<9>【嫁贄ディアドラ】飯の味
魔物たちは、その館を『マヨヒガ』と呼んでいた。
木と草と紙でできた屋敷は、昼日中でさえもどこかに薄暗く、じっとりと湿っぽい。
そして、視界の端に、廊下の隅の暗がりに、全てに、何かが潜んでいる気配を感じる。
ディアドラは、特に拘束されることも、閉じ込められることもなかった。
痛みと出血で気絶して、目が覚めたときにはもう、もがれたはずの腕も元通りだった。四肢の再生治療など、大きな街の神殿で、たんと寄進を積まなければ受けられないものなのに、さて魔物たちは如何なる奇跡を使ったやら。
出された食事も、見知らぬ料理でこそあったが、ネズミやコウモリの煮込みではなく、まともに人が食えるものだった。量はちょっと足りなかったが。
寝て食べて、動ける状態になれば、もうディアドラはじっとしていない。別に待っていたところで状況が改善される保証は無いのだ。
果敢に部屋を出て、迷路のような廊下に一歩踏み出した。
小気味良い包丁の音を聞きつけて、ディアドラが覗いた部屋は、格子窓がある厨房だった。
土を固めた竈が土間に並んでいて、そこでは鍋が煮立っている。
「へえ? あんたが新しい嫁さんかい」
ほっそりとした黒い影が、艶っぽい女の声で言って、包丁を手にしたままこちらに振り返った。
料理に抜け毛が散らぬよう、ゆったりした白衣と三角巾を身につけている彼女は、黒く艶やかな毛並みを持ち、ディアドラよりも背が高い、直立した猫であった。
――
琥珀色の目を持つ彼女は、一見すると
しかし額に小さな角があり、何より、服の裾から覗く尾は、奇妙なことに二本あった。よく見れば足の形も、獣人とは異なり、人より猫に近い逆関節だ。
とにかく、相手が人だろうと猫だろうと、話が通じるなら幸いだった。
「何か手伝える仕事はある?」
「あるよ。猫の手でも借りたい始末だったんだ。
じゃ、そいつの灰汁を取ってておくれ」
猫は気軽く投げ渡すように、ディアドラにお玉を押しつける。
鍋の中では、ぐらぐらと、野菜と謎の肉塊が煮えていた。
人肉ではない、と、信じたい。
「ちょっと火が強すぎるような……」
「なんでい、オイラの火加減に文句があるってのかい」
「ひゃっ!?」
鍋を煮立たせている、竈の火が喋った。
よく見れば鍋の下には、薪も敷いていないのに炎が燃え続けていた。
炎に手足が生えて、小人のような姿になり、真っ赤な服を引っかけて鍋の下から這い出してきた。
「けっ、どいつもこいつも好き勝手に注文付けやがって」
「すねるんじゃないよ、坊」
炎の小人は腕を組んで座り込み、そっぽを向いて、ぶーたれていた。
そこに、針金のように細い手足を生やした素焼きのフライパン(?)が駆けてきて、炎の小人の尻を無言でひっぱたく。
「いってえ!」
炎の小人は竈の中に叩き返された。
それを見て低く笑う声が、天井の四隅の暗がりから聞こえてきた。何かが潜んでいる。
――右も左も化け物だらけ……魔王城って、こんな感じなのかな?
お玉を持ったままディアドラは、半ば呆然と周囲を見回す。
芋を剥いている下働きも、ゴブリンみたいな、だがゴブリンではない小鬼だった。
ディアドラは元々、旅から旅の暮らしをしていた。
その中で魔物を見たり、襲われたことも、幾度もあった。身を守るために知識も付けた。壁の中で安穏と暮らしている人々より、魔物には詳しいはずだ。
だが、この屋敷の化け物どもときたら、何の魔物かさっぱり分からない。目の前で料理をしている黒い化け猫さえも。
ひとまずディアドラは言われたとおり、鍋の灰汁を黙々と掬った。
「私さ……別に何をしろとも言われてないんだけど、『嫁』って結局何なの?
本当にお嫁さんなの? エサのことなの?」
「さあね。旦那様がなさることを、あたしら小さきものの目方で量るのは虚しかろ。
あんたがどうなるも、旦那様次第さ」
化け猫は小鍋で豆を煮つつ、巻物みたいなオムレツを焼きつつ、大釜で米を炊いていた。
腕が四本あるように思えるほどの手際の良さだ。
彼女はほとんど料理の方を見ながら、横目にチラリと、ディアドラの方を見やる。
「でもあたしゃ驚いたよ。
今まで、旦那様の嫁さんで台所を手伝いに来た奴ぁ……
居るには居たけど少ないね。それも三日目ってのは一番早い」
「タダ飯タダ寝は落ち着かない、ってかそんなもん絶対に高利貸しじゃないの。
貸し借りは、作るほど背中に荷物が増えるんだ。だから勝手に返すよ、やれるだけはね」
「いいね、その考え方。
あんたが猫だったらあたしの妹分にしてたのに」
「そりゃどうも」
「……妹分に一つ忠告だ。逃げようとはしないこと」
どくん、と心臓に冷たいものを感じる声だった。
針のように細い瞳孔が、刺すようにディアドラを見ていた。
「行きはよいよい、帰りは怖い。
禄に見張りもいないからね、逃げようとする子は多いんだ。
だけどそしたら喰われるよ。旦那様じゃあなく、周りに居着いてる
旦那様みたいに優しく食べてはくれないだろうね」
思わずディアドラは、格子窓の外に目をやった。
屋敷の周囲だけはよく手入れされていて、青白い霧を透かして日が差し込んでいるのだが、その向こうには何も見通せないような鬱蒼とした森がある。世界の果てまで続いているのではないかと錯覚するほど、深い森が。
木陰の闇が蠢いたように感じ、ディアドラは総毛立つ。
実際、ディアドラの部屋を見張る者も無かった。だからこうして勝手に出歩いているのだ。
静かな庭園を駆け抜けて、森へ逃げ込むのは一見、容易い。
だがその先に人食いの化け物どもが手ぐすね引いて待っているのだとしたら、とんだ落とし穴だ。
「そんな危ない人食い魔物が、居るの?
開拓団に被害は出てなかったと思うけど」
「居るさ!
旦那様が境目を作ってるから、里へ人を食いに行ったりはしないんだ」
「そうだったんだ……」
ディアドラは灰汁を掬いながら驚く。
その話が本当だとしたら、『鬼』が人を守っているようなものではないか。
あながち、信じられない話ではないと思った。
善悪や敵味方という基準を、あの『鬼』に当てはめられるものなのだろうか。
人を守ろうなんて考えは一切無いまま、しかし何か勝手な道理で、結果的に人を守ることもあり得そうだ。
「……一品、私に任せてもらっていい?」
物事はなるべく即物的に見るべきだ、というのがディアドラの考え方だった。
遙か未来のことなど、どうとでも吹かせる。だから、今ここですることに、事の本質が現れるのだと。
そして、世のため人のための働きには誰かが報いるべきだ。せめて労うべきだと。
「いいとも。ただし旦那様の膳に載せられるかは、この、お
黒猫は、追いかけ甲斐のある虫でも見つけたかのように、にんまり笑って、鼻の頭をぺろりと舐めた。
* * *
「食え」
膳とかいう小さなテーブルから、はみ出しそうな大皿に、ディアドラは飯の山を盛っていた。
最初にディアドラが通された、例の奥座敷に今日も『鬼』は居た。
そこにディアドラは料理を運んだ。
「なんだこれは」
「焼き飯。……本当は羊の肉を使うんだけど」
ついでに本来なら使うはずだった香辛料が色々と足りないので、台所にあったもので可能な限り近づけるよう努力をしてみた。
ぶつ切りの肉塊とクルミに似た木の実、調味料を混ぜ込んで、飯を焼いたものである。
『鬼』は褐色の山を見て、これは本当に食べ物なのかと疑問符を浮かべている様子でもあったが、やがて箸を付けた。
そして黙々と咀嚼し、飲み下していく。
「ねえ。
あんたの名前、聞いていい?」
「名前だと?」
「開拓地の人はみんな『鬼』って言ってるし、お屋敷の魔物たちも『旦那様』だもん。
でも、名前くらいあるでしょ」
「それを知ってどうする」
「私だけ名前を聞かれて、こっちはあんたの名前知らないのよ。不公平じゃない」
『鬼』は、少しの間、無言で飯を食っていた。
食いながら考えていたのかも知れない。ディアドラの言い分は顧みるに値するかと。
「『
「クルス……ビ?」
「いつしか皆が、
「ふーん」
奇妙な響きの名前だと思ったけれど、旅をしていれば妙な名前に出会うことなど、いくらでもあった。
名を聞いたところで、目の前の男が何であるかなど変わらぬのだが、どう言えばいいのか、彼の存在が
結局これはディアドラ自身の心の問題だ。
『つまらなそう』とか『不味そう』ですらなく、ただ、黙々と。作業的に。
姿勢だけは芸術的に美しかった。
「すっごい無表情に食うのね」
「味の良し悪しなど、問うに能わず」
「じゃ、美味しいから人を喰うわけじゃないんだ」
ディアドラの一言で、
瞬間、固唾を飲む。
首の後ろに、ひやりとした刃の腹を押し当てられたような感覚。
好奇心は猫をも殺すと云う。触れるべきでない事柄に触れたのだと察するには十分だった。
「……人は、苦い」
膳に目を落としたままで、鬼は、滴る水のような呟きを漏らした。
そして、羽虫を払うように、手を振った。
「もうよい、下げろ」
いつ手足をもがれるのかと、身を固くして構えていたディアドラは、音の無い溜息で肩の力を抜いた。
どうやら殺されずには済んだが、
冬の湖畔のように静謐で、決闘のように緊張感のある食事風景だった。そのことにディアドラは、無性にもどかしさを覚えた。
ディアドラにとって食事の席というのは、やかましくて猥雑で楽しいものだ。
飯を食うことが幸せでないなら、それは悲しい話だろう。……もちろん、メニューは人以外とする。
「次は魚のパイ持ってくるから」
「はあ……?」
捨て台詞と共に、ディアドラは膳を下げる。
労いの料理は未だ役目を果たしていない。それではディアドラの気が済まなかった。
「……ヒヤヒヤしたわよ。あんた、良い度胸だわ」
引き戸を閉めると、廊下に控えていた黎が、にんまり笑って囁いた。
「触っちゃいけない話があるなら先に教えてよ」
「お黎さんは無実よ。旦那様が食べ物として人を好まれないのは、ただの事実だもの。
禁句でもなかったはずよ」
「本当にぃ?」
「本当、本当」
薄暗い廊下は、しっかりした感触なのに、ディアドラが一歩歩く度、小動物の鳴き声みたいに軋む。
足音も立てずに先導する黎は、相変わらず楽しそうで、拍子を取るようにゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
「あんたが絡むと、どうも旦那様は冷静じゃなくなるみたいね」
「そういう言い方されると、なんか怖いなあ」
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