第4話
(狂ってやがる。どいつもこいつも、わ-わ-わめきやがって。あのばばぁ、煩せぇんだよ。俺の顔見りゃ、人殺しとか言いやがって。狂ってやがるんだ、ここに居る奴等はみんな狂ってやがる。へっ、ざまあ見ろ。そうさ、何を言ってもわかりゃしない)
何時ものように、男の意識があたしの中に流れてくる。気分が悪くなるほど、じめじめとした醜い意識だ。
その男は、あたしの部屋の前まで来ると、必ずと言っていい程立ち止まって、小窓からぎょろ目を覗かせる。
あたしの容姿が、変態男の目に止まったと言う訳だ。
やっぱりその日も、男の足音はあたしの部屋の前で止まった。監視用の小窓が開いて、男が食い入るように中を覗き込む。
目が合った、しかし狂気との格闘で疲れ果てていたあたしは、口も開かねば目も逸らす事もしなかった。
(何時も思うが、綺麗な子だな。ハ-フかな?狂ってるなんて、勿体ない。綺麗だ、人形のようだ、狂ってやがるんだ。わめくかな?わめくなら、早くしてくれないかな。見たい、わめいて床をはいずり回って、それで・・・・・)
男が空想の中で描く自分の姿に、吐き気をもよおす程の嫌悪感を抱いた。
次第にエスカレ-トする妄想に、思わず眉を顰める。
男は十分程立ち止まって、ひたすら嫌らしい妄想を繰り返していた。息も荒く興奮し、欲望でぎらぎらした目をじっとこちらに注ぐ。
男の空想の中で、玩ばれる自分の姿。青白い顔が、母の面影を映す。
その時、ふっと思った。この男は、ああいう事をしたいんだ。妄想ではなく、現実になる事を望んでいる。
それなら、その気にさせてやろう。
そうだ、もしかしたら逃げ出せるかもしれない。この扉さえ開けば、あたしは自由になれる。
開けさせればいいんだ、この男に・・・・・。
「・・・・叔父さん」
気がつくとあたしは、男に話し掛けていた。
相手が、ぎくっとしたのがモロに伝わって来る。
(こいつ、話し掛けてきたぞ。狂ってるんじゃないのか?いいや、狂ってる筈だ。それとも、辛うじて俺の存在くらいは分かるのか?まさか、分かる筈がない。どうする?どうするんだ?ほっとけ、無視しろ)
動揺が、波のようにあたしの心に響いた。彼の物だ、あたしの物ではない。あたしの感情なんて、あってないようなものだった。
「叔父さん、ねぇ、返事してよ」
床に横座りで座って、じっと小窓を見つめる。記憶の中で、男にしなだれかかる母の姿が浮かんで来た。
あの人は、狂っていた。父に見放され、おかしくなってしまった。あの人こそ、ここに入るべき人なんだ。
男と見れば、色目を使う哀れな女の姿。忘れられない、忘れる事が出来ない。その姿も、あの時心に残った狂おしい程の思いも。
人の心を読み、自分のものと錯覚する。その力のせいで、あたしは子供の純真さを失った。
(なんて目をするんだ、子供の癖に。狂ってると、こんな目をするのか?・・・・まさか、こんな餓鬼が男を知ってる訳はないよな。鳥肌が立つ、そこらの女より、すげぇ色っぽいじゃねぇか・・・・)
「叔父さん、いい事して遊ばない?」
一端顔を伏せ、上目使いに男を見る。彼の心に映るあたしの姿は、異様な程の艶めかしさを持っていた。
(まずい、時間が・・・・。そろそろ帰らないと、あいつらが変に思う。どうする?どうする?どうする?勿体ない、興奮するぞ、きっと面白いだろう、こんな経験は滅多に出来ない。駄目だ、時間だ。叱られる、仕事が首になる。折角ありついた仕事だ、給料がいい。だが、どうする?)
男の混乱を、心の中で嘲笑ってやった。
馬鹿め、今の内にせいぜい楽しんでおけばいい。その空想が、現実となる事は絶対ないのだから・・・・・。
「ねぇ、来てよ。今晩でもいいからさ、みんながいなくなった後でこっそり。いいでしょ、二人で楽しも」
薄く微笑む。自分の表情を持たないあたしが、どうにかつくり出した笑みは、多分驚く程母親に似ていただろう。
(夜か、警備はどうだ?今日は確か、田村だ。あの愚図、太った男、薄のろ馬鹿。どうにかなる、仕事とか言えば誤魔化せる)
そうよ、大丈夫。心配はいらない、だから来ればいい。あたしの為に、その扉を開けるのよ。
男は未練を残しながらも、無言のまま去っていった。
人込みで肩を押され、ふっと我に返る。そこは真っ白な病室ではなく、社会と言う動の世界だった。
正常なのに、何処か狂った世界。微妙な線で歪みを形造って、奇妙な程複雑にした現実。それは、何処かの螺子が一本抜けたあたしの精神と、不思議な程相似しているような気がするのだ。
見えているものは、全て幻。あたしの目の中に映る映像は、蜃気楼と同じだった。
交差点の信号が青に変わり、車が一斉に動き出す。様々な人達が並ぶ歩道橋で、彼らと同じく赤く灯った歩行者用信号をじっと見つめた。
あたしは、出発点から既に危ない状況だった。
そう、憎んでいたのだ。多分、ありとあらゆる物全てを。由沙のように、控えめなもんじゃない。
完全なる憎悪、よ。
思い知らせてやる、自分を蔑ろにしてこんな扱いをしたやつらを。父親だけじゃない、全部に思い知らせてやるんだ。
あたしには、人の五感を操ると言う特殊な力があった。自分の力の強さを知っていたから、それで人を狂わせる事さえ可能だと分かっていた。
あたしが、Disastaer(災厄)と言う名で恐れられているのは、その為なのである。
余りに強い憎しみを持つと、人がどうなってしまうか知ってる?それ無しでは、生きられなくなってしまうのよ。
そういう意味では、恋愛と似ているかもしれない。
男に扉を開けさせ、あたしはすぐに男を狂人へと変えてやった。あたしの代わりに、一生ここにいればいいと思いながら。
そしてあたしは、ついに長い囚人生活から抜け出す事が出来たのだ。
狂っている?あたしが?・・・・冗談じゃない。
狂っているのは、あたしではない。あたしを除いた、全ての人間だ。
街までの暗い山道を下りながら、ひたすら心の中で繰り返した言葉。
狂っているのは、この世界だ。あたしじゃない。
・・・・それこそ、狂人の考えだった。あたしは、やはり何処か狂っていたんだと思う
※この物語はフィクションであり、登場する団体や人物は、実際に存在しない架空の物語です。
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