身体が、あちこちと痛んだ。その痛さのみ、感覚として感じる事が出来た。
茫然と、ただ佇むだけ。
余りにも惨めな自分の姿に、笑い出したい気になる。けれど、どういう風に笑うべきか分からない。仕方無く、何時ものように、薄い狂人の笑みを浮かべただけだった。
※この物語はフィクションであり、登場する団体や人物は、実際に存在しない架空の物語です。
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