第20話 新たな火種
「ただいま」
「おかえりなさい。会社に寄るって言っていたから、食べてくるかとおもってた」
すでに風呂上がりの格好で佐知子は台所にいた。
「さすがにこの新型感染症の状況で飲みには行けないな。本社はみんなリモートワークでほとんど人もいなかったし」
「それはそうか。お風呂どうぞ」
恭介は言われた通りお風呂で汗を流した後、焼酎の水割りを自分で作って佐知子が用意してくれた夕食を食べた。
「今日も暑かった。私もちょっと飲もうかな」
ほとんど食べ終わって焼酎をちびちび飲んでいると、佐知子がグラスを持ってきて恭介の前に座った。
「新型感染症でも大阪で打ち合わせって珍しいわね」
「うん、次の異動の話だったから、さすがに顔を合わせて話さないと」
「えっ、やっとこっちに戻れるの」
「大分も三年目に入ったしそろそろという話だけど、東京にできる新しい部署の話を聞かされた」
「東京だとまた単身赴任じゃない。二回続けて単身赴任は酷くない」
「もちろんそう言ったよ。一応考えてみとは言ってもらったけど」
「それならいいわね。リモートワークで単身赴任をなくすって言ってたし」
「それが本当ならありがたいけど」
結果的に東京に行くことになればまたその時に話そうと、恭介は今はまだできるだけ佐知子を刺激しないようにお茶を濁した。にもかかわらず、その時なぜだかわからないが佐知子に夢の屋の話をしてみようと思った。選択の余地はないはずだが、佐知子に何を期待していたのか、何と言ってほしかったのか。
「ただ、実は大分でも仕事の話があってね」
「どういうこと」
「ワーケーション事業をやった夢の屋って旅館から、旅館の運営を手伝ってほしいと言われている」
「夢の屋って前に一緒に泊まったところよね。なんで旅館があなたにそんなことを」
「ワーケーション事業以降、旅館の再建のアイデアをいろいろ一緒にやっていて、旅館の皆さんとも仲良くなって、女将から是非にって」
佐知子はグラスの焼酎に口を付けると、ちょっと間をあけて言った。
「そういうことか。女将さんてあのきれいな人よね。そういうことなんだ」
「何を言っている。勘違いするな。新型感染症で大変な旅館経営のアドバイスがほしいと言われているだけだ」
「なんであなたがそんなことしないといけないの。今さら会社辞めて旅館経営なんて。大体そんなことやったことないじゃない。旅館の皆さんて言っているけど、結局女将さんと仲良くなったんじゃないの」
「いい加減にしろ。そんなわけないじゃないか」
恭介はテーブルをたたいて大きな声を上げた。
「ちょっと美人な女将さんにそんなこと言われて本気にして、バカじゃないの。単身赴任で一体何やってるかわかったもんじゃないわ。」
「だれも本気になんてしてない。そういう話があると言っただけじゃないか」
「じゃあなぜそんな話を私にするんですか。やってみたらって言ってほしかったんですか。その気がないならさっさと断ればいいじゃない」
恭介は何も言えなかった。佐知子の言っていることが正論だ。
「まああなたの人生ですから、やりたいなら一人で勝手にどうぞ。こっちはこっちで好きにさせてもらいます」
佐知子はそう言うとグラスを台所へおいて、早々に寝室へ入ってしまった。
「そりゃそうだよな」
恭介は呟いた。佐知子の言うことがいちいちその通りなので、途中大きな声を上げてしまったことが恥ずかしかった。やはり自分は宮本夕希にあるはずもない期待をしていたのだろうか。いやそうではない。これまで大きな組織の歯車として働いてきたが、自分たちの手で新型感染症禍から一つの旅館を立て直す、純粋にそこに興味が沸いたのだ。佐知子に言われてはっきりとそれが分かったことで、佐知子に話してよかったのかもしれないが、この後の夏休みの間佐知子とどう接すればいいか悩ましかった。
この年の夏休みの間、長男堅太郎の進路のことでも佐知子とひと悶着があった。
大分へ戻る二日ほど前の夕食のあと堅太郎が自分の部屋から降りてきて、パンフレッツのようなものを差し出した。
「大学のことなんだけど、アメリカの大学で水泳をやってみたい」
「アメリカって一体どういうこと。いくつかの大学から推薦入試の話がきているじゃない」
あまりにも唐突な話に佐知子が取り乱したように叫んだ。堅太郎は高校三年生で進路を決める時期であったが、オリンピック東京大会の選考標準タイムにはわずかに届かなかったものの全日本の合宿にも参加したことで、次の大会での代表入りを期待されるレベルにまでなっていたことから、三年生に上がった春ごろには東京や関西の複数の大学からスポーツ特待生での入学の打診がきていた。実際に大学の練習にも何度か参加しに行ったこともあった。
「どういうことなのか説明してくれるか」
恭介は佐知子をなだめるためにもわざと淡々と堅太郎に聞いた。
「実際に練習に行ってみたり先輩の話も聞いてみたけど、百人近く部員がいてなかなか練習できなかったり、いまだに昔ながらの根性論の指導が根強いみたい。それだとこれまでと何も変わらない。全然魅力を感じないんだ」
「だからってアメリカの大学ってどうやって行くの」
佐知子はまだ興奮気味だ。
「全日本の合宿でオリンピック代表の荻原さんと仲良くなっていろいろ話をさせてもらったんだけど、海外の指導はまったく違う、少人数だしコーチが偉そうにすることもなく、科学的な根拠をもとに一人ひとりに合わせた指導をしてくれる、行ったら絶対に伸びるからって。それでここを教えてくれた」
そういって持ってきたパンフレットを指した。それはスポーツ留学を専門に扱っているエージェントのパンフレットだった。野球やサッカーをはじめ海外で活躍するプロ選手が大勢いる。大半は日本の高校、大学からプロに入り海外へ渡るが、最近は早いうちから海外で勉強しながらスポーツの専門的な指導を受ける選手も増えているそうだ。しかしそういったアスリートを海外の大学とつなぐ専門のエージェントがあることを恭介は知らなかった。パンフレットを開いてみると、実際にアメリカの大学を中心に様々な競技で活躍している選手たちが紹介されていた。
「日本のスポーツがまだまだ古い体質なのは分からなくもないけど、だからといってアメリカって、学費もどれだけかかるかわからないし。そもそも英語もできないじゃない」
恭介は佐知子が言うのを聞いていた。それは一理ある。
「四年制大学は学費が高いので、まずは二年制のコミュニティカレッジ、短大に入る。そこなら学費は日本の大学と変わらない。そこでいい成績を残せば、四年制大学から奨学金付きで編入オファーをもらえる。ここに載っている人はみんなそうやっていった人たちだ。もちろんコミュニティカレッジに入るには一定の英語力は必要だけと、そこはこのエージェントが提携している英語塾で勉強できる。四年生大学へ行けるかどうかはわからないし、大変なのはわかっているけど、もともと英語は嫌いじゃないし日本の受験勉強のようなことをするより全然いいと思う」
「そこまで調べているのか」
恭介自身は田舎町の出身で、地元の高校から大学に行くことしか考えられなかったし、それ以外の道を認めるような両親でもなかったので、世間一般通りの普通の人生だった。もちろんそんな人生でも十分幸せだったが、堅太郎が自分の進路を考えて自身で進みたい道を探してきたことがうれしくもあった。
「東京の大学に行っても一人暮らしでお金はかかるし、自分がここと決めたところで頑張れるならそれもありかもしれないな」
「そんな、アメリカなんて遠いところに行って何かあったらどうなるの。大学出てその後はどうするんですか。就職だってどうなるの」
佐知子はますます興奮して半狂乱に近い状態だ。
「どうせ家から出るなら東京もアメリカも関係ないんじゃない。日本にいれば安心でもないし、就職なんてその時考えればいい。若いうちにしかできないし何年か回り道したっていい。思い切ってやればいい」
「そこまで言うならあとはあなたと堅太郎で全部やってください」
佐知子はそういうと食器の後片付けを始めてしまった。
「そうは言っても海外で生活するのは大変なことだし、そもそも受け入れてくれる大学があるかもわからないから、あくまで一つの選択肢として考えてみたら」
「エージェントが大学へ動画を送って受け入れ先を調査するところまでは無料でやってくれるので、さっそく頼んでみる」
堅太郎は佐知子のほうは見ずに、そう言って部屋に戻っていった。
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