短編小説 ラプソディー「風に」

阿賀沢 周子

すべて美しいものは風に描かれてある 多田智満子(闘牛場)

 看護師は、松本やゑの胃に直接入っている管から、栄養剤のチューブをはずした。右手に空のパックとチューブを持ち、左手でやゑの寝巻きの前を合わせて、ピンクのタオルケットを引き上げた。部屋から出ようと向きを変えたとき、チューブに残っていた栄養剤が、やゑの頬にはねて散った。看護師は胸元のタオルケットを引っ張りあげ、頬の汚れを擦り取って部屋から出ていった。

 やゑの、寝ているような細い目が窓のほうへ動いた。両の瞼が少しばかり開き、周辺が煤竹色に縁どられた薄い茶の眼が窓枠の外に焦点を合わせる。細い鼻梁の右横小さな黒子の隣に、飛んだ栄養剤が玉になって並んでいたが、流れ落ちるほど顔を動かす事は無かった。

 ここ、稲北病院は札幌市の西側、手稲山の北の麓にある創設三十数年の老人病院だ。三階建てで、医療を必要とする長期療養の患者が入院する百八床のベッドを持っている。辺りには閑静な住宅街がゆるい傾斜に並び立ち、自然の森と小川に囲まれて白い姿を見せていた。

 やゑの部屋は二階の南向きで二人部屋、二一六号室だ。ベッドは窓側で、隣のベッドはマットレスがむき出しになっており、患者はいない。フロァーは廊下を一周出来る構造になっている。廊下の外側は南にナースステーションと食堂、東には階段、四方に病室の大部屋、小部屋が並んでいる。内側はエレベーター、非常階段、トイレ、浴室、介護員の休憩室などがある。

 窓からは橅、楡の木々や野葡萄が鬱蒼と茂っているのが見える。日暮れ前だが薄暗く、網戸に点々と付いている黒いものは羽虫や蛾だ。半分開いた窓から、少し風が入るのかレースのカーテンが時々揺れた。

 午後遅く、二回目の栄養剤の滴下が終わる頃、看護師らは夜勤者への引継ぎをする。やゑにとって、静かな時間がまた少しある。


 油の切れたような金属音が近づいてきた。開けたままの出入り口に掛けられている薄緑色のカーテンを押し、二一八号の澤口武男が麻痺の無い右手と右足で器用に車椅子を操作して、部屋へ入って来た。

「やゑさん、飯終わったかい。腹は大丈夫か。一昨日から栄養剤を入れている連中、みんな腹が下っているんだってさぁ。高見のじっちゃんは、そのせいで尻の皮が剥けて真っ赤だそうだ。それにしてもこの部屋は涼しいなぁ」

 澤口は話しながら、やゑの声が聞こえるようにベッドと壁の隙間をうまく通り抜け、枕元へ近づいた。

「私のお腹は大丈夫。武さんこそ部屋に入ったのが見つかったらまた怒られるよ。女部屋に入ったって」

 やゑの声は小さいが、よく通る。

「師長が怒ってもなんも怖くないさ」

「また、薬盛られるわよ。四月にここへ来たのが見つかった時、情緒不安定と言われて安定剤が増えた時、しばらく朦朧としていたじゃない」

「わかっているよ。アレはひどかった。入院生活についてはいろいろ勉強しましたよ。この時間はだいたいOKというのもね」

 澤口は細く尖った鼻に汗をかいていた。やゑは床頭台から扇子を取って澤口を煽ぐ。誘われるかのように窓から風が入って来る。扇子には赤く熟したフサスグリが描いてあった。

「粋なもの持っているね」

「午前中、ハルさんの家族が私の顔を見に来て忘れていったの」

 七月に入ってから暑い日々が続いていた。やゑの部屋は、階段の向かいで風が通る。澤口の部屋の前には西トイレの壁があり、風の道がなくて暑い。

 やゑの部屋の東隣、ナースステーションとの間の二一五号は重症患者用の病室だった。山谷ハルは先週、そこへ運び込まれて息を引き取った。


 ハルとやゑはこの病院で知り合った療養仲間だ。六年ばかりの間、同じ部屋になったり離れたりして気心の知れた仲になった。二人ともに、食べるのと歩くのがままならなくなって久しいが、会話は交わせる。ここ一年余り二一六号で一緒に生活していた。

 ハルは、やゑの横で栄養剤が滴下している真っ最中に自分で鼻の管を抜き、重篤な誤嚥性の肺炎を起こしたのだ。

 隣の開いたベッドにハルの気配があることがあり、やゑはハルに話しかける。『楽になったかい。ここよりいいかい』

 初七日が過ぎて、ハルの娘がナースステーションへ挨拶に来た時、やゑの部屋にも顔を出した。色白でハルを小太りにしたような体形で、ハルの若い頃を彷彿とさせるぐらい似ていた。

「首の横から太い針を入れて点滴していたけど、高熱が続いていてとうとう駄目だったの。おばちゃんはいつまでも元気でいてね」

 扇子をパタパタさせながら、目を閉じたままのやゑに向かって独り言のように呟いた。

「母さんにはいろいろしてもらったけど、親孝行らしいことは何にもしてあげられなかった。なんでか、食べると肺炎を起こすようになってからは、家では見きれなくてここへ入院したんだけど、母さんはご飯を食べたい、死んでもいいからご飯を食べたいってずーっと言っていたの」

娘は腕に下げていた黒い布袋からティッシュを出して盛大に鼻をかんだ。

「私、母さんに悪いことしてしまったのかい。でも見てられないしょ、咽たり、熱出したり、顔色まで悪くなった時もあって、入退院を繰り返して。おばちゃんは、母さんと違って鼻の管ではないから、危険はないよね。母さんもその方がよかったのかい。でもお腹に穴をあけるなんて恐ろしくて」

娘は急に言葉を止めたが、話した末にも悔みが晴れぬのか、大きな溜息をついた。やゑの額に張り付いた白髪をなで上げた時、扇子をベッドに置いてそのまま忘れて帰っていった。


 ハルが自分で鼻の管を抜くのは、看護師や介護員が仮眠を取る夜中に限られていた。つかの間、管がない鼻と喉を癒すため、自分の顔を自分の物にするために。

 何度も抜いてしまうので、最近は栄養剤が入る時は危険だからと両手に分厚い鍋つかみのような手袋をはかせられていた。

 あの日、担当看護師は手袋をはかせるのを忘れた。

「やゑちゃん、私はこの鼻の管が嫌で嫌で。あんたみたいに、腹に管が入っていれば何ぼか楽か。もう疲れた。気が変になりそう」

 六月のあの朝九時過ぎ、一回目の栄養剤が入り始めた時、ハルは鳶色の眼で両手をじっと見て、いつもと同じようにやゑに愚痴をいった。違っていたのは手袋をはいていないことだ。

「腹の管だって、いいものじゃないよ。ハルさん、孫の顔を見るのを、いつも楽しみにしていたでしょ」

「孫ね。大きくなったよ。『食べられなくなったら人間本当は終わりよね』って、ここで知り合った頃、そう私にいったのはやゑちゃんだよ。苦しくても肺炎になっても口から食べていたかった。食べることが一番の楽しみだったのに。これじゃあ何のために生きているのか」

 タオルケットからつま先が伸びたままの足が出ていた。やゑと同じ形をしている。

「やゑちゃん、私先に行くからね」

 ハルは鼻の管を持ち上げて、色白でこけた頬をやゑに向けた。ハルが自分の死に時を考えていることなど、看護師も家族も想像だにしていない。

「ハルちゃん、どうしても、なの。こうして生きているのはご先祖様のお蔭、寿命まで生きなくちゃって、頑張って来たんじゃない」

 苦し紛れと言うわけではないが、今までの自分たちの会話の切れ切れの記憶の中の言葉も口にしてみた。やゑには、ハルの行動を止めるために、看護師や介護員に向かって声を出すかもしれないという不安が少しばかりあったが、長い間、やゑの秘密を護ってくれた恩をそんな方法で返すわけにいかない。自分の終わり方を自分で選ぼうとしているハルを説得する自信はなかった。すでにハルの気持ちを許容している自分もいる。

「どうしても、さ。ご先祖様ももういいよって言ってくれるよ。こんなことになっているのが寿命なんて」

吐き捨てるように言うハルの目に、ぶら下がった栄養剤が映っている。

「あんたもいずれ、来るしょ」

「ええ、もちろんそうなのだけど」

 ハルはやゑを見つめて何度も瞬きをした。

「あっちで待っているよ」

 そういって、ハルは慣れた手つきで鼻のテープをはがし始めた。

 やゑは眼を閉じ、白い手を合わせて祈った。

 激しく噎せ込む声が何度も聴こえて耳を被いたくなったが、ハルの想いに寄り添っていたい気持ちが勝った。間もなく静かになった。

 やゑは組んだ手を解くが関節が真っ白になり、指は容易に伸びなかった。食べられなくなっても終わらない。自分は胃の管が良かったとは思っていない。この姿になって六年以上になる。自分で選んだ道ではない。


「やゑさんに似合うよ、その扇子。形見だと思って貰っときな。ハルさんの家族はもう来ないだろ。看護師に見つからないように隠しといてさ」

 澤口は小さい顔をくしゃくしゃにして笑っていたが、素早く右腕で眼を拭いた。

「形見ね。わかったわ。高見さんに、夜中オムツを開いて風を入れなさいっていっといて。自分で出来るはず。いつも介護さんにオムツ外すって叱られているから」

「了解。じゃあまた」

 澤口が部屋を出て間もなく、夜勤の看護師が入って来た。タオルケットを剥ぎ、脇の下に体温計を入れた。ベッドの横の壁に貼った排泄の回数が書いた紙を眺め『松本さんは大丈夫ね』と独り言ちて、部屋から出た。

 やゑは、手に握りこんでいた扇が見つかるのではないかと冷や冷やしていた。看護師がいなくなってすぐに床頭台の引き出しに入れた。


 すでに暗くなった窓から急に風が入り、やゑの白髪がふわりと浮いた。先刻より冷たい風だ。雨が降るのか、とやゑは想った。

 廊下の左の方から叫び声が上がった。誰かを呼んでいるような不明瞭な甲高い声だけが何度も聴こえた。廊下を走る複数の足音が聴こえ、十五分ばかりで静かになった。

 入り口のカーテンが風で動いたその時、患者の中で最年少の二〇一号の玉木茂が松葉杖で入って来た。右足が左に比べてかなり短いのが分かる。切れ長の眼に目尻の皺が三本くっきりと入っている。鼻の脇のしわが深い。

「やゑさん、大変だ。キイさんがトイレで倒れた」

 玉木は交通事故で重態だった時に喉にあけた気管の穴が、完全に塞がっていないので声が掠れていた。

「何があったの」

「詳しくは解らんけど、トイレで便器と壁に挟まるように、あっち向きに転んでいたと。ハナさんが見たって」

 玉木の部屋は西トイレ入り口正面の二〇一号室だ。最初の叫び声で、部屋をけんけんで飛び出すと、加藤ハナが入り口に尻餅をついて喚いていたという。玉木はすぐ部屋に引き返し、ナースコールを押した。戻ってハナに大丈夫か訊くと、トイレの中を指差して『私じゃない、キイさんが』といったところへ看護師と介護員が飛んできたという。

「それでキイさんは大丈夫なの」

 やゑは体温計を抜いて床頭台に置いた。

 小糸キイはこの病院で一番の古い患者だった。内臓の病気で、ほとんどを摘出して腹の中は空っぽらしいと噂されていた。新しい患者をいびるので、稲北名主ともいわれていた。

 そのキイは去年の秋、長男に先立たれてから、少しずつ様子が変わった。物忘れがひどくなり食べ終えた食事もまだ食べていないといい、自分の持ち物と人の物の区別が付かなくなった。看護師達は、以前のしっかり者のキイとの落差についていけず『何で忘れるの、さっき言ったでしょ』としょっちゅう怒っていた。それは習慣になり、キイもまた、へへへと笑ってやり過ごすようになっていた。

 隣の重症部屋に運び込まれたのか話し声がする。玉木は様子を見るために部屋を出た。その直後、夜勤看護師の怒鳴り声が聞こえた。

「何をやっているの。玉木さん、部屋にいて。うろうろしないでよ。危ないでしょ」

 幸い、やゑの部屋から出たところは見られなかったようだ。玉木は自室へ戻る前に看護師の眼を盗みキイの部屋を覗いた後、再びやゑの部屋に顔を出し、首を大きく横に振った。


 窓の外の薄暮は室内の様子をぼんやりとガラスに映す。引き戸のカーテンの隙間の廊下の床が見える。雨音が立つ。緑の匂いが漂う。

 やゑは、あれほど気をつけていたキイがなぜよりによってトイレで転んだのか。それももう駄目なんてと考えていた。

 山谷ハルを亡くしてからまだ一週間しか経っていない。

「やゑさん、俺」

 今度は澤口だった。車椅子に乗っていない。壁に沿って手摺りをつかみ、歩いて入って来た。

「キイさんなぁ、あちこち骨折していると」

「武さん、車椅子は」

「ほんの少しの距離だから壁を伝って来た」

 澤口の話からすると、キイはハルの死にショックを受けたらしく、今週ずっと落ち着きがなかったらしい。安定剤を飲まされ、夕食もとらずに寝ていたが、さっき高見のじっちゃんに『さよなら』を言いに来てそのままトイレに入ったという。

「俺、やゑさんのアドバイスを伝えようとじっちゃんの部屋に入る時、キイさんとすれ違ったんだ。夕食まで少しあるからじっちゃんとこそこそ話していたらあの騒ぎさ。じっちゃんに、キイさんは何しに来たんだって訊いたけど、入れ歯が無いから何しゃべっているのかなかなかわからなくてよぉ。やっと『さようなら』って言いに来たってわかったんだ。後は介護員のおしゃべりを小耳に挟んだものさ」

 澤口は癖なのか痒いのか時々鼻をつまみぐりぐり揺らす。やゑが鼻が尖っているのはそのせいだとからかったことがあった。言葉尻が少し伸びるのは何処かの方言なのか、本人は知らないという。

 夕食を運ぶ台車の音がした。『また後で来るから』といって澤口は部屋へ引き上げた。


 キイは、やゑとはそりが合わなかった。何年も前に一度同じ部屋になったことがある。間もなくキイが『話をしない人といると気が変になる』と騒いでからは同じ部屋になることはなかった。

 キイが息子を亡くして落ち込んでいる、とあちこちから聞いて心配はしていた。

 隣室からキイのものと思われる喚き声が聞こえてきた。

「我慢してね、点滴しないと痛みを止められないの」

 看護師の声も大きい。やゑはこの部屋に来てからこういう声を何回聞いたかと考えた。反対側の隣室二一七号室には、本当に意識が無く栄養剤をお腹のボタンから注入している石川才蔵と、鼻から管が入っている多和田敬という男性が入っている。やゑもそういう一人と考えられて、重症部屋の隣に入れられていた。周りのことがわかる患者にとって、二一五号室の出来事は衝撃的だからだ。

 重症部屋の患者は、三階の容態の思い患者専用の病床へ移るか、救急車で一般病院へ運ばれるか、そのまま亡くなるかのいずれかだ。

  ナースステーションを挟んで向う東側の病室は、口から食べられる安定した症状の患者が多い。ナースステーションの北側は鼻の管や、腹に入れた管やボタンを使って栄養を補給していても安定した経過をたどっている患者や、高見のように院長の知り合いだとか、家族がいつも来る患者が入っていた。

 浴室やトイレがある西側は、玉城玉木や加藤ハナ、小糸キイなど高齢で、いくつかの障害があってもある程度自立した患者たちがいた。

 やゑには、重症部屋の患者の上げる声から少しでも離れられるように考え出した方法がある。出来るだけ、昔の悲しいことや楽しかったことを深く細かく思い出すことだった。涙が流れるほどのことでも、気を紛らわせる役には立った。思いにのめり込み今の自分がどこにいるのか解らなくなることがしばしばあったが、記憶をたどるということが、やゑの記憶力を増すという役割を果たしてもいた。冷酷な現実に戻るのは身の回りの世話をする介護員によってだ。思いに沈んでいる時、夜昼関係なく無言で突然体に触られると、声を上げそうになる。

 やゑはキイに会いたいと思った。どうして『さよなら』と高見のじっちゃんに言ったのか。どうして急に物忘れが激しくなったのか。九十過ぎまで身の回りのことは自分でしていたぐらい気丈だった。息子が亡くなったといっても、ここに入ってから十年以上見舞いにも来たことのない息子だと本人がいっていた。あれほど頭のしっかりしていたキイなのだ。


 夕食が終わって、下膳の台車が部屋の前を通った。

 キイの声がしなくなった。痛み止めが効いたのか。看護師の声もしない。その向うのナースセンターから、心電図モニターの電子音が聞こえてくる。さっきまではなかった音だった。あれはキイのものか。規則正しく打っていた。重症部屋に誰かが入った時、いつも聴こえ始める音。その誰かが、どこかに行くまで続く音。ハルの時もしばらく聴こえていた。

 突然、寝衣を剥がれてやゑは驚いた。電子音に誘われて眠ってしまったのだ。看護師がやゑの腋の中を探っていた。

「変ねえ、無いわ」

 看護師は床頭台の上の体温計を見つけた。

「いやー。誰がぁ」

 脈を五秒ほど測定して、看護師は部屋を出た。やゑは、うっかり自分が体温計を出してしまったことを後悔した。極力目立たないように、寝た振りをして来たのだ。キイのアクシデントがあったからといって、いつもと違うことをしては今までの努力が水の泡だった。

 やゑは意識のない『植物症』と称される状態にいる、と医師をはじめ病院関係者も家族も皆思っていた。


 やゑは七年前、八十五歳の夏、自宅で転倒して右の大腿骨を骨折し、西区の評判の良い整形外科で手術をした。三か月もすると骨折は治ったが、筋力が落ちて、自力でトイレへ行くことができなくなり、車椅子を使うようになった。トイレへのタイミングが合わず失敗することが多くなると、看護師はおむつ使用を勧めて来た。やゑは歩けるようになるまでの辛抱と自分に言い聞かせ、同居の一人息子、忠に買って来てもらったがさがさの紙パンツを穿いた。

 忠が『自分でトイレに行けないのは困る、同居しているが夫婦ともに働いており面倒は見られない』と何度か整形外科の医師やソーシャルワーカーと話し合って、いつの間にかやゑの承諾はないまま稲北病院への転院が決まった。忠は『伝ってでも自分でトイレへ行けるようになるまでの辛抱だ』と説明した。忠の妻の典子は横で黙って頷く。いつもと変わらず、やゑの前では余計な口出しはしない。 

 ここに移った当初、いつか家へ帰れるとリハビリに精を出したが、足腰の力が弱く、車椅子からベッドへの移動や車椅子から便座への移動を一人で出来ない。動く時ふらつくので看護師や介護員は、転ばれたら困ると付ききりで介助する。いつまでも一人でトイレを使うコツを掴めなかった。

 年の暮れ、トイレで介助されている時、介護員がブレーキをかけ忘れて、やゑが坐ろうとした途端に車椅子がずれて尻餅をついた。今度は左の大腿骨を骨折した。痛みは耐えられたが、自分がどうなってしまうのか、不安はやゑの気持ちを苛んだ。

 その日のうちに、忠は病院に呼ばれた。病室で待っていると、小太りの師長と痩せた介護員が病室へ入ってきた。青白い顔で眉間にしわを寄せたやゑが横になっているベッドのそばへ、二人は並んで立った。忠は、転倒し骨折に至った事情を話す師長の言葉に耳を傾けた。

「申し訳ないことをしてしまいました。いつも気を付けていたのに、こんなことになり大変残念です」

 言葉を締めくくり、頭を下げる。痩せ細った介護員は、自分の膝にくっつきそうなくらい頭を下げた。師長が頭を上げても介護員はそのままの姿勢だった。師長に腰を叩かれてようやく頭を上げた時、真っ赤になった顔から、間もなく血の気が引き、よろよろと廊下へ出てその場に昏倒してしまった。

追って廊下で様子を見ていた忠は、廊下で慌てる師長へ、何をか言うタイミングを失い、部屋へ戻った。やゑは鎮痛剤が効いているのかうとうとしているように見える。

 少しすると院長が病室へやって来た。話は、治療方針についてだった。手術するか、保存療法で治癒を待つか。どちらにしても時間がかかることだし、治癒しても、車椅子を使えるようになるかどうかは疑問だという。

忠は振り返り、眼を閉じている母親を一瞬見詰め、病院長に保存療法でよいと返事をした。

「仕方ないです。ここにずっと置いてもらえるなら、手術とかはいいです。もういい年なんだし」

やゑは、忠が師長の謝罪を受ける直前に、病室で『歩けるようになって家に帰りたい。どんなに痛くても手術もリハビリも頑張るから』と懇願していた。

『わかった。頼んでみる』忠はそういったのに、院長の前ではやゑの希望を口にする事は無かった。むしろこの転倒のお蔭でここ置いておける。家へ連れ帰るという選択肢がなくなり、声には、ほっとした微細な調子があった。

 面談が終わって、院長が部屋から出た後も、やゑは目を開けられなかった。忠の顔をまともに見たくなかった。

『忠はどうしてあんなことを言ったのだろう。私はもうあの家へ戻れないのだろうか』

田舎を引き払って忠の家庭に入る形で始まった同居は、やゑの気持ちのそぐわないことが多かったが、典子とは言い争いすらしたことがない。良いと言うより薄い関係だった。それでも一人息子として老いた自分を呼び寄せてくれたことには感謝していた。

『私を連れ帰って』声を限りに叫びたかったが、身体が自由にならない今、もう無理だともわかっていた。

やゑはその日から自ら眠りに入ったともいえる。

自分の状態を受け入れられず、忠の判断が哀しく、眼を閉じたまま誰とも会話出来なくなった。生きる望みも食欲もなく食べられない状態が続いた。両腕が点滴のための内出血やテープ負けで、変色し腫れあがった。食べないとますます意欲が低下し、自分でももう話せないのだと思い詰め、うとうとと浅眠の中で昔の夢を見続けた。目を開けていてもうつろな眼差しには何も映らなかった。


 半年近くそんな状況だった。最初に骨折してから丸一年が経っていた。眼を開けると、忠がそばに立っていた。自分がどこにいるのか見当がつかない。

「ここはどーこだ」幼い忠に話しかけるが返事はない。横になった自分の目線の先にお気に入りのジャイアンツの野球帽を被った忠がいる。

「ここはどーこだ」ふざけて「天国かな、地獄かな」と続けた。

野球帽を目深に被って俯いている忠の返事が欲しくて、顔が見たくてここはどこかを何度も問うていると、急に腹部に痛みが襲ってきて目覚めた。知らないうちに胃に穴を開けられ、管を入れられたのを看護師同士の会話で知った。

 それまでは、食事のたび、食べられないとわかっているのに寝た子を覚ますように頬をたたかれた。胸をこづかれ、無理やり口の中にスプーンを突っ込まれた。時には氷のように冷たいタオルを顎に当てられたり、膳が目の前に置かれると、吐き気が起きた。臭いと食べさせ方への恐怖で。

胃の管から定期的に液体の栄養剤が入れられるようになった。この病院で出来た口内の傷が治ったのと、食事時間の強引な行為が亡くなったのと、点滴で変色した両腕が元の白さに戻ったのだけが良かったことだった。何もかもが変わった。自分では取り返せない変化。強制的に栄養が摂れると体に力が沸き、現実に戻る時間が多くなってきた。人が出入りするたびに漏らす言葉を繋いで、自分の今を知る。

信頼していた忠の決めた事。忠はなぜこういう選択をしたのか。私はどこでボタンを掛け違えたのか。忠は栄養剤を注入するようになってから姿を見せなくなった。


 二階病棟の患者で意識のある人は、今ではやゑが普通に話せるのを知っていた。廊下や病室で一緒になり、周りから看護師たちがいなくなると、みな互いに問わず語りにここへ来た経緯や身の上を話すのだ。自分の心を整理する。悲しみを癒す。さまざまな意味をこめて。話したことは、互いの心にしまわれた。

やゑはこの病院の中に自分のように取り返しのつかない不遇を抱えたものが何人もいるのをだんだんに知って行った。やゑが物言う相手に返事をするようになっても周りの患者は騒がなかった。

いつかやゑは、何人かの患者のかけがえのない聞き功者となっていた。一度死んだ、と思っているやゑにとってこの安逸は、少し先の永い眠りの前の冒険のようなものかもしれない。

 やゑは、何でも解かっており話が出来るようになっていることを、家族や病院スタッフに知られるのを怖がっており、患者仲間はそれを知っていた。


 午後八時過ぎ、看護師が手に三回目の栄養剤を持って入って来た。黙って寝巻きの前を開け、胃の管を引っ張り出す。天井から下がった金具に栄養剤の袋を引っ掛けチューブに液を通し管につなぐ。看護師がチューブの途中についているもので速さを調節して部屋から出たすぐ後、澤口が入って来た。

「これで一時間の猶予だ」

 栄養剤は一時間以上かけて入れることになっていた。終了頃まで、看護師が部屋に来ることはあまりない。

「武さん、キイさんは」

「落ち着いたようだけど、両方の大腿の骨と肋骨三本と頬骨が折れたと看護師が詰所で騒いでいた」

「話せるのなら会いたい」

「やゑさん、何でキイに会いたいのぉ。」

 澤口はやゑがキイにいびられたのを知っていた。やゑの寝たきりが本物でないことを、看護師や医師に訴えた唯一の患者がキイだった。誰もキイの言葉を真に受けはしなかったが。

「武さん、私がこうしているのと、キイさんが惚けた振りをしていたのって、何か似ていると思っていたの。どうしてこんなことになったのか、訊ねたい」

 カーテンを閉め忘れた窓に、灯りに誘われて飛んできた蛾が、バシバシと当たる音がする。雨は止み、風もない。網戸をすり抜けた小さな羽虫が、天井の蛍光灯に何十匹と集まっていた。

「俺が好きなのは、やゑさんのそういうとこなんだよな。なんかさぁ、端っこのところで引っかかっているごみまで一緒に運んでしまう大河っていう感じ」

「よくわからないわね。それ」

 やゑは久しぶりに笑った。ハルが亡くなってから初めて笑った。

「難しいなぁ。やゑさんと前にやったみたいに、病気の振りして重症部屋へ行くって手はあるけど、ここも今は個室だからな。多少のことでは二一六から動けないよ」


 やゑは、大分前、監査が近いのでベッド調整するといわれて、二一六号室で男性と同じ部屋になったことがあった。重症部屋は男女混合になってもやむを得ないという判断があるらしい。三階から来た昼夜逆転状態の認知症患者で、大声で何かと訴え続けるが、看護師は相手にしない。仕舞いに猥褻な言葉で看護師を罵る。やゑに向かってではないが、言葉は我慢の限度を超えるものだった。一日は我慢した。二日目、抗議の声を挙げそうになってしまい堪えた。澤口の協力で調達してもらった水を口から大量に飲み何度も吐いて、重症部屋の危篤状態の女性患者の隣に移った。

 翌日の監査終了後、吐き気がおさまったやゑは二一六号に戻され、喚く男は三階へ戻った。重症部屋の女性は、その夜亡くなった。点滴をされたり胃カメラをしたりと辛い思いもしたが、二日間の辛抱だった。 

 今回、それは無理だろう。

「明日は、私達を車椅子に乗せる日だけど」

「車椅子に乗る、か」

「私はいつもステーションのカウンターの前に置かれるのよね」

 週一度、木曜の午後、車椅子に乗せられた。

 ナースステーションの横は食堂兼談話室だが、栄養剤注入をしている患者は20人以上いるので入りきらず、やゑや石川、多和田等南側の患者はステーションのカウンター前に並ぶのがいつもの習慣だ。

 看護師や介護員は、その間病室に残った患者達に水分を飲ませに入る。ステーションには師長が残っているが、パソコンに向かって仕事をしていることが多く、患者に話し掛けたり、見廻ったりすることは殆んどない。

「それだね」

 二人同時に声を出した。二人とも、あわてて口を押さえた。

「茂に相談してくる。消灯後に、また来るから」

 澤口が部屋から出た途端、重症部屋の電子音が耳に届く。パックの栄養剤は空になっていた。満腹という感覚は無い。胃の辺りがヒヤッとして、暫くすると腹がくちいという感じになった。速く入りすぎると栄養剤が胃から逆流して胸焼けが起こる。時には気管にまで上がってきて熱を出すこともあった。栄養的には満ち足りていても、面倒を見る側のちょっとした手の抜きようで、患者たちの身体の調子が乱れる。

 また雨が降ってきた。風で木々が鳴り、雨に葉が打たれている。窓のカーテンが風に揺れる。雨が入る。半分開いた窓ガラスに流れる雨が映り、やゑの寝姿が映る。白い頭とピンクのタオルケット、九二歳の老女が見えた。

 ワゴンを押して看護師が入って来た。窓から雨が吹き込んでいるのを見て、窓とカーテンを閉めた。

 やゑの寝具を剥いで、胃の管をチューブから離す。この看護師は丁寧な手つきで操作するのでやゑは不愉快な目に合ったことはない。話しかけても解らないからと無言なだけだった。

 看護師が部屋を出て間もなく介護員が二人、オムツの交換と体の向きを変えに入って来た。やはり一言もしゃべらない。


 やゑはオムツをされてはいるが、尿も便も出るのは分かっていた。ハルが『知らせて取ってもらえないこともないが、トイレに行けないのなら、呼ぶ度に嫌な顔をされるより定期的に流れ作業で取り替えてもらったほうが、恥ずかしさが少ない』といっていたのを思い出す。不快感は我慢のうちだが、荒い言葉や態度は、針のように心に突き刺さる。

 消灯になると、物音は、キイの心電図の電子音だけになった。

 足音を立てず、澤口は伝い歩きで玉木は松葉杖で入って来た。枕灯の小さな明かりの中に二人は並んだ。

「今、看護師たちは休憩室で食事をしているから、暫くは時間がある」

 澤口はステーションを指差して話し始めた。

「あの後、茂と相談したんだ。やゑさんが車椅子で出た後、看護師がいなくなったら、茂がやゑさんを二一五号へ押し入れる」

「俺が押す」

「取れる時間は一〇分位。玉木は部屋の中にいて、僕が外。なんかあったらすぐ合図するから、茂は車椅子を部屋から出す。これでどうかなぁ」

「俺は、いつでもやゑさんを出せるように車椅子を出口に向けておく」

「もし看護師に見つかったらどうするの」

 玉木は顔をやゑに近づけて笑顔を作って見せた。口を横に広げ、切れ長の眼を細めると目尻の皺と一本の線になり、奇妙な笑顔になった。

「この顔でごまかす」

「茂の笑い顔ならごまかせる。やゑさんは目を閉じて黙っていること」

「ありがとう。頼むわね」

 澤口と玉木もまたやゑとハルのような療養仲間だった。二人が、食堂兼談話室の窓辺で楽しそうに話をしているのをやゑは何度も見ていた。他愛もない話で、周りのものが訊いていても面白い話ではないが、見ていると釣られて笑ってしまう。笑い転げるのが目的のように、話しては笑っていた。


 翌日の昼過ぎ、休憩を終えた看護師や介護員が二階へあがってきた。

 ケア用品を載せた台車を引き、二一三号から順次オムツ交換に廻る。車椅子で出る患者が、次々と食堂兼談話室へ運ばれてくる。高見のじっちゃんがリクライニングの車椅子に乗せられて出てきた。澤口はナースステーションのそばでじっちゃんに話しかける。

「尻はどうだ。少しはいいのかぁ」

 舌の回らない口調で「すこし良いようだ」と笑顔を見せた。

「今日はやゑも来るかね」

 百二歳の高見だけが患者全員の名を呼び捨てにする。暗黙の裡の年功序列は、男の患者の中だけに在った。女性患者は年齢ではない、微妙な理由の序列がある。

「来るよ」

 介護員が石川を連れてきた。

「澤口さんそこにいたら、自分が出られなくなるよ。よけて」

 澤口は石川をかわし、玉木が自分の部屋の前にいるのを見て、二一五号の近くへいって立ち止まった。

 多和田が出て少ししてから、やゑの車椅子がナースステーションの前に東向きに横付けされた。あれでは二一五号に入れるのには反対向きに直さなければならない。澤口は時間が掛かりすぎるかもと思い悩んだ。

 カウンター上のCDコンポを操作するのにやゑの車椅子が邪魔になったため、看護師がやゑを九十度回転させた。

 民謡がかかった。看護師たちはカップやスプーンを乗せたワゴンに、冷蔵庫から出した飲み物やゼリーを積み病室を廻り始めた。師長はパソコンの前に座りキーをたたいている。

 玉木が松葉杖をカウンターに立てかけ、やゑの車椅子を摑んだ。押して、次に自分が進む。ゆっくりだったが、数分で見咎められずに二一五号に入った。

 室内で向きを変え、今度はキイのベッドのそばへ後戻りする。片足だけなので不安定だ。「玉木さん、これでいいわ。キイさん、聴こえる、やゑよ」

 キイは髪をぼさぼさにして横たわっていた。鼻にチューブが付けられていて眼で辿ると壁に据え付けられたボトルに繋がっている。トレードマークの遠近両用のめがねは外してある。めがねの無いキイを見るの初めてだ。キイはおしゃれが好きでいつもハンカチやスカーフで襟元を飾り、メガネのフレームの色を合わせたりしていた。髪に櫛目が入っていないこともなかった。

「やゑよ。話しをしに来たの。話せる」

 キイの頭が動いた。乱れた髪の中の眼がゆっくりと開いて、やゑを見た。

「どうしてこんなことになったの。あんなにしっかりしていたキイさんなのに」

 キイは眉間の皺を伸ばすように眉を上げ、溜息をついた。

「やゑさん。私は、こんなところに私を入れた息子より先には死なないと頑張ってきた」

 少し話しただけで息が切れ、声が小さくなり喉がひゅーと鳴る。

「でも、あの子は死んでしまった。途端に、頑張れなくなった。悲しくてね。あんな子でも亡くすと悲しいんだね。惚けた振りしてたらそのまんま呆けるかと思ったけど無理だった」

 笑ったのか喉がひくひく動いた。やゑはキイの手を握って両手に包んだ。氷のように冷たく力ない。

「ハルさんのように自分で死のうと思ってね。トイレの棚に打ってある釘に、寝巻きの襟の後ろを引っ掛けて首を吊ろうとしたの。私は重すぎた。釘が曲がって寝巻が裂けて落ちた」

 キイの眼は笑っていたが涙が目じりを伝った。喉がぜいぜい鳴った。

「骨を治しにいかないの」

「たくさん折れすぎていて、この歳だと無理だって。いいさ。あの世へ行ったら息子を直接叱りつけてやる。罰当たりってね」

 廊下の澤口から合図があった。

「キイさん、隣で祈っているよ。痛くないように。辛くないようにって」

「ありがと、ありがと」

 声は消え入り、キイは放心の態で、ひゅーっと息を吐き目を閉じた。幾筋もの涙が目尻の皴を通って耳たぶの下へと流れ枕カバーを濡らした。

 やゑは玉木に押されてもとの位置に戻った。威勢のよい民謡は続いていた。やゑの両目からも涙が流れ出ていた。自分で拭くことができずに流れるにまかせて、声を出さずに。離れたところから高見が何度も頷いていた。

キイの手を握っていたやゑの掌は、冷たさが伝染したのか指先の感覚がなくなるほど冷えきっていた。


キイの心電図モニターの音が聞こえていたのは二週間だった。八月の盆の入りの夜明けに、電子音はリズムが乱れたと思ったら戻ることを繰り返したあと、間が伸び、終いには、次の音が聞こえてこなかった。やゑは両手を組み祈り続けていた。『お疲れ様』電子音が無くなった時思わず口に出してしまった。


午後のいつもの看護師が手薄になる申し送りの時間に、澤口と玉木がそろって部屋を訪れた。この日は例年にない猛暑で、クーラーがなく三〇℃を超える病室は、扇風機が持ち込まれた。森の木々に囲まれていても、日影にならない病室や三階は夕方になっても室温は下がらない。

「涼しいな、この部屋は」

玉木は窓辺まで行き、網戸を開けて窓枠から顔を出す。網戸のレールから羽虫や蛾の死骸が風に乗って足元に零れ落ちる。ひえっと声にならぬ声を挙げ、慌てて松葉杖で後ろへ飛び退く。

「キイさんの右の肺に肋骨が刺さって萎んでいたんだとぉ。医者は年だからふらついて転んだんだ、仕方ないなって言ってた」

 澤口は車椅子をやゑのそばに勧めて小さな声で伝える。玉木や澤口は、食堂兼談話室で無駄話をして過ごしているようで、看護師や医師の話に耳をそばだてていることもある。

「稲北名主って呼ばれるぐらい古株だっていうのもあるし、面倒見良かったから結構慕っている人もいる。みんなショックを受けているよ。首括ろうとしたっていうのは誰も知らないんだ。キイさんから聴いた俺たちだけ。寝間着のV字の襟で首括るなんて、どうやったら考えつくんだ」

 少しばかり怒った口調が、澤口のキイへの気持ちを表していた。キイとは二〇歳くらいの年齢差があり、澤口が三年前にここへ来た当初、自分の病気を受け入れられずに落ち込んでいるところを、母親が息子を叱るような塩梅で、キイに怒られ、慰められて時が経ち、いつの間にか思い切りが付いたということがある。

 カツカツと音を立てて松葉杖で落ちた虫を散らしている玉木が言う。

「俺は寿命まで生きるぞ。まだ食っていない旨いものがある」

 かすれ声でそういうと法令線を深くして笑顔を見せる。

「やゑさんに食う話しをして悪いけど、今度、武さんと外出して、近くに出来た『魂』と言う寿司屋に言って来るんだ」

 澤口が頷く。

「こんって魂って書くらしい。魂込めて作るってことだろ、旨いぞぉ」

 二人の話を聴いていてやゑは救われる。痛ましい死の前にも日常が紡がれる。

「お土産話を待っているわ。そろそろ言った方がいいわよ。今日の夜勤は怖い人だから」

「えっ、誰だ。夜叉か、鬼瓦か、やまんばか」

 玉木の慌て振りにやゑは吹き出すが、声に出さないで笑うのが苦労だった。澤田が『チエックが甘い』と玉木の背中をどやし二人は部屋から出た。

 玉木の閉めた網戸は隙間が空いていた。虫の死骸が挟まっているのだろう。手稲山の麓の夏の夕暮は早い。空はパールグレイに染まり、楡の小枝が小さく揺れるので風があるのが解る。二人が入って来る直前までうるさいほど鳴いていたセミは、玉木が窓辺に寄った時ぴたりと鳴き止み、二人が去っても再開することはなかった。


 フサスグリの実が扇子の上で揺れていた。やゑは自分の顔を扇ぐ、白髪もふわふわと浮く。

 澤口が風に靡く楡の向こうの、稜線のところどころに白い雲を纏う手稲山を見上げながら呟く。

「キイさんは直葬だったんだってさぁ」

「直葬ってなあに」

「ここから直に焼き場へ運ばれて骨になることさ」

 やゑは耳を疑った。そんな遣り方があるのか。戦争中でもあるまいし。口に出していいそうになって止めて思う。長い入院生活は様々な事柄を変える。一番に、世間と言う環境から隔絶され交流が途絶える。次に、身内は不在に慣れ、自分たちの生活のリズムが出来あがる。たまの見舞いも間遠くなり、事務的な手続きだけが結びつけているようになる。月一回入院費を支払いに来るときに、顔を見て帰るのはまだましな家族だ。振込にする家族も近ごろ増えているという。そうなった場合、葬儀がなんの意味を持つのだろう。

『直葬。なるほどね。ふさわしいかも。キイさんも、私もね』

 自分の想いに頷きながら『直葬にして欲しい』と、どう忠に伝えればよいのかを考えると苦笑してしまった。私にふさわしいのは、静かに消えるようにこの世とおさらばすること。おさらばしてからのことは、どうでもよいのだった。

「遺体を引き取りに来たのは見たことのない身内で、キイさんの持ち物は全部処分してくれと置いていくつもりだったらしいが、師長が通帳や印鑑だけでなく荷物も持って行ってご家族で処分してくださいって言ったらしい」

「そういう人のことを世知辛いっていうんだったっけ」

 やゑが今度は澤口に向かって扇子をはたはたと振ると窓から風が入った。澤口はまだ手稲山を見ている。

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短編小説 ラプソディー「風に」 阿賀沢 周子 @asoh

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