第5話

 病院から抜け出してすぐ、あたしは自分がかつて暮らしていた家を探した。ところが、その家にはもはや誰も住んでいなかった。

 あの人達は、突然引っ越してそれっきりだったらしい。


 それはそうかもしれない。病院に入って、六年近い月日が流れていたのだ。あの男が、何時までもそこに居ると思う方が間違いだった。

 正直言って、かなり落胆したわ。


 捜し出そうにも、病院から抜け出したばかりで右も左も分からないようなあたしが、そんな事など出来る訳もない。お金もなくて、これからどうするのかさえ定かではない状況だった。


 病院で着ていたままの汚い服を着て、櫛も入れないぼさぼさの頭で、まるで浮浪者のように何週間か過ごした。


 ゴミ箱をあさったり、店先からちょっと拝借したり、人のバッグをひったくったりして。

 警察に捕まりかけた事もあったが、そうなれば迷わず力を使って逃げた。


 そのうち気がつくと、街を俳諧するごろつき共や、浮浪者達を従えるようになっていた

 テレパストだもの、いい稼ぎになる情報はいくらでも入って来る。

 ついでにこの力をちょっと使ってやれば、何だって簡単に手に入れる事が出来た。

 あたしは、決して躊躇わなかった。歯向かう奴がいれば、笑って狂人に変えてやった。


 力よ、力さえ見せつければ、人間なんて簡単に跪かせる事が出来る。何も恐れるものなんてない、この力さえあれば、あたしは思い通りに生きていける。


 面白半分でコンビニを襲撃したり、麻薬の取引現場で物をかっぱらったり、拳銃なんかも手に入れたりした。

 そういう情報は、少し街を歩いただけで腐る程手に入ったから。自分が楽しく生活する為なら、人の心を探るなんて抵抗なくやってのけた。

 あたしにとって、全てが敵だったのだ。

 だからあたしは、逆らう奴は容赦しなかった。


 ある時一人が裏切って、あたしを警察に売ろうとした。

 きっと、怖かったんだろう。あたしの存在そのものが・・・・。彼の気持ちは、手に取るように分かった。自己防衛の為に、それは必要だったって事も。

 やられる前にやれ、それが当然の世の中だ。

 彼は借金を返す為、仕事の稼ぎを横領していた。ついでに、情報の横流しなんかもしたりして・・・・・。


 あたしの報復を受けるのが怖かったから、その前に警察に売ってしまおうと考えた。

 子供だと思って、甘くみたんだろう。気持ちは、よく分かる。

 でも、許したりはしない。それとこれとは、違うって事だ。それにあたしは、そんなに甘い人間じゃない。


 「助けてくれ!」

 二十そこそこの青年が、それなりに見栄えのある顔を恐怖で歪め、地面に小さくなって這いつくばった。

 必至に救いを求めながら、あたしの足にしがみつく。

 (殺される、殺される、殺される)

 彼の恐怖が、あたしの意識の中で膨れた。


 「命乞いをするくらいなら、最初からしなければ良かったのに」

 男の手を乱暴に蹴飛ばし、あたしは冷酷な笑みを浮かべた。

 あたしが今のような笑い方をするようになったのは、会社に入ってからだ。それまでは冷たい表情しか知らなかった。


 「仕方無かったんだ。そうしなきゃ、俺は殺されていた」

 (そうだ、どうにか誤魔化せ。泣きつけば、許してくれるかもしれない。もっと悲壮に同情させろ、相手は餓鬼だ、上手く丸め込め。まだ、死ねない、死にたくない、死んでたまるか、殺さないでくれ!)

 男は跪いたまま、長い身体を折り曲げて土下座する。金髪に染めた髪が、恐怖の為か逆立っていた。


 「別に、何をしようがあんたの自由。二つの選択から、あんたはあっちを選んだ。そうでしょ?ただ、その選択を誤ったってだけ」

 (誤った?そう、間違いだ。俺は間違えただけだ、だから必至に謝れば許してくれるかもしれない。今だけでも、なんとか切り抜けろ。何処へ逃げる?実から金を借りて、遠く行けばいい。追って来れないくらい、ずっと遠くだ)

 涙に濡れた顔を上げて、男は期待を込めてあたしを見る。あたしは屈み込んで、男の方へと顔を近づけた。

 そして、耳元でそっと呟く。


 「残念だったね、あたしの部下に馬鹿は必要ないのよ。言っておくけど、あたしは慈悲深い心なんて、これっぽっちも持ってやしないからね」


 (助けてくれ!殺される、殺される、やっぱり殺される。雅人みたいに、殺されちまうどする?逃げなきゃ。何処へ?とにかく、何処かへ。駄目だ、殺される)

 「おっ、お願いします、許して下さい!何でもします、だから殺さないで!」

 土下座して謝る男の頭に、あたしはそっと手を乗せた。


 「大丈夫、あんたを殺しはしないわ。ただ、死ぬ程の苦痛を味合わせてあげるだけ。そしてあんたは、徐々に狂っていく恐怖に脅えるがいい」

 これが、あたしの力だった。人の心を読むだけでは得られないものを、この力によって得る事が出来る。お蔭で、あたしは人を従える事も出来た。


 力が全てだ。力が無い者は、力有る者に従うのが道理。弱い癖に逆らう奴は、生きていく価値もない。


 あたしの力は、男の痛覚を刺激した。脳に偽りの情報を送り、彼に存在しない痛みを与える。

 それだけじゃない、視覚を刺激すれば、見えない物を見せる事も出来るし、逆に全てを闇に閉ざさせる事も出来る。


 聞こえないものを聞かせ、感じないものを感じさせる。臭いだって、味覚だって、全てあたしには自由自在に操る事が出来た。

 感覚だけなら、男を何度でも轢き殺す事が出来たし、何度でも切り刻む事が出来る。その度に喉を鳴らして飛び上がる姿に、あたしは大笑いした。


 無様に這い擦り回る姿が、愉快で仕方無い。

 人の哀れは、あたしを幸福にした。人が苦しめば、あたしの心は軽くなった。

 「気分はどう?死にたいくらいに辛いんじゃない?でも、死ねない。死にたくても死ねない気分って、どんなだろうね。そうやってあんたは、狂うまで苦しみ続けるんだ」


 のやうち回る男を、立ったままで見下ろす。

 苦しむ姿を見るのが、あたしの趣味だった。苦しみながら、次第に狂気に蝕まれていく姿は、どんな娯楽よりも楽しい見せ物だと思った。


 相手が感じる苦痛が、あたし胸に心地好く響く。それは、一種の麻薬だった。

 何も感じない心に、広がる快楽。

 憑かれたように、あたしは男を苦しめ続ける。


 次第に、男の顔から苦痛がなくなり、恐怖もなくなっていった。虚ろな目には、徐々に何も映らなくなる。

 そのうち、意味不明な言葉をぶつぶつ唱え始めるようになった。

 男が完全に狂ったと分かって、あたしは力を止めた。


 狂った世界に住むのなら、狂っていた方がいいのだ。そうすれば、苦しみはなくなる。狂ってしまえば、恐怖もないのだから・・・・・。

 男の崩れていく意識を受け止めながらも、平然としていた自分は、やはり正常とは言えなかった。


 狂っていたのは、あたしなのだ。世界ではなく、あたし自身だった。




 ※この物語はフィクションであり、登場する団体や人物は、実際に存在しない架空の物語です。

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