第18話 夢の屋
新年度スタートのバタバタとゴールデンウイークをはさんでなかなか時間がとれず、恭介がようやく夢の屋を訪れたのは梅雨入りしてすっきりしない天気が続く六月の半ばだった。ここしばらくはなんとなく休みの日の日帰り温泉からも足が遠のいていた。今日はワーケーション事業の際に導入したインターネット環境の点検と、今後の相談という名目で夕希にアポを取った。
アポ取りのため電話をした際、
「もう来て下さらないのかと思ってました」
と夕希は笑って言った。
導入後の点検はサポート部の所掌で営業部長自らが出向くものではないが、ワーケーション事業の成功で夢の屋は恭介の専属ユーザという暗黙の了解があったため、社内で怪しむものはいなかった。昼食を取った後、恭介は一人で社用車を運転して夢の屋へ向かった。朝から雨雲が垂れ込め、別大国道から別府湾の向こう側に見える国東半島は霞んでいた。カーラジオからは相変わらず新型感染症感染状況のニュースを繰り返していた。それを何となく聞きながら、恭介は夕希と何を話せばいいか考えていた。もちろん訪問の目的である仕事の話をすればいいはずだが、仕事だけでなく夕希と楽しく話せる自然な話題はないかと探していた。自分は何を期待しているのだろう。いい歳してばかじゃないか、大阪に家族もいるのに。と、夕希に会える期待とそれを打ち消す冷静な気持ちが、何度か行ったりきたりしてしているうちに夢の屋に到着した。
「どうも、こんにちは」
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
夕希は凛とした着物姿で玄関口に立って出迎えてくれた。
「ご無沙汰していまってすみません」
「本当ですよ。あんまり来てくれないんで、他社さんへ浮気するとこでした」
夕希は唇を尖らせるようにそう言うと、恭介へ笑いかけた。浮気と言われて恭介は一瞬心臓がとまる思いだった。夕希はわざと言ったわけではないはずだが、過剰に反応してしまった自分が恥ずかしかった。顔が赤くなっていな心配だった。
「さっそく各部屋の点検からさせていただきます。インターネット接続でお客さまからなにかご不満やご要望をいただいたりしていませんか。例えば特定の場所でつながりにくいとか」
平常心を保とうとあえて無駄話をすることなく、仕事の話を進めることにした。
「特にそういうことは聞いていないですね。ワーケーションでいらっしゃった皆さんも速度が速いとご満足いただいていました」
「そうですか、それはよかった。念のため一通り確認させていただきます」
「お願いいたします。私はフロントにいますので、終わったら声をかけてください」
恭介は持参したタブレットを開いて、各部屋のインターネットの接続状況を確認していった。さすがどの部屋も館内のスペースも清掃が行き届いていて清潔感は変わっていなかった。ワーケーション事業を開始するにあたって、恭介も設計から工事まで一貫して携わったため、館内の状況はすべて把握していたので、迷うこともなくくまなくチェックし、一時間もかからず終了した。
「宮本さん、終わりました。特に問題はありませんでした」
フロントに戻って、夕希に言われていた通り声をかけると、フロントの奥のオフィスにいた夕希が出てきた。
「ありがとうございました。問題なくてよかったです」
「他社に浮気でもされたら大事ですから。しっかり見させていただきました」
「もしかして気にされていたんですか。ちょっと意地悪言ってみただけですよ」
「もう、勘弁してくださいよ」
ようやく自然と笑って会話ができた。
「コーヒー準備していますから、座って下さい」
夕希は窓際の休憩スペースを指して言った。
「ありがとうございます。それでは少しだけ」
恭介が一枚木のテーブルに着いてしばらくすると、夕希が二人分のコーヒーとケーキをプレートにのせて出てくると、恭介の前に座った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「このコーヒーもケーキも最近別府で評判のお店から仕入れています。こういう時なので別府全体で頑張っていかないと」
夕希は力を込めるように言った。別府のような観光地では新型感染症ウイルスの影響は計り知れない。夢の屋はワーケーション事業の成功で注目され一時的に宿泊客も戻っていたが、そのことで古くからの同業他社がやっかみ、あることないことを吹聴されたこともあったようだ。それでも夕希は全く相手にすることなく、逆にこの苦境を乗り切るため別府の若手経営者たちで勉強会を立ち上げるなど、精力的に動いているようだった。
「佐藤さんに言われた言葉がきっかけだったんです」
唐突にそう言われて恭介は戸惑った。
「私何か変なこと言いましたか」
「いえ、ワーケーション事業の時に来ていただいたときのことです。『今の環境を受け入れる覚悟を持てれば、後は前に進むだけだ』って」
「そうでしたっけ。すみませんあんまり覚えていないです」
実は恭介ははっきり覚えていたのだが、あまりに恥ずかしくあえて覚えていないふりをした。
「そう言われて私本当にそうだなって思ったんです。両親が突然いなくなってここに戻ってきて、自分で継ぐと決めたにも関わらず、ずっとどこかでなんで私がって思いもあったんです。でも佐藤さんに言われて、覚悟が足りてなかったんだと思い知らされました」
「そんな深い意味で言ったつもりはないですよ。あなたはこれまで十分頑張ってこられた」
「いいえ。でも今は違います。新型感染症禍の環境を受け入れてできることを考えればいい。そう思ったら気持ちがすごく楽になって、同じ世代の仲間に話してみたら、みんなも共感してくれて。そのまま別府をどうやって盛り上げるかという話になって、いろんなアイデアが出てきたんです」
夕希は目を輝かせながらそう話した。確かに初めて会った頃と比べるとずいぶん生き生きとしているように感じる。
「私はそんなつもりで言ったわけではないんですが、それがきっかけになったのならうれしいです」
これは恭介が社内でも常々言っていることでもあった。成果がでないとどうしても周りに原因を押し付けたくなる。やれ景気が悪いだの、やれ人手が足りないだの、気持ちはわかるがそれを言っていても何も解決されない。結果や環境を冷静に受け止めれば、その中で内をすべきか考えることができるはず。恭介はそういう考えで仕事にも家庭にも向き合ってきたつもりだった。
「佐藤さんには本当にいろいろと助けていただいたと思っています。可能であればこれからも私を助けてほしいです」
「それはどういう意味でしょう」
夕希がほんの一瞬黙ったがそれが妙に長く感じた。恭介は次に夕希が発する言葉を想像して鼓動が速くなるのを感じていた。
「佐藤さん」
夕希が向き直って、力のこもった目でまっすぐ恭介を見つめた。
「この夢の屋を私と一緒にやってみませんか」
彼女と一緒にこの夢の屋を?この人は一体どういうつもりそんなことを言っているのだろう。恭介の頭名の中で様々な想像が駆け巡り、なんと返事していいのか全く分からなかった。
「ごめんなさい。いきなりそんなこと言われても困りますよね」
「いえ、ちょっとパニックになっています。どういう意味なんでしょう」
「言葉通りです。おそらく今ほどのお給料は出せないと思いますが」
給料などどうでもいい。恭介が聞きたいのはそこではなかった。
「なぜ私なんですか。お気持ちはありがたいですが、私には妻も子どももいます。そんな簡単な話ではないです」
「誤解をさせたのならすみません。そういう意味でお願いしたのではありません。あくまでビジネスパートナーとしてお願いしたいのです」
「ビジネスパートナーですか」
「そうです。実務は今いる社員でなんとかやれそうですが、このまま新型感染症禍が続けばいずれ行き詰ります。少し先を見た新しいアイデアや業務改善を提言してほしいんです」
なんとなく残念なようで納得したような気持ちで夕希を見つめていた。
「買いかぶりすぎですよ」
「もちろん男性としても魅力的だと思いますが、佐藤さんには素敵な奥様がいらっしゃいます。前にお泊りいただいたときに、本当に楽しそう食事されているのを見て、この二人の間には誰も入り込むことはできないだろうなと感じていました。佐藤さんと一緒に仕事をさせていただいて、佐藤さんみたいな人が人生のパートナーになってくれたらと思ったこともありました。でも今は違います。佐藤さんから言われた一言で覚悟ができたというか、自信が持てたような気がするんです」
「そこまで言われるとさすがに恥ずかしいです。私はただ自分の仕事をしただけなのに」
「実は勉強会のメンバーの一人とお付き合いを始めたんです。このコーヒー豆を作っている方です」
「そうですか、それは本当によかった。これまで苦労した分うまくいくといいですね」
変な期待を勝手に想像していた自分が本当に恥ずかしかったが、夕希にそのように思ってらっていたことは悪い気はしなかったし、正直な気持ちを聞いてこれからも応援したい気持ちになった。
「大阪に家族がいますし、今の会社での立場もあります。先ほどの話は少し考えさせてください」
「もちろんです。どんな形でも結構ですので、これからも夢の屋のことをお願いいたします」
「わかりました。私に何ができるか、考えてみます」
夢の屋を後にして社に戻ると、昨年受注した某自治体のシステムで障害が発生していて、その対応に夜遅くまでかかりきになってしまったため、夢の屋での話はすっかり頭から消えていた。何とかシステム障害も復旧し、日付が変わる頃コンビニ弁当を買って部屋に帰って一息ついたら、急に夢の屋のことが思い返された。さてどうしたものかな。恭介は考えがえようとしたが、どうしても頭がついてこずその日はそのまま布団に倒れこんだ。
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